後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ざわわ ざわわ、この悲しみは消えない、沖縄戦の悲しみ」

2024年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争において、日米の最大規模で最後の戦闘となったのが沖縄戦でした。1945年3月26日から始まり、6月23日に終わりました。
沖縄の日本側犠牲者は約19万人でアメリカ側犠牲者は14000人で他に何万人もの負傷者がでました。
沖縄戦に関する多数の本を読むといかに悲惨な戦争だったかがよく分かります。
沖縄本島は勿論、石垣島や周辺の島々でも熾烈な戦いがあったのです。
沖縄諸島には悲しみの声が埋まっているのです。白いサンゴ礁に砕ける美しい波は悲しみの歌を唄っているのです。
最後の激戦地となった糸満市では遺族などが参列して、毎年、戦没者追悼式が開かれます。
沖縄戦の数々の悲しい戦争のようすは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6 に詳しく掲載されてます。
そこで今日は全ての犠牲者の鎮魂のために、「さとうきび畑」という詩を謹んでお送りいたします。

「さとうきび畑」、 寺島尚彦、1964年作詞・作曲

1.
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日も見渡すかぎりに
みどりの波がうねる
夏の陽ざしのなかで

2.
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
昔海のむこうから
いくさがやってきた
夏の陽ざしのなかで

3.
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
あの日鉄の雨にうたれ
父は死んでいった
夏の陽ざしのなかで

4.
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
そして私の生まれた日に
いくさの終りがきた
夏の陽ざしのなかで

5.
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
風の音にとぎれて消える
母の子守(こもり)の歌
夏の陽ざしのなかで

6.
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
知らないはずの父の手に
だかれた夢を見た
夏の陽ざしのなかで

7.
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
父の声をさがしながら
たどる畑の道
夏の陽ざしのなかで

8.
ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
お父さんて呼んでみたい
お父さんどこにいるの
このままみどりの波に
おぼれてしまいそう
夏の陽ざしのなかで

9.
ざわわ ざわわ ざわわ
けれどさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が通りぬけるだけ
今日も見渡すかぎりに
みどりの波がうねる
夏の陽ざしのなかで

10.
ざわわ ざわわ ざわわ
忘れられない悲しみが
ざわわ ざわわ ざわわ
波のように押しよせる
風よ悲しみの歌を
海に返してほしい
夏の陽ざしのなかで

11.
ざわわ ざわわ ざわわ
風に涙はかわいても
ざわわ ざわわ ざわわ
この悲しみは消えない

この曲、「さとうきび畑」はすぐに森山良子が歌い有名になりました。www.youtube.com/watch?v=9xUyfxW0TTU
その後、新垣 勉さんが歌っています。https://www.youtube.com/watch?v=m3gCG3xIFC8
激戦地であった沖縄の平和の礎の碑の写真と石垣島のさとうきび畑の写真をお送りいたします。
さとうきび畑の写真の出典は、
http://www.studio-bythesea.com/pho.../cat11/okinawa/post_14/ です。

「日本の最西端、与那国島の家の写真」

2024年08月01日 | 写真
日本の最南端、与那国島の家の写真をお送り致します。
与那国島の多くの人はエアコンつきの近代的な家に住んでいます。これらの写真は与那国島の伝統的な家の写真です。
写真はインターネットからお借りしました。
 

「沖縄周辺に散在する離島への旅」

2024年08月01日 | 旅行記
沖縄ぼ周辺には実に数多くの離島が散在しています。ある離島愛好家それらの沖縄の離島を訪問した旅日記の抜粋をご紹介致します。
詳しくは、https://okinawa-labo.com/ishigakiisland-isolatedisland-12561 をご覧下さい。
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「石垣島からゆく離島めぐり!9島紹介&体験レポ」

沖縄をとことん満喫したいなら、離島トリップが最適です。
「これぞ沖縄!琉球!」という町並みや、(ありきたりな表現ですが)夢のような美しさの海・緑・星空が楽しめます。
石垣島離島ターミナルからは毎日何便もの離島往復船がでていて、とっても手軽に離島めぐりが楽しめるんです。
行けるのは八重山諸島の9島。石垣島は、美しい島々からなる「八重山諸島」の中心的な島。ここからは9つの島に渡ることができます。
西表島(いりおもてじま)
由布島(ゆふじま)
竹富島(たけとみじま)
小浜島(こはまじま)
黒島(くろしま)
波照間島(はてるまじま)
鳩間島(はとまじま)
新城島(あらぐすくじま)/別名:パナリ島
与那国島

