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「養源院」(ようげんいん)

2007年05月27日 08時14分44秒 | 古都逍遥「京都篇」
 宮本武蔵と吉岡清十郎が決闘したことで知られる三十三間堂と隣接する養源院は豊臣秀吉の側室・淀君が建立したと伝えられている。当院は、歴史的な興味のほかに、写真愛好家たちの間では、古木の百日紅の花があることで知られている。梅雨明けの時期、祇園祭の頃は百日紅の花を撮りに来る愛好家の姿が絶えない。

 当院に関する史料としては、慶安3年(1650)に当院2世光慶が作らせた鐘銘(『扶桑鐘銘集』所載)や天明6年(1786)の由緒書(養源院蔵)などから知ることができる。
 天明6年の由緒書には「後陽成院御宇文禄三甲午年、為贈従二位権中納言浅井備前守藤原長政卿号養源院殿、秀吉公御草創、元和五巳未年炎上仕、同七辛酉年長政公為御追孝、御息女崇源院様被為仰定、台徳院様御建立被為遊侯(後略)」と記されており、養源院は浅井長政の長女で秀吉の側室となった淀君が父・長政(養源院天英宗清)の21回忌に際
し、文禄3年(1594)に秀吉に頼んで建立した寺院であることがうかがえる。本堂には秀忠夫妻と家光の位牌を安置して将軍家の位牌所に定められたとされ、現在も徳川歴代将軍の位牌がまつられている。
 元和5年に火災に遭い焼失。淀君の妹である徳川秀忠夫人(崇源院)の発起によって、元和6年8月頃に再建が始まり、翌年竣工している。

 創建時における同院の境内の様子を窺う史料は残されていないが、元和再興時以降については『養源院指図』や『養源院惣絵図』などの指図が残されている。『養源院指図』によって主要な建物の配置を知ることができ、「客殿」と記された建物が本堂にあたり、これには玄関が付属する。桁行は11間半、梁行は9間半で瓦葺であった。平面構成は六間取りのいわゆる禅宗寺院方丈形式で、四方に広縁(後方の一部を欠く)と落縁が廻る。
客殿東南端からは廊下が矩析りに出て護摩堂につながる。一方、客殿の東北端に続いて北には「内仏壇」が建ち、内仏壇の南側廊下とつながって東方には「風呂屋」がある。内仏壇の北には「書院」、「小書院・茶所」が建ち、さらにこれら書院の西方には「上台所」「台所」が「取合」でつながれている。こうした元禄11年の状況は、およそ元和再興時の建物配置を示しているものと考えられている。

 元和再興後は大きな火災もなく、寺観はさほど大きく変わることがなかったようで、明治5~6年頃から敷地や建物の配置に変化が生じ、敷地の東部が現在の東大路通りの敷設によって削られ、また賀陽宮邸の建設にともない北部が大きく後退したとある。これによって宝蔵、浴室等は移転されたものの境内に残されたが、大書院、小書院、遠州好みの茶室等は失われてしまった。現存する建造物のうち、本堂(元和年間・1615~24)・護摩堂・鐘楼・中門・表門・通用門(以上江戸時代前期)、奏者所・内仏の間(江戸時代中期)が京都市指定文化財とされている。

 当院で目を奪われるものは、俵屋宗達の筆で描かれた杉戸の絵である。本堂の襖(12面)と杉戸(8面)に、石田三成と徳川家康とが天下をかけた関が原の合戦の火蓋を切った伏見城の戦いにおいて、鳥居元忠率いる3千余兵が城を死守、もはやこれまでと3百余りの武将と共に自刃した霊を弔うために「念仏、御回向」にちなんだ絵を描いたもので、杉戸には象や獅子、麒麟など、大胆、奇抜、そして曲線美あふれる筆づかいが素晴らしい。
 また、狩野山楽が描いた牡丹の折枝の散らしの図案的な襖絵、祭壇の羽目板張付の金箔に唐獅子の雌雄を画いたもの3面がある。
 本堂には左甚五郎作と伝えられる鶯張りの廊下、その上を見ると、伏見城で自刃した鳥居元忠をはじめとする武士たちの血のりで染まった廊下を天井板として使用し、英霊を慰めている。

 庭園は、小堀遠州作で、東山連峯の阿弥陀ヶ峯を遠景とし、水が北の池より南へ注ぐ風景を造作。築山部分の涸滝石組が素晴らしく、南の池には海辺の奇岩を配した珍しい庭園である。また、園内の一文字、十文字の手洗鉢は知る人ぞ知る逸品である。

 交通:京阪本線「七条」駅下車、徒歩7分、市バス「三十三間堂」「東山七条」下車、徒歩5分

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