東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

古川久雄,『インドネシアの低湿地』,勁草書房,1992

2007-07-24 18:16:09 | フィールド・ワーカーたちの物語
もっともタフなフィールド・ワーカーが、もっとも東南アジアらしい地域を描いた、東南アジア書の最重要、最高傑作、と声を大にしていいたいが……。

うーむ。あまりにも専門的。

抽象的な論議ばかりの著作、外の世界(アメリカや日本)の影響を論じた著作、そんな本よりも具体的な自然や人びとの生活を描いた、本書のような著作こそは、ほんとうに東南アジアを知るために重要である。
と、いうことはわかっている。
それに、この筆者・古川久雄は、文献渉猟にも強く、清濁あわせのみ、本書が扱うムラユ世界の湿地ばかりではなく、火山島や珊瑚礁の島、デルタのプランテーションや都市の姿も見て歩いている研究者だ。

そんなわけで、本書こそは、もっとも東南アジアらしい地域を描いた書物であるのだが。
やはり読みづらい。
筆者はけっして読みにくい文章を書く研究者ではないのだが。

本書の扱う範囲よりももっと広く東南アジアを見聞している人であるから、まだまだ一般の読者向けの内容を書ける人だと思うのだが。
めこんの桑原社長あたりが、一般向けの本を書かせることはできないのでしょうか?

とはいうものの、スマトラ・カリマンタン、それにマレーシアの熱帯林、マングローブ、海域の自然・生態・生業のイメージをつかむには最適。
写真を多用した本は多いが、漁撈や農耕の技術をほんとうに理解して書かれた本は少ない。
がまんしてしっかり読むべし。

榧根勇,『水と女神の風土』,古今書院,2002

2007-03-28 16:14:43 | フィールド・ワーカーたちの物語
著者(かやね・いさむ)は、ユネスコの国際水文学計画
International Hydrological Programme, 略称 IHP の一環として、
1988-1990 「バリ島の水循環と水利用」の学術調査に参加。

結果は、

Kayane, I., ed. (1992) WAter cycle and water use in Bali island.
Institute of Geocience, University of Tsukuba,
にまとめられている。

本書は公式の学術報告書では書ききれない、調査のなりゆき、著者とバリ島との出会い(1975年4月以来)、バリの環境や文化を論じる。

ウィットフォーゲルからクリフォード・ギアツ、池澤夏樹から板垣真理子まで、多彩な本を参考にし、著者の専門の水文学、スバック・システムのフィールド調査、村人からの聞き取り、スリ女神、バリ・ヒンドゥー教、観光地としてのバリ島、などなど縦横無尽に書きまくる。
専門の論文には書けない胸のたけをはきだした感じ。

うーむ。こういうことは、もっと一般的な薄い本にするとか、あるいは、ちゃんと学問として論じるとか、別の方法はなかったんだろうか。
という不満は残るが、なにしろ水利の専門家の本である。
たいへん参考になった。

今枝由郎,『ブータン仏教から見た日本仏教』,日本放送出版協会,2005

2007-01-10 13:45:55 | フィールド・ワーカーたちの物語
とんでもなく優秀で型破りな人物である(1947生まれ)。

かんがえてもみよう。普通の高校生が、お経の意味を知りたいという理由で、パーリ語を独学するだろうか?
仏教を勉強したいから、国立大学に合格できる優秀な人が、私立の(失礼ながら)二流大学に進学するだろうか?
チベット仏教を学ぶにはフランス語の勉強が不可欠ときいて、フランス語を勉強し、フランスに学部留学できるだろうか(あ、これ1960年代の話です、当時は大学院生の優秀な者が留学できるのであって、学部の学生、しかも二流私立大学生が留学できるなんて稀有なことであった。しかも、フランス文学やフランス哲学ではなく、チベット学の勉強のためのフランス留学である。)?

さらに著者は、日本の大学卒業資格取得のため、型どおり卒業し、本格的な研究をフランス国立科学研究センターで続けることになる。(学部を卒業したばかりの外国人としては破格の扱いであるようだ、とにかく優秀な人なのだ。)

1975年、ブータンからやってきたティンゴ・ケンツェ・リンポチェ一行の世話をまかされるのだが、その中の学僧ロペン・ペマラ(ブータン国立図書館館長)との出会いが、著者の研究人生の一大転機となる。
ブータン仏教事情、歴史、現在の政治を学び、ブータン現地での研究をめざしブータン入国を果たす。
そして、フランス国立科学研究センターに在席したまま、ブータン出向という形で、ブータン滞在を続ける。

日本人離れした人物、といいたいが、著者はすでに日本人であることを止めている。フランスに帰化し、フランス政府の公務員として科学研究センターに勤務し、何の拘束もうけず、ひたすらブータン仏教の研究と続ける身分・地位を獲得した。

こうした経歴をもつ人物による、ブータン仏教の概略紹介(わかりやすい!長く日本語環境を離れていたのに、すっきりした文章だ)と、日本仏教批判が本書である。

以下、著者の実家が所属する、つまり檀家である浄土真宗東本願寺派についての批判が中心になるが、日本の寺は、どれもみな同じなので、特に浄土真宗が批判される要素が多いということではないだろう。

ただ、わたしも、著者と同じく、実家が浄土真宗の檀家であり、著者と同じく実家を(つまり檀家を)兄が継いでいるので、話がわかりやすい。
他の宗派は、もっとめちゃくちゃな部分がある、というのもわかっているし、浄土真宗が、日本の寺の中ではわりとまともな部分ももっているのはわかっている。ただし、仏教ということ、死と生、宗教ということを考えたら、著者の批判は、ほぼ完全に正しく妥当である。

しかし!
昨年(2005年3月14日)にレヴューした
加地伸行,『沈黙の宗教―儒教』,筑摩書房,1994
にみられるように、日本の寺は仏教ではないのだ。

仏教ではないものに対し、仏教として批判しても、これは意味ないし、反応がない。
仏教学者、宗教学者、あるいはインド思想研究者、キリスト教など他の宗教者がいくら寺を批判しても、何の反応も返ってこない。
そして寺の坊主たちは、「日本の伝統」「日本人の死生観」をゆるぎのない基盤として、彼らの寺の経営体制に何の疑問も抱いていない。
著者のようなフランス人、日本人をやめたガイジンの批判なぞ残念ながら、毛ほどの衝撃もあたえないだろう。
上座部仏教研究者がなんといおうと、チベット仏教研究者がなんといおうと、暖簾に腕押し、だいたい、寺の坊主たちはフィールド・ワーカーの業績を読んだり、原典の批判的読解を参照したりしない。
タイ人が墓をつくらない、チベット人が墓をつくらない、なんて研究者の報告も、日本の寺には届かない。「え?墓をつくらない?そりゃ、墓をつくるお金がないからでしょう、ここはひとつ、日本から援助しなくちゃ」なんて、とんちんかんな反応を招きかねない。
(本書のテーマともチベット仏教とも関係ないが、東南アジアの上座部仏教社会で、日本の坊さんはとんちんかんな行為、破廉恥な行動をしているようだ。)


『沈黙の宗教―儒教』をレヴューしたときには、はっきり言わなかったが、日本人の信仰の中枢が先祖供養、墓参りである、ということを認めるにしても、時空を超えた不変のものであるはずがない。
つまりだ。過去の日本列島で、すべての死者が供養されていたわけではない。
というより、貧しい者、こどもを生まずに死んだ者、土地を所有せずに死んだ者が供養されたわけではない。
盛大な葬式をし、墓をつくるというのは、戦後高度成長期の、人類の歴史からみればもちろん、日本人の歴史からみてもほんの一瞬の、きわめて異常な時代の習俗である。
けっして過去何百年も行われてきた葬儀の形態ではない。

へんなたとえだが、ちょうど、雛祭や七夕、正月の門松や七草粥が、日本中に知られるようになったのが、高度経済成長の時代であったことと共通すると思う。
そんな瑣末な行事と、葬儀や墓参りをいっしょにするなって?
いや、同じでしょう。
高度経済成長期の消費生活と同じように、葬儀や墓も豪勢に華麗になっていったのではないか?
皇族や貴族の行事である雛祭や、雪も降らず正月に山菜狩ができるような亜熱帯の七草粥、砂漠地帯のように7月に星座がみえる地域の七夕、そんなものが、日本列島古来からの行事であるわけがない。
たとえ、古来からあったとしても、葬儀や墓を今後日本列島の住民が続けることは無理がある。

すでに、日本中の土地は登記簿にのった土地であり、墓地も私有財産になった。
死者の遺骨を埋葬した土地が、永遠に所有者も法規も変わらず、存続するわけがないでしょう。
だいたい、あの古墳だって、今となっては、誰の墓かわからないんだから、一般人が墓をつくってもムダである。

******

墓と先祖供養に関しては、東南アジア研究者の報告や提言もさまざまで、わたしとしても、現段階ではっきりとした意見を決めがたい。

高谷好一さんなどは、タイ人やムラユーの生きかたを知り、チャイニーズやムスリムの価値観も考察したうえで、日本の「あざ(字)」の共同体の寺、仏壇をつくり朝夕のおまいりをする信仰を、肯定的にみている。(『世界単位から世界を見る』など参照)
う~む、オーム真理教の行動にも理解を示す高谷さんでも、やはり「あざ」に生きる日本の農民のいきかたを、理想とするのか……。

わたしとしては、わたし自身の墓と供養にかんし、こどもたちに負担をかけるのをいさぎよしとしない。
それは「負担」ではなく「よろこび」ではないか、というような、もののいいかたには与しない。
親の供養もできない、世知辛い世の中になるのか、と嘆くかたもおられるであろうが、すでに、300年も400年も前から、大部分の人間にとっては、親の供養もできない困難な時代(親の供養ができないのを、困難なこととするならば)が続いてきているのだ。
死を考えるなら、やはり、葬儀や墓地といった大衆消費物(つまり、金を使い、物を消費し、土地を占有すれば、故人の供養になる、という考え)に頼るのではない、別の道を考えるべきである、と思う。

井上民二,『熱帯雨林の生態学』,八坂書房,2001

2007-01-04 22:26:32 | フィールド・ワーカーたちの物語
それでは、実験室の科学者でもなく、ウォール街の投資家でもない、実際に自然の中で研究している学者はどういうことを考えているのだろうか。

本書は、1997年飛行機事故で49歳で亡くなった著者の著作をまとめたもの。
編集したのは、亡き著者の長女・井上綾子さんと人文地理学者・小林茂さん。
松原正毅さんが「まえがきにかえて」を執筆、信州大学の市野隆雄さんが編集協力、吉良竜夫が短いエッセイを寄せている。

日本語の著作(つまり英文の学術論文を除く)の中から選び、4部にわけて収録されている。

第1部は、著者が事故死の寸前まで取り組んでいたサラワクのパソー自然保護区でのツリータワーとウォークウェイによる観察プロジェクト。
特に、1996年の一斉開花の観察。

第2部は、生物多様性、生態系と共生関係について

第3部は、スマトラでのフィールド調査など、著者のライフ・ワークであるハナバチの生態。

第4部は、送粉共生系、つまり、被子植物と昆虫の共進化について。

いずれも気持ちよく読めた。
気持ちよくというのは、いかにも難しいことをやってますよ、という気負いが無いこと。
また、自分の手柄話中心ではなく、後輩の業績もよく紹介していること。

そして、なによりも、自然の驚異に対する感動がつたわってくる。

誤解をまぬかぬように、強調しておくが、世界中の研究者と同様、井上民二さんも彼のチームも、進化生物学のセントラル・ドグマを無視しているわけではない。
あるいは、「生命の神秘」などというオカルトめいたモノの言い方をしているわけではない。
そうではなく、徹底的に観察中心であるのだが、驚異に対する新鮮な感動に満ちている。

本書の中でも数回繰り返されて語られるイチジクとイチジクコバチの共生、それに絡まる寄生蜂とアリの関係、たったこれだけでも、ものすごい複雑なしくみであり、進化の妙技である。
イチジクコバチのオスとメスの形態・行動の違いなどすごいですね。
こういうことを観察のもすごいが、さらにこれだけで満足せずに、他の生物との関係も解明しようという、好奇心というか研究心がすごい。

本書全体のテーマではないが、フタバガキ科の進化について。
フタバガキは、ゴンドワナ大陸の破片に乗って北上した。
つまり、現在のインド亜大陸とともに北上し、ユーラシア大陸にぶつかった後、アジアに拡散したのである。
この間にフタバガキは根粒菌との共生を獲得した。
その結果、土壌の貧困な熱帯雨林帯に分布を広めることができた。

しかも、この東南アジアの熱帯地域が、第4期の氷河期の間も十分な面積を維持できた。
その結果、このユーラシアからはみでた熱帯雨林帯が、アフリカや南アメリカよりも種の多様性が大きい熱帯雨林になった、というわけだ。

大塚柳太郎,『トーテムのすむ森』,東京大学出版会,1996

2007-01-02 22:15:52 | フィールド・ワーカーたちの物語
伊谷純一郎・大塚柳太郎 編「熱帯林の世界 全7巻」の第2巻。

1971年から断続的に、ニューギニア島中央南部、トレス海峡の北側のオリオモ台地、ウォニエ村のギデラ族ドレム・クランの一員として滞在した記録。

キデラ語は2000人ほどの話者をもつ言語、ギデラ族・ギデラ語というのも他称である。ギデラ族はパプア・ニューギニアのオリオモ台地分水嶺に13の村に分かれて住む。

本書は、そんな村にのべ700日以上滞在した人類学者による、村人の生活の紹介である。
死や出産、葬儀や来世観も述べられているが、物質文化紹介が中心、狩猟・焼畑・サゴ洗い・チガヤの原っぱ(ヤップという)の維持管理、熱帯林(ブアという)の植物の利用、昆虫や小動物の利用、野外生活(遠足というかピクニックというか狩猟というか、そんなものが混じったもの)、年齢階層ごとの集団、結婚などについて。

焼畑でタロイモをつくり、ココヤシやカンラン、グネツムなども栽培している。
が、食の中心は、湿地の半野生サゴヤシからのデンプン。
それに乾燥したチガヤ帯のワラビー。
つまり、狩猟採取による食料獲得をメインとする人々である。

植物は200種以上、動物は有袋類・爬虫類・野生化したブタであるイノシシ・アリやその他の昆虫・魚を採取・狩猟している。

弓矢と山刀以外の道具はほとんどなし。
これで、家などの建築、薪つくり、サゴ洗い、罠つくり、調理などすべてまかなう。

ということから想像がつくように、身体能力、環境認識能力が抜群にするどい人々である。

星野龍夫,『濁流と満月 タイ民族史への招待』,弘文堂,1990

2006-12-20 17:19:51 | フィールド・ワーカーたちの物語
田村仁(たむら・ひとし)カラー写真が64ページフューチャーされていて、共著の形をとっているが、まず、文章のほう、星野龍夫さんの文章のみレヴューする。

と、いっても、わたしにはとうてい評価できるものではない。
東南アジア関係でわたしが読んだ本のなかで、もっとも難解な書物である。

もし著者が星野龍夫氏ではなく、出版社が弘文堂でなければ、どうせ研究室にとじこもっている学者の重箱の隅をつついたような研究だろうとみなして無視するところである。
だが、本書は、東南アジア関係書を数多く出版している信頼できる出版社の本であり、著者も翻訳などで著名な研究者であり、しばしば東南アジア史の参考文献に挙げられている。

以下、内容を把握できない読者(つまりわたし)による紹介であるので、あまり信頼しないでほしい。

13世紀半ば、モンゴル帝国の東アジア・東南アジアへの膨張以前、タイ民族に関する資料はほとんどない。
ところが、13世紀後半から、タイ民族が東南アジア大陸部に湧き出たように史料が増える。
歴史学者によって「タイ人の沸騰」と呼ばれる現象である。(そうですよね?!)
では、このタイ民族はどこから現れたのか?を考察した書物である。(そうですよね?!)

扱う領域は、東北タイ・北部タイを中心に、ラオスやミャンマー北部、カンボジア、ベトナムを含む。
扱う史料は、クメール語やモーン語の碑文、ベトナムの漢文史料、中国の漢文史料。
そして、言語学的手法と考古学的手法によりタイ人の移動(ホントに移動したのかどうかも含め)、隣接して居住している民族、敵対した民族との関係を検証・推理した研究である。

著者の星野さんは以前、『月刊しにか』に、クメール碑文・モーン碑文を解読したヨーロッパの学者は漢文が読めないために、基本的な間違いを犯していると指摘するエッセイを発表した(号数不明、今手元にない、調べ直すのはめんどくさい。)。
その間違いが訂正されないまま引き継がれていると、警告していた。
その例として、碑文史料中の「ジャワ」は現在のインドネシアのジャワではなく、メコン中流域とする。
以上が第1章。
以上の地名同定の過程で、北タイ、東北タイ、ベトナム、ラオスの地理が外観されるが、これ以後も細かい地名がどんどん出てくる。
著者にとっては周知の地名であり、河川の位置、山脈の配置、現在の道路や都市など読者も自明の前提として話がすすむ。(このへんで、大半の人は読むのをあきらめる。)

第2章はさらにアタマが痛くなる言語学的考察。
ここで、ベトナム語が南亜語族であり(現在、ほぼ全世界の学者に承認されている。)、タイ語話者は、この南亜語族と同じ地域つまり、北部ベトナムの紅河デルタに7世紀ないし10世紀ごろまで住んでいた、後のベトナム人(京族)と後のタイ人は同じ地域に住んでいたという仮説が提唱される。
(ですよね?!)

第3章は、漢文史料の地名同定。
タイ族がすすんだと思われる道筋の推理、同定。
この章が一番ややこしい。しかし、もし、ちゃんと理解して読めば、ラオスから東北タイ、北タイまでの歴史紀行になっていると思う。

第4、第5章は、遺跡案内。
もし、これらの章をしっかり理解して読めば、最高の遺跡案内になると思う。
どうして、ここで遺跡・仏像・寺院の考察が出てくるかというと、タイ族移住以前の権力構造、その後の変化を追っているのだと思う。(そうですよね?)

第6章、さらに難解。
たぶん、先住の高度文明(クメール、モーン、それからパガンなども……)とタイ人の関係、タイ人は奴隷的な境遇だったのか、というようなテーマだと思う。
本書の白眉と思われるが、よくわからない。

第7章
タイ人による国家の形成。
星野龍夫さん独自の見解なのか、歴史学界である程度受け入れられている仮説なのか、よくわからないが、すごい仮説が提唱される。

スコータイ王国ラームカムヘェーン王は、フビライ率いるモンゴル帝国軍、占城軍総管、征緬行省招討使、「劉金」という人物と同一人物である。
え?
ええ?!
つまり、最初のタイ語碑文として名高い(タイの小学生は暗記させられる)スコータイ碑文を記したラームカムヘェーン(ラームカムヘーン)王は、モンゴル軍の現地案内人、モンゴルに協力してチャンパやパガンを襲った軍の地方長官だった、というわけ?
とはいうものの、結論部分も論証過程もよくわからない。

インドシナ半島全域の土地勘があり、川筋や山脈のようすが実感でき、遺跡や寺院をイメージでき、クメール語やラーオ語が多少ともわかれば、ものすごく楽しめるだろう。
筆者の推理を追体験できれば、すばらしい読み物になると思う。
しかし、「タイ語かラーオ語がわかっていれば、クメール語のラジオ放送なんか10日も勉強すればわかるようになる。」などと、のたまう著者とわたしのような読者では、かなり頭のレベルが違うようだ。残念。

われと思わん方は、じっくり読んで、著者の推理の盲点をついたり、ミスを発見して楽しもう!!

(蛇足;さすがにウェブ上で、本書をまともに紹介しているページはない。みなさん、中身を読んでないのに、いいかげんに紹介しているので注意!!)

水野浩一,『タイ農村の社会組織』,創文社,1981

2006-11-21 22:39:11 | フィールド・ワーカーたちの物語
1979年に若くして亡くなられた水野浩一の論文を前田成文・坪内良博が編集したもの。
京大東南アジア研究センターが集中的に調査した東北タイのドーンデーン村の実証的社会調査記録である。

序章で述べられているように、タイの農村社会については、アメリカ人のエンブリー(John F. Embree) が日本社会と比較して、ルーズな社会