一泊推奨の島も
西表島・竹富島・小浜島・黒島・波照間島・鳩間島

・由布島
…西表島から水牛車で渡ります。干潮時は歩いて渡ることもできるくらいの距離です。
・新城島
…日帰りツアーへの参加、もしくは島内唯一の民宿に宿泊予約をして、宿に船の手配をしてもらうことで行けます。観光客向け定期就航便はなく、日帰り訪問できません。
・与那国島
…飛行機かフェリーかを選べますが、おすすめは飛行機です。
飛行機はJALグループのJTAが運航しており、一日3往復。欠航はほぼ無く、フライト時間は30分ちょっとです。

最後に4枚の風景の写真をご紹介いたします。
詳しくは、https://okinawa-labo.com/ishigakiisland-isolatedisland-12561 をご覧下さい。




「離れ島の沖縄の風景と水牛とガジュマルの写真」

2024年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム
沖縄は離れ島の世界です。沖縄本島の他に宮古島、石垣島、西表島、波照島、竹富島、伊江島、などなど多くの美しい島が散在しています。
沖縄へは2002年以来、4回観光旅行に行きました。レンタカーで観光客の行かない淋しい島へも行きました。自然の美しさは圧倒的です。想像以上です。今日はその美しい沖縄の島をご紹介致します。美しい沖縄ですが沖縄には悲しい歴史があるのです。琉球王朝時代の悲しい歴史。第二次大戦中の悲惨な歴史。そして今も続く基地の広大さ。沖縄の人々の悲しみは現地へ行ってみてやっと少し分かります。沖縄の自然の美しさはいろいろな本に書いてあります。いろいろな写真集もあります。しかし私が特に感動した写真集は和田義明さんのフォトギャラリー(http://wadaphoto.jp/japan/oki0.htm )です。
そこでまず和田義明さんの写真をお借りして沖縄の美しい自然をご紹介致します。1番目の写真は沖縄本島に西に見える伊江島です。海の碧さが違うと思いませんか。2番目の写真はは沖縄本島の西海岸にあるホテルです。海が綺麗な上に、ホテルが立派で、格安で素晴らしいサービスなのです。3番目の写真は西表島から由布島へ浅瀬を渡る水牛車の光景です。写真では分かりませんが水牛の動きがゆうゆうとして、この世のものではない動きをするのです。御者がジャミセンを弾いて琉球時代から伝わる民謡を不思議な節回しで唄います。4番目の写真は仕事を終えた水牛がのんびりとしている光景です。由布島は熱帯植物園の様です。5番目の写真は西表島にある川を観光船で遡った時の岸辺の風景です。ガジュマルが水の中へ根をおろしているのが見えます。川を数キロ遡ると熱帯林の中で下船して、林の中を散策します。幹が平らに数か所分かれて地中へ入っている板根というものがあります。異境へ踏み込んだ気分になります。

