東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

サマセット・モーム,『手紙』,1924 その2

2007-07-27 17:43:52 | ブリティッシュ
中心人物、殺人事件容疑者・美しく沈着な白人女性・貞淑な妻・レズリー。
彼女に銃を連射させた激情は、秘密の愛人ハモンドの心変わり、であるようにみえる。しかし、心の奥底の動揺は、ハモンドの中国人の愛人と比較され、敗北した屈辱感だ。
ハモンドは「おまえには、飽き飽きしたよ。ずっと以前からオレにほんとに必要なのは、あの中国女だったんだ。」と言いきる。

こうして二種類の恐怖が対比される。
弁護士ジョイスの感じる違和感や恐怖感が、事務員オンの知性や物腰から生じる。対照的に、レズリーの危惧と怒りの原因は、中国人女のセクシャリティだ。

レズリーの夫、ロバート・クロズビーは、巨体のスポーツマンで「彼が拳骨をふったなら、華奢なタミール人苦力などは一発でのびるだろう。」と描かれるように、体力と暴力で支配するタイプだ。
それに対し、弁護士ジョイスは、知性や弁舌や能率的事務処理の力で、この海峡植民地で支配層に属する。
レズリーは美貌と肌の白さと端正な身のこなしで、支配階層の女性として君臨している。
というのが、表面的な秩序である。

しかし、彼ら中国人は、知性とセクシャリティの両方を備えた、恐怖の存在だ。

作者の筆致は、中国人女を、(レズリーの口を借りて)、太った、年老いた、醜い女と描写して、ごまかしている。
あるいは、仲介者のオンが「あの女は、小切手などというものは理解できない女なので、代金は現金しかうけつけません。」などと言うのも、読者を迷わせる罠である。

実際は、この中国人女はすべてを、つまり、レズリーとハモンドの関係、クロズビー夫婦の関係、弁護を請負っているジョイスのこと、すべて内情を知っているはずだ。
自分の恋人(レズリーの会話の原文では mistress 、愛人、妾などというニュアンスを持つが、自分たち白人仲間の浮気は lover なんて単語を使っている。ズルイ女だなあ。)であるハモンドが心変わりをしないことに確信を持っている。

そして最大の謎。
中国女は手紙を読んでいたか?

答えはもちろんイエス。

この点に関して、作者は断言していないし、レズリーの危惧が、この点にあったかどうかも、巧妙にぼかしている。

しかし、当然、白人のまわりにうごめく、植民地・開拓地の住民は、みんな白人の話す言葉を理解し、文字だって読んでいた。

銃連射事件の直後、クロズビー家の召使い頭(head-boy という単語、こんな単語はあまり不注意に使用しないように)の描写を見よ。
事件の直後、慌てふためいているものの、ADO(副郡長などと訳される)を呼ぶなどの事後処理をする。

さらに明らかなのは、当のレズリー自信が召使いに、逢瀬の手紙を託していたのだ。なんと無頓着な女だ。(あたりまえだが、電話はない。)
彼ら白人の行動は、周囲の召使い・苦力・事務員そのほかすべての住民に筒抜けである。
彼らブリティッシュは、支配する者たちを見えない存在、匿名の存在にしているが、反対方向の視線はさえぎられない。
彼らは一部始終を監視された存在なのだ。

というホラー・ストーリーである。

なお、ハモンドと同棲していた中国人女が、裏取引の場に現れたときの服装が描写されている。

英語原文では、"little Chinese silk slippers"

となっている履物を、田中訳は「小さな中国の絹沓」とし、中野訳は「かわいらしい中国の靴」としている。
これって纏足用の小さなくつのこと?
原文でもはっきりしないが、「彼女の服装は完全に洋風でもなく、中国風でもなく」と記したあと、「しかし (but) 」という接続詞でつないでいるから、これは、服装は半分洋風化していても、肉体の肝心なところは過去の遺物をひきずっているという意味で、纏足を示した可能性がある。(しかし、ほんとのところ、どうなんでしょう?)


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