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 「安楽寿院」(あんらくじゅいん)

2009年01月11日 22時06分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 正月も近くなった師走29日、ぶらりと古刹取材に出かけた。
 お目当ては「安楽寿院」で、名神高速道路京都南インターチェンジに近い京都市伏見区竹田にある真言宗智山派の古刹で、山号を持たない寺院である。境内に接して鳥羽天皇と近衛天皇の陵がある。
 付近一帯は平安時代末期(11~12世紀)、院政の舞台となった鳥羽離宮の跡地である。

 鳥羽離宮(鳥羽殿)は、応徳3年(1086)、白河天皇が退位後の居所として造営を始めたもので、平安京の南に位置する鳥羽の地は桂川と鴨川の合流点にあたり、交通の要衝であるとともに風光明媚な土地でもあったという。東西約1・2~1.5km、南北約
1kmの中に御所、庭園、仏堂などがあった。その後、北殿、泉殿、馬場殿、東殿、田中殿などが相次いで建設され、白河・鳥羽・後白河の三代の院政の舞台となった。
 当時栄華を誇った貴族たちは連日のようにこの地を訪れ、舟遊びや歌合わせなどに興じ、華やかな貴族文化の舞台になっていたという。離宮の東殿に保延3年(1137)に御堂が建てられ、保延5年(1139)に右衛門督藤原家成によって三重塔が建てられた。後に本御塔(ほんみとう)と呼ばれるこの塔は上皇が寿陵(生前に造る墓)として造らせたものであり、上皇(康治元年・1142年に落飾して法皇となる)が保元元年(1156)に没した際、この本御塔が墓所とされている。
 
 現在の安楽寿院の本尊である阿弥陀如来像は、この本御塔の本尊として造られたものと推定されている。当時の寺領は日本各地に膨大な荘園が寄進され、これらは安楽寿院領(後に娘の八条院子に引き継がれて八条院領と称される)として、天皇家(大覚寺統)の経済的基盤となっていた。
 現在茨城県から九州の間に散在し、最盛期には32国63ヶ荘に及んでいたという。
 その後、南北朝争乱により寺領の多くを失った。桃山時代になり豊臣秀吉より近辺の五百石分の寺領が保証され、江戸時代も徳川歴代将軍より寺領を安堵された。江戸期には12院5坊の塔頭を要する学山として多くの学匠を輩出しているという。幕末には安楽寿院が鳥羽・伏見の戦いの本営となった。

 重要文化財に指定されている「木造阿弥陀如来坐像」は、像高87.6cmの寄木造。平安時代末期に皇族・貴族に人気があったという定朝様(じょうちょうよう)の穏やかな趣が漂う仏像である。胸の中央に卍を刻むことから「卍阿弥陀」の称がある。光背の中心部分と台座の大部分も当初のものという。台座は各所に宝相華文を浮き彫りし、像表面だけでなく胎内にも金箔を押す入念な作である。台座内に天文23年(1554)の修理銘があり、そこに「西御塔本尊」とあることなどから、保延5年に建てられた三重塔(本御塔)の本尊として造られたものと推定されている。作者は不明とあるが、鳥羽離宮内の勝光明院などの造仏を手がけた仏師・賢円の作と推定されているようだ。

 鐘楼は慶長11年(1606)に豊臣秀頼の命により大修復されたときに建立されたもので、現在は柱、梁に当時の材を残すのみ。梵鐘は元禄5年(1692)に鋳造されたもので、除夜の鐘の時にのみ撞くと言う。
 大師堂は、慶長元年(1596)、山城、伏見に大地震が起き、新御塔が倒壊した。そのとき散在した材料で、とりあえず本尊を祀るために建てたものだという。現在も本尊の他、大日如来、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、歓喜天など旧塔頭の仏像を安置している。

 石造五輪塔は、鎌倉時代の弘安10年(1287)の年号が刻まれており、3mもある堂々としたもので、鎌倉時代の典型的な優れた形の五輪塔で重要文化財に指定されている。観光寺ではないため境内は自由に出入りできる(仏像拝観は要事前申込み、075-601-4168)。当院から城南宮が近いため併せて散策されるとよい。

 所在地:京都市伏見区竹田中内畑町74。
 交通:近鉄京都線・京都市営地下鉄烏丸線竹田駅下車、徒歩約7分。
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