「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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 「補陀洛寺」(ふだらくじ)

2009年04月11日 18時47分49秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鞍馬・貴船から市街地に戻る途中の鞍馬街道沿いに、市原野と呼ばれる集落がある。このあたりは、古くから小野氏の領地であり、小野小町と深草少将の亡霊が僧侶に百夜通いの物語をする謡曲「通小町(かよいこまち)」の舞台でもあった。
 補陀洛寺は、叡山電鉄鞍馬線「市原駅」から鞍馬街道・府道38号線へ出て、南へ向かって(市内方向)200mほど歩く、小高い丘の(篠峠)上にあり、往古は近隣の村の死者を葬る成仏の霊域で、墓守の寺が幾つか建てられ、補陀洛寺もその一つと聞く。天慶8年(945)天台宗座主・延昌僧正によって創建された発願寺で、一時廃絶したものを現在の寺が寺名を受け継いだとなっている。
 後冷泉天皇皇后の小野皇太后の山荘でもあった地で、境内には鎌倉時代の小野皇太后供養塔が残っており、本堂は平成11年に再建されている。

 当寺は通称「小町寺」(こまちでら)と呼ばれている。世界三代美女に上げられている小野小町の終焉の地と伝えられている。
 晩年、年老いた小町は漂泊の果てに、懐かしい昔、父が暮らした市原野の生家を訪ね、昌泰3年(900年)4月1日、「吾死なば焼くな埋むな野に晒せ 痩せたる犬の腹肥やせ」との壮絶な歌を残し朽木の倒れるように息絶えたと伝えられています。野ざらしになっていた小町の菩提を恵心僧都が弔ったという。

 「通小町(かよいこまち)」で知られる物語は、八瀬の山里の僧に、市原野辺に住む姥から毎日、木の実や焚き木が届けられることから始まっている。不審に思った僧が名を尋ねますと、小野小町の霊であることをほのめかし、市原野での回向を、僧に願い出、消え入るように失せていく。
 約束通り、露深い市原野で僧が念仏を唱え始めると、小町ともに、深草少将の亡霊があらわれ、「煩悩の犬となって、打たるると離れじ」と、百夜通いの苦悩と恋心の執念を訴え、小町に追いすがるが、やがて、二人共に、「佛道なりにけり」と成仏していく。という話である。

 観光寺でないこともあり、ほとんど人と出会うこともなく山門の石段を登り本堂へ。ガラス戸の入り口に、「猿が入りますので鍵がかかっております。御用の方はインターホーンでお呼びください 小町寺」と白い紙に書かれて貼られていた。サルが出没し、仏前のお供養物を荒らすのだそうだ。
インターホンを押すと幸いにも住職さんが出てきてくれた。
 本堂の本尊阿弥陀三尊像を拝すると、その横にひっそりと祀られている鎌倉時代に彫られた木像が目に入った。像は「小町老衰像」と伝わるもので、骨と皮ばかりの体、落ち窪んだ目に皺だらけの顔、絶世の美女と謳われた小町の面影は全くなく、老婆の姿に何とも言えない無常が漂っていた。 背面を見せていただいたが、「京都博物館蔵」という明治時代の紙札が貼ってあり、博覧会に出品されたという添え書きがある。京都博物館が保管していたものが、後にこの寺に戻された。

 本堂の右手に「小町姿見の井戸」があるので近づき覗いたが、水は枯れていた。
左手には小町のもとへ百夜(ももや)通いしたとされる深草少将の宝篋院塔(江戸中期造立)、その奥に小町の供養塔(五重層塔・鎌倉時代)など、小野小町終焉の地として、そのゆかりの遺跡がある。
 「小町姿見の井戸」のすぐ脇、如意山の石塔横に、樹齢80年と伝えられるさざんかの木が、この季節、花を咲かせていた。薄紅色の花々をこぼれんばかりにつけて、凛と枝先を空に伸ばす立ち姿は、美女小町を思わせるようであった。

 所在地:京都市左京区静市市原町
 交通:京阪電車出町柳から叡山電車で市原駅下車、徒歩13分。

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