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「南禅寺水路閣」(なんぜんじすいろかく)

2007年05月24日 07時56分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 平成8年(1996)、国の史跡に指定された南禅寺「水路閣」は、日本最初のコンクリート橋で、明治21年、ローマ帝国の水道を参考に建築された。取材で訪ねたときもロケが行われていた。取材で訪ねたときロケが行われていた。渡辺淳一原作の「愛の流刑地」というテレビドラマで岸谷五朗と高岡早紀が演じるという。
 役者が写真に入らないようにと撮影スタッフの要請を受けたが、私も仕事だからと断り邪魔にならないようにカメラを向けた。、
 水路閣は、レンガ造りの重厚さと紅葉に覆われる景観が人々の人気を集めているのだが、そもそもは琵琶湖の水を発電や物資運搬、灌漑用水など多目的に活用することから造られた疎水路である。
 当初、工事にあたって心にくい配慮がなされた。疏水沿線には社寺が多く点在しているため、環境を壊さないような配慮から、特に南禅寺境内に当時では画期的な異国風建造物の水路閣を設けたことから、歴史的風土に溶け込んだ景観となっている。今日のダム建設、治水工事なども大いに参考にしてもらいたいものだ。

 疎水路は、明治18年(1885)、長等山の第一トンネル掘削に伴う竪抗工事から開始され、同23年に完了。明治天皇を迎えて竣工式が行われ、翌24年疎水の付帯工事として建設されていた蹴上の発電所が完成し発電を開始している。同27年に疎水を延長して伏見まで鴨川運河を開削。翌年に岡崎で第四回内国勧業博覧会が開催され、この時、日本最初の市街電車(京電)が塩小路高倉・伏見下油掛町の約6.5㌔を狭軌道で仮開業している。

 蹴上から分岐する枝線水路として、夏の風物詩として知られている大文字(如意岳)
の山麓に沿って、南禅寺、若王子、吉田山の東北を経て、高野、下鴨、堀川と、南から北へ、その後西へ流れ、沿線各地への水力利用、灌漑、防火用水等の供給を主目的として設けられた。

 明治30年代に入ると、第一疏水だけでは電力需要等の増大に対応できなくなったほか、地下水に頼っていた市民の飲料水が質・量ともに不足が予測されたことから、第2代西郷菊次郎京都市長(西郷隆盛の子)は、京都市の3大事業(第2疏水事業、水道事業、市電開通及び幹線道路拡幅)を計画。第二疏水はその事業の中核として明治41年10月に着工、明治45年3月に完成し、急速濾過方式を採用した蹴上浄水場より給水を開始、この方式は、我が国で初めての方式であったという。
 給水開始当時の京都市人口は約50万人で、このうち給水人口は約4万人、1日の最大給水量は約3万立方メートル、今日では1日最大給水量も約70万立方メートルとなった。
 また、現在は1日最大95万1千立方メートルが給水でき、明治の偉大な先人たちが開削した疏水によって京都市民の命の水が確保できている。(参考:京都市水道局資料)

 所在地:京都府京都市左京区南禅寺福地町86。
 交通:京都市営地下鉄蹴上駅から徒歩7分。
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