伊江島や沖縄本島の西海岸や水牛車やガジュマルの写真をお送り致しました。

「日本とは非常に違う琉球、沖縄の歴史」

2024年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本の領土は北海道から沖縄までの長い列島にまたがっています。従ってその地方や地域の歴史は随分と異なっています。日本の南端の沖縄の文化も非常に違い興味深いのです。ここにも何度も行ました。興味深い所です。
さて沖縄の歴史はどんなものだったのでしょうか?
簡略に書けば本州、九州、四国にあった縄文時代、弥生時代、古墳時代は沖縄には存在していません。石器時代に続き貝塚時代が鎌倉時代の頃まで続きます。
そして12世紀に農耕が普及し豪族たちが石垣で館を囲った「グスク時代」が始まります。
3人の豪族が沖縄本島を3分割するようになると、その時代を三山時代といいます。
その後1429年に尚巴志(しょうはし)が三山を統一し「琉球王国」が誕生することになるのです。
この第一尚氏王国は第二尚氏王国へと発展し「琉球王国」は合計約450年続きます。
この450年の琉球王国の文化は、現在の沖縄人が誇りにしている伝統文化です。
しかし明治維新後の1879年に明治政府は琉球を日本に合併して沖縄県としたのです。これを「琉球処分」と言います。
1番目の写真は沖縄の歴史を本州、九州、四国の歴史と比較した年表です。
出典は以下でhttp://www.tabirai.net/sightseeing/okinawa/info/about/history.aspx 
話は変わりますが沖縄に観光旅行に行くとバスガイドさんが人頭税の石碑のところに案内し、薩摩藩の過酷な税金徴収の話をします。これは薩摩藩による琉球侵攻(1609年)の後で琉球王国が薩摩藩の属国のようになった以後ことです。
薩摩藩の属領のような状態があったので明治政府の琉球処分があまり大きな抵抗が無く進行したのです。
ここで琉球文化の一端を示す写真を掲載します。
2番目の写真は琉球王国の首里城です。立派に復元されて沖縄の中心の那覇市にあります。
3番目の写真は琉球文化が展示してある琉球村です。
4番目の写真は琉球王朝時代の踊りです。日本には無い華やかな踊りで中国の踊りのようでした。
5番目の写真も琉球王朝時代の踊りです。中央の玉座は中国と同じです。
さてもう少し詳しく沖縄の歴史を見てみましょう。以下は1番目の写真の出典を分かりやすく抜粋したものです。
(1)先史時代の沖縄と古琉球時代
沖縄は約1万年前までは大陸と繋がっていました。沖縄では東南アジアに生息する動物の化石が発見されていることから、人間も動物を追って大陸からやってきたといわれています。
昭和42年(1967)沖縄県具志頭村(現・八重瀬町)で化石人骨が発見され、その後の発掘調査により、1万8000年前の人骨であることがわかります。これは「港川人」と命名され日本の旧石器人として世界の考古学界では有名です。
このほかにも沖縄各地で旧石器時代の化石人骨が発見されています。しかし当時の生活に関する遺物は発見されていないため、当時の暮らしがどういったものかは不明です。貝塚が発見されるなどから海辺で魚介類を採取して生活していたことがうかがえるだけです。
古琉球時代になると、長く続いた貝塚時代のあと農耕文化へと移ります。社会を形成し、各地には按司(あじ)と呼ばれる実力者が出現し、グスク、城が築かれることになります。その後、勢力争いへと発展していき沖縄本島を北山、中山、南山の3つの「三山時代」へと時代は変わっていったのです。
(2)グスク時代、各地に城が出来た時代:
海辺の生活から平野部、台地へと移り住み、農耕社会へと変わっていくのと同時に、集落が形成されます。このころから村の守り神としての拝所、「聖地」が作られています。一方、海外交易も盛んに行われるようになり、交易で得た富や権力を元に按司(あじ)が地域を治め、各地に城、グスクを築き支配力したのです。勝連城をはじめとする有名なグスク以外にも沖縄各地には、当時のグスクの石垣が現存しています。この頃は日本では鎌倉時代にあたります。
(3)三山時代:
グスクを中心とした各集落では、農耕社会が形成されるとともに、作付け、収穫などの共同作業が必要となり集落内での協力、集落外との交流が始まります。今につながる「ゆいまーる精神」が培われたと言われています。浦添、読谷、中城、勝連、佐敷、今帰仁といった良港をもった按司は、その勢力をさらに拡大させて行き、やがて按司を統率する「世の主」が現れ、今帰仁を中心とした「北山」、浦添を中心とした「中山」、大里を中心とした「南山」に大きな城、グスクを築城して、沖縄本島を3分割する三山時代となったのです。
これを三山時代といます。
(4)琉球王国誕生(第一尚氏王朝)
三山時代に終わりを告げるのは、1429年。佐敷の按司であった尚巴志が琉球統一を図り、首里城を整備し琉球王国の中心に据えた頃です。
これを第一尚氏王朝と呼んでいます。琉球王国の政治、文化の中心であった首里城では、中国からの使者「冊封使」が訪れるようになり、もてなしの儀式や宴会などが催されたのです。
(5)第二尚氏王朝:
第一尚氏王朝の第5代王・金福が亡くなると、再び武力による権利争いが起きたが、跡を継いだ尚泰久が王位につくと、仏教を重んじて寺社を建立したり、「万国津梁の鐘」を作ったりと、琉球王国の平穏化に尽くしました。
その後、護佐丸・阿麻和利の乱を治めた尚徳が王位につきます。これが第一尚氏王朝の最後の王でした。先の王朝の官僚であった「金丸」が即位し、尚円と称することとなり、これが19代続く第二尚氏王朝の始まりです。そして本格的な王朝の繁栄が訪れたのです。
しかし薩摩藩による琉球侵攻(1609年)により、第二尚氏王朝は薩摩藩の実質統治下に置かれることとなったのです。
(6)1879年の琉球処分によって沖縄県となす
1609年の薩摩藩の侵攻があっても沖縄は文化的には琉球王朝の文化が栄えたのです。沖縄は本州、九州、四国とは随分と違う異国だったのです。
(7)アメリカ軍の沖縄占領
その沖縄県では太平洋戦争の末期には米軍が上陸し、約10万人もの犠牲者を出したのです。その半分以上は民間人です。
アメリカ軍の戦死者も16000人も出た激しい地上戦だったのです。そして戦後、沖縄の人々は広大な米軍基地の問題で苦しみます。
(8)沖縄の日本への返還
沖縄は、第二次世界大戦の旧連合国の対日講和条約として1951年(昭和26年)に署名され日本国との平和条約においてアメリカ合衆国の施政権下に置かれました。そこでアメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を設置し、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設立するなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカ政府が握ったままであった。
しかし 1971年にアメリカ軍基地を県内に維持したまま返還が決定し1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰したのです。

今日は沖縄の歴史と文化をご紹介いたしました。縄文時代が無かった沖縄の歴史は日本とあまりにも違うのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)