後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「山梨県の『ぶどうの丘』と日本のワインの歴史」

2024年08月05日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県の甲府盆地には緑豊かなぶどうの里と日本一古いワイナリーがあります。葡萄酒を醸造している洒落たワイナリーが点在しています。
子供が小さい頃に何度もブドウ狩りに行きました。フランス風の美しい建物のワイナリーの工場見学をし、出来立てのワインの試飲もしました。勝沼にはブドウ畑に覆われた「ぶどうの丘」もあります。頂上にホテルやレストランがあり楽しい所です。
以前に撮って来た写真をお送りします。

1番目の写真はブドウ畑の近影です。季節が早いのでまだ育っていない小粒のブドウの房です。

2番目の写真はJR勝沼駅のそばにあるブドウ畑に覆われた「ぶどうの丘」の遠景です。

3番目の写真は「ぶどうの丘」の頂上から見た甲府盆地の風景です。

4番目の写真は「シャトー勝沼」というワイナリーの工場です。1階が大きな売店で、昨日は晩秋に仕込んだワインを売っています。買ってきて飲んでみたら晩秋仕込だけあって甘味のある奥深い芳醇な味でした。

5番目の写真は現存しているワイナリーでは日本一古いマルキワイナリーです。明治10年創業です。フランスから葡萄酒の醸造技術を導入しました。

さて日本一古いマルキワイナリーの写真をご紹介したのでついでに日本における葡萄酒製造の歴史をご紹介いたします。
明治維新で日本は開国の道を進み日本の近代化が急速に進んでいきます。
国の近代化を図りたい明治政府は、殖産興業の一環として、ぶどう栽培・ワイン醸造も奨励します。(https://www.suntory.co.jp/wine/nihon/column/rekishi01.html )
まず1870年(明治3年)に山梨県甲府市で、山田宥教(やまだ ひろのり)と詫間憲久(たくまのりひさ)が「ぶどう酒共同醸造所」というワイン醸造所を設立しまいた。
甲州種などを用いて、日本で産業として初めて、国産ワインが製造されたのです。
しかし彼らが全財産を懸けて挑んだワイン造りは、製造技術の低さ防腐剤の不備などで経営難に追い込まれ数年で終わりを迎えます。
その二人を皮切りに、たくさんの人々がワイン造りに挑みますが、ことごとく失敗に終わってしまいます。ワイン醸造は難しい技術だったのです。
その後の1877年(明治10年)に、「大日本山梨葡萄酒会社」(メルシャンの前身)が出来ました。
この会社から高野正誠と土屋竜憲という二人の若者がフランスに派遣され、本場のワイン醸造技術を二年間学びました。
フランスから帰国した二人はワインの醸造を始めました。
同時期に新潟では、川上善兵衛が新しい動きを始めます。善兵衛はフランスから帰国した土屋竜憲からぶどうの栽培技術を学び、1895年(明治28年)故郷の屋敷内に「岩の原葡萄園」を開設します。
善兵衛は、日本の気候に適したぶどうを栽培するために、欧米からたくさんの種類のぶどうの苗木を取り寄せ、品種改良を行います。
善兵衛が行っていた品種改良の成果は、昭和の初めに実を結ぶことになります。
1927年(昭和2年)には「マスカット・ベーリーA」を始めとする、日本の気候風土に合った独自品種の開発に成功します。
この「マスカット・ベーリーA」は、現在でも日本ワインの原料の中心として使われています。
私財をなげうって、日本ワインの発展に尽くした川上善兵衛は、"日本ワインの父"と呼ばれています。

第二次世界大戦中、政府はワイン造りを推奨します。しかし、それは飲料としてのワインを推奨したわけではありませんでした。
政府は、ワインを醸造したときに得られる「酒石酸」という副産物を欲しがったのです。
この「酒石酸」は、敵の潜水艦を探知する時に使う、レーダーの製造に利用されました。戦時中、ワイン工場は軍の管理下に置かれ、軍事目的で大量のワインが製造されました。
そして現在のワイン文化へとつながっています。

1970年(昭和45年)に開催された日本万国博覧会以降、日本の食生活は急速に欧米化が進みます。それに伴ってワインの消費量もかなり増えました。1980年のバブル期には、現在でも毎年騒がれる「ボジョレーヌーボー」が大ブームになりました。
現在、日本のワイン市場は急速に拡大しています。
かつては"発展途上"と言われ、あまり評価が良くなかった日本ワインも、各メーカーや醸造家が努力を重ねた結果、現在では、国際コンクールで入賞するようなワインを、自国で造れるようになりました。今、日本ワインは欧米のワインと肩を並べるまでに、進化しています。

以上が日本における葡萄酒製造の歴史の概略です。最後に「まるき葡萄酒」の明治10年の創業者・土屋龍憲をご紹介しておきます。
(http://www.marukiwine.co.jp/history.html )
明治10年、土屋龍憲はワイン醸造技術習得の為、日本人で初めてフランスに渡りました。そこで龍憲はフランスの栽培・醸造技術、フランス料理に大きな感銘を受け、不眠不休で栽培法、醸造法の習得に励みました。帰国後、彼はみずから勝沼葡萄酒の開懇と栽培の研究を行いました。「フランスワインがフランス料理に合うように、甲州ぶどうが和食に合わないはずがない」。これが龍憲のぶどうにかける想いでした。この想いを支えとして、大水害、緊迫する社会情勢といった数々の困難に見舞われながらも、龍憲はワイン醸造を続けたのです。

フランス留学中では最初にミルマ市小学校でフランス語を学び、次にトロワ市の農園で、栽培方法を学びます。さらに、モーグー村のジュポン氏の農園で、葡萄栽培と葡萄酒造法を学び、勉強をさらに約半年延長してもらうと、ビールの製法やシャンパンの製造法を学んで学業を終え、明治12年3月マルセーユ港を出航、5月8日無事に横浜港に帰り着いたのです。
1891年(明治24年)に「マルキ葡萄酒」を設立しました。
明治28年、第四回内国勧業博覧会には、自社の赤・白葡萄酒を出品し有功賞を受賞しました。その後、明治30年代に入り、トレード・マークのマルキ印、まるき葡萄酒の販売を開始しました。

日本は軍事主義へ向かって、一路ばく進していた時代であり、国産葡萄酒は将兵の重要な医薬品として扱われていましたが、土屋合名会社では明治27年の日清戦争の時代から陸海軍の将兵をはじめ、各地の救護団体に対してマルキ葡萄酒を寄進しており、日露戦争・第一次欧州戦争にも計5500本もの葡萄酒を寄贈してその名を売りました。・・・以下省略します。

日本の葡萄酒製造には先駆者の苦難と努力があったのです。 現在の日本のワインの普及を考えると感無量です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

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