後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本にプロ野球が誕生したいきさつ」

2024年08月04日 | 日記・エッセイ・コラム
日本にプロ野球が誕生したいきさつです。仙台では八木山の吊り橋とベーブルースが自慢だった頃のことです。昭和のはじめの頃の話です。
1934年にアメリカ選抜チームが日本にやって来て、ベーブ・ルースらがホームランを打ったのです。そして日米試合がきっかけになり1934年の12月に現在のジャイアンツの前身の大日本東京野球倶楽部が発足したのです。それが日本のプロ野球の歴史の始まりです。今年が90年目になるのです。
この1934年にはアメリカ選抜チームが日本の各地でも試合をし、野球というものを広く日本人に見せてくれたのです。
私の生まれ故郷の仙台にも来て、八木山球場でベーブ・ルースが2本のホームランを打ったのです。私は1936年生まれなので見てはいません。
しかし八木山球場の近くに住んでいたのでこの八木山球場は勝手に走り回れる格好の遊び場だったのです。当時は戦争で野球もする人が無く、球場は荒れ果ていました。グラウンドにはススキが繁り、隠れん坊に丁度良かったのです。
ベーブ・ルースの事はよく聞いていましたので、その真似をして石ころを棒で打って遊んだものです。
その八木山球場は八木山吊り橋の近くにありました。伊達政宗が作った仙台城のあった城跡に続く山にあったのです。

1番目の写真は八木山吊り橋です。吊り橋の手前が青葉城跡で向こう側に八木山球場がありました。

2番目の写真は八木山球場の跡地に立っているベーブ・ルースの銅像です。2002年にベーブ・ルースが初めてホームランを打ちこんだ外野席の地点に写真のような銅像を建てたのです。

それは昭和9年11月9日の寒い朝でした。ベーブ・ルースやルース・ゲーリックをまじえた米大リーグ選抜チームが函館から仙台駅に着きました。仙台の城山の後に広がる八木山球場で全日本チームと試合をしたのです。
試合は好天に恵まれ、米国選手の灰色のユニホームに真紅のレザーコート姿が八木山球場の周りの森の緑と鮮やかなコントラストをつくり美しい風景です。アメリカチームはあわせて5本のホームランを打ったのです。ルースは日本に来て初めて2本のホームラン打ったほか、ゲーリック、フォックス、ミラーは各一本打ちました。試合は7対ゼロで米チームの圧勝です。
この年、日本の野球界にとっては画期的な事が起きました。年末に我が国初めてのプロ野球チーム、大日本東京野球倶楽部(巨人軍の前身)が創立されたのです。投手の沢村栄治、スタルヒン、内野手の三原脩、水原茂などの19名です。そして翌年6つの球団が生まれたのです。
それから茫々90有余年、プロ野球チームの楽天が仙台に出来たのです。仙台の市民は大喜びです。そして戦前にベーブ・ルースが八木山球場で2本のホームランを打ったことを語り継いでいます。

日本にプロ野球が誕生したいきさつと仙台の八木山の吊り橋を簡単にご紹介いたしました。

「故郷、仙台の評定河原と隠れキリシタンたち」

2024年08月04日 | 日記・エッセイ・コラム
生まれ育った仙台に評定河原という広い場所があります。広瀬川の岸で青葉城跡の下です。私の家があった向山から近いのでよく遊びに行った場所でした。
その評定河原は江戸時代に裁判や処刑に使われた河原です。現在は球場と広い陸上競技場になっています。
それらの前は、早川智寛(元仙台市長)が作った早川牧場でした。19 40年、旧制二高の主催で旧制高校の全国大会が仙台で行われた際には、主要会場になりました。
しかし仙台藩の初期には隠れキリシタンも裁判を受け近くの川岸で処刑されました。
その後評定所内の処刑場は寛文6年(1666年)に、広瀬河原に近い米ヶ袋的場付近に移り、処刑場は七北田に移りました。現在の七北田橋の南方県道筋の丘の上です。
評定河原の写真をお送り致します。

1番目の写真は評定河原から見た青葉城跡の山です。左手の山は伊達政宗の御霊屋のある経ケ峰です。

2番目の写真は評定河原にある広い陸上競技場です。余談ながら家内は結婚前にこの写真の右奥の花壇住宅に住んでいました。よく2人で散歩した懐かしい場所です。

さて仙台市の広瀬川のたもとに「仙台キリシタン殉教碑」があります。
この殉教碑は、岩手県奥州市水沢で捕えられたポルトガル人の宣教師カルヴァリヨ神父と信徒ら9名が、極寒の広瀬川で殉教したことを顕彰するために建てられたものです。

3番目の写真は仙台キリシタン殉教碑です。
中央にカルヴァリョ神父、両脇に武士と農民、3体の像、製作は、故深沢守三神父。

4番目の写真は仙台キリシタン殉教祭です。広瀬川に向かって黙祷しています。背景に仙台大橋が見えます。

殉教碑建設を発案し事業推進を担ったのは当時の「仙台地区壮年連盟」で、1971年9月に完成しました。
それ以来、毎年2月最後の日曜日にこの殉教碑のもとで、「仙台キリシタン殉教祭」が行われるようになりました。

さて「仙台キリシタン殉教録」によると彼らの殉教の様子は次のようでした。
以下は、「陽だまりの丘」、https://webmagazin-amor.jp/2018/09/22/tokushu23_1/ からの抜粋です。
・・・台藩主、伊達政宗の時代、仙台藩に囚われの身となっていた ディエゴ・カルヴァリョ神父ら9人は、元和(げんな)9年(陰暦)も押し迫った 大晦日(陽歴:1624年2月18日)午後2時頃、広瀬川河畔に連れて来られました。
そこは川岸から4尺(1.3m)ほど離れた所に、2尺(60cm)ほどの深さに水を張った水牢が用意され、皆は着物をはぎ取られ、水牢の中に打ち込まれた一本一本の杭に縛り付けられた。
神父は不動の姿勢のまま、祈りの言葉を唱え、皆に絶えず勇気を与えていた。
この責め苦が3時間以上続き、彼らは池から引き出されたが、苦しみと寒さのため、感覚を失って川岸に倒れた。神父だけは河原にひざまずき、頭を垂れて祈り始めた。
彼らの中の2人は、池から出るやいなや息絶えたが、その人は天を仰ぎ、あたかも“ご公現”を見るかのように「あの方は、どなたですか」と叫ぶとともに、霊は天に帰った。
奉行は、棄教するなら、皆を助けてやろうと神父を説得にかかったが、断固として承知しなかった。
生き残った7人は牢獄に連れ戻され、正月の3日間を過ごしたが、元和10年正月4日、(1624年2月22日)彼らは再び水牢に連れて行かれ、一人ひとり杭に縛り付けられた。
日暮となり、水が凍り始めた。夜に入り、寒さは厳しさを増し、風は益々烈しく、雪は降り続いていた。最後の時が来たことは誰の目にも明らかであった。
神父の「束の間ですぞ。もう少しで苦しみは無くなりますぞ。」と 愛をもって繰り返し激励する声を 耳にしながら、一人、二人、三人と、次々に息を引き取った。
最後まで残ったマチヤス太郎右衛門は、「神父様、さようなら。私は最後の予感がします。」と言った。「行け、わが子よ。天主の平安のうちに。」という 神父の答えを聞くや、安らかに目を閉じた。それは夜の五つの時(午後8時)であった。
10時間に及ぶ拷問を受けながら、心の中は絶えず愛熱の炎に燃えていた神父の信仰の強さに、異教徒たちさえも驚嘆し、賞賛を禁じ得なかった。・・・

「今日は年間第18日のミサをイグナチオ教会であずかりました」

2024年08月04日 | 日記
今日は年間第18の主日です。ミサをインターネットを通うしてイグナチオ教会であずかりました。
ミサの写真をお送り致します。
https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
出エジプト記(出エジプト 16:2-4, 12-15)
第2朗読
使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ 4:17, 20-24)
福音朗読
ヨハネによる福音 (ヨハネ 6:24-35)

カトリック麹町 聖イグナチオ教会
https://www.ignatius.gr.jp/index_j.html