「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「清水寺」(きよみずでら)

2006年05月04日 11時02分10秒 | 古都逍遥「京都篇」
 絶景を言い表した「松島や ああ松島や 松島や」という句があるが、古都京都を代表する清水寺もまた「清水や ああ清水や 清水や」と、絶賛の一言でいい表せる光景であろう。
 しかしながら、京都を代表する清水寺も、近年、東京ディズニーランドがオープンしてこの方、日本一を誇っていた観光集客数がディズニーに奪われ、一頃よりは人出が減った。清水寺と参道の商店街は奪回日本一を旗じるしにPR活動に余念がなく、清水寺創建1200有余年、御本尊御開帳の年・平成12年3月3日にあたり、ここ青龍の地に、音羽の滝の故事、夜叉神への畏怖が結びつき、人々の安寧(あんねい)を祈願する青龍会(せいりゅうえ)を結成、観音の化身である青龍の誕生とその開眼の法要が執り行い、以来、観光の呼び物として「青龍会」を催している。

 青龍会は、法螺貝(ほらがい)を吹き先布令(さきぶれ)を行う「転法衆」(てんぽうしゅう)を先頭に、行道(ぎょうどう)を指揮する「会奉行」(えぶぎょう)、そして観音加持を行う「夜叉神」(やしゃじん)、さらに「四天王」(してんのう)が「青龍」の前後を守護し、『南無観(なむかん)・・・』を唱える「十六善神」(じゅうろくぜんじん)の神々が続く勇壮かつ厳かな大群会行(だいぐんえぎょう)の行道である。
 「松風や音羽の滝の清水を むすぶ心は涼しかるらん」と詠まれた音羽山清水寺は、一九九四年にユネスコの世界遺産に登録された。1200余年前、奈良時代の末、宝亀9年(778)に開創。

 奈良子島寺の延鎮上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ、松は緑に、白雲が帯のようにたなびく音羽山麓の滝のほとりにたどり着き、草庵をむすんで永年練行中の行叡居士より観世音菩薩の威神力を祈りこめた霊木を授けられ、千手観音像を彫作して居士の旧庵に祀たのが起源と伝えられている。その翌々年、坂上田村麻呂公が、高子妻室の安産のためにと鹿を求めて上山し、清水の源をたずねて延鎮上人に会い、清滝の霊験、観世音菩薩の功徳を語り、共に深く観世音に帰依して仏殿を寄進し、本尊に十一面千手観音を安置した。音羽の滝は、清水滾々と数千万年来、音羽の山中より湧出する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、「清水寺」の名の発祥である。わが国十大名水の筆頭にあげられている。

 当寺の宗派は、北法相宗(きたほっそうしゅう)、単立の一寺一宗で唯識(ゆいしき)宗ともいう。4~5世紀のインドの仏教学者、弥勒(みろく)・無着・世親が開立した瑜伽(ゆが)派の教理を戒賢論師らが整理し、それを苦難の旅行をして学んだ中国・唐の玄奘三蔵の弟子・慈恩大師が『成(じょう)唯識論』を基礎として開宗した。開創以来、興福寺の北伝の法相宗を伝統してきたが、1965年「北法相宗」として独立。宗旨は、「万法唯識」「三界唯一心。心のほかに別の法はなく、心と仏および衆生、この3つは差別なし」、あらゆる現象(相)は唯(ただ)人間の心のはたらきの反映であるとしている。

 本尊の十一面(四十二臂)千手観音は本堂内々陣の厨子(国宝)内に秘仏として祀られているために、厨子前に本尊の姿を写したお前立ち仏像を安置している。一般の四十臂千手観音とは違って「清水型」観音と呼ばれる清水寺独特の姿をとり、二臂多く、その最上の左右二臂を頭上高く挙げて小如来像を捧戴し、格別の観音力を表現している。 地蔵菩薩・毘沙門天を両脇侍として左右厨子(共に国宝)内に従え、二十八部衆・風神・雷神を眷族(けんぞく、従者)としている。

 知る人ぞ知る本堂と舞台は、江戸時代初期の創建で国宝に指定されている。
優美な起り反り(むくりそり)曲線を見せる寄棟造り、桧皮葺きの屋根や軒下の蔀戸など、平安時代の宮殿、貴族の邸宅の面影を伝え、四囲の音羽山の翠緑と見事に調和している。
寛永10年(1633)再建、正面約38m、側面約30m、棟高18mの大堂で、巨大な丸柱の列によって外陣(礼堂)と内陣・内々陣に3分され、最奥の内々陣の大須弥壇上の3基の厨子(国宝)内に本尊千手観音と脇侍(わきじ)の地蔵菩薩・毘沙門天を祀り、錦雲渓の急崖に約190㎡、総桧板張りの「舞台」を懸造りにして張り出し、最高12mほどの巨大な欅の柱を立て並べて支えている。
 「清水の舞台から飛ぶ…」の諺(ことわざ)があるが、舞楽などを奉納する正真正銘の「舞台」で、両袖の翼廊は楽舎。舞台からの眺望は絶景の一語、京洛の街の大半を瞰下し、春は桜、秋は紅葉と、四季の景観はすばらしいく全国屈指の名刹である。

 当寺の正門の仁王門は、室町時代の作(重要文化財)。応仁の乱後、15世紀末に再建された。三間1戸、正面約10m、側面約8.4mの、室町時代の特徴を示す堂々たる楼門で、昔の丹塗りを淡美に残し“赤門”と呼ばれる。正面軒下に平安時代の名書家藤原行成の筆と伝える「清水寺」の額を掲げ、両脇間に勇壮な大仁王像が祀られている。
 舞台と共に名勝となっている三重塔(重要文化財)は、平安初期847年創建と伝えられ、現塔は古様式に則って寛永9年(1632)に再建された日本最大級の三重塔で高さ約31m。
 昭和62年(1987)に解体修理され、総丹塗りと共に桃山様式を示す各重横木の極彩色文様を復元した。一重内部に大日如来像を祀り、四周の壁に真言八祖像を描き、天井・柱など密教仏画や飛天・竜らの極彩色で荘厳されている。
開山堂(重要文化財)は江戸時代初期、寛永8~10年(1631~33)の再建で、三間四方、入母屋造り、桧皮葺き。正面に蔀戸(しとみど)を吊り、軒廻りに丹塗りを残している。
 謡曲「田村」に謡われている「田村堂」で、清水寺創建の本願主・坂ノ上田村麻呂夫妻の像を堂内中央、須弥壇上の厨子(重要文化財)内に祀り、併せて清水寺元祖の行叡居士(ぎょうえいこじ)と開山の延鎮上人を奉祀している。
 奥の院(重要文化財)は、本堂と同期の寛永10年に再建され、本堂同様に舞台造りになり、「奥の千手堂」ともいい、千手観音三尊と二十八部衆、風神・雷神を祀る。五間四方、寄棟造り、桧皮葺き屋根は美しい反曲線を描き、とぐみ、蟇股(かえるまた)、長押(なげし)その他、随所に桃山様式の極彩色文様の跡を残している。

 産寧坂(三年坂)の名前に由来ともなっている子安塔(重要文化財)も同時期の再建で、本堂の南谷(錦雲渓)を隔てた丘上に建ち、高さ約15m、桧皮葺きの軽快な三重塔である。子安観音(千手観音)を祀り、名前の通り安産に大きな信仰を集めて来た。
 もう一つ必見すべきものが絵馬(末吉船図・ 重要文化財)である。大阪・平野の豪商であった末吉長方が寛永9年(1632)に清水寺本堂に奉納した扁額式の大絵馬。
幕府から朱印状を得てベトナム貿易に成功して、無事帰国できた事を感謝して奉納したもので、外国人船員を交えて甲板上で祝宴を張っている光景を描いている。
 観光のご参考に「青龍会」の日程をご照会しておこう。
 ◇3月15日~17日、◇4月3日、清水(しみず)の日、◇9月15~17日・午後2時より。なお、年によって日程が変わる場合もあり、問い合わせること。

 交通:京阪電車五条駅下車徒歩25分、阪急電鉄河原町駅より市バス(207番)
 で清水道下車徒歩10分、JR京都駅市バス(206番・100番)五条坂下車徒歩10分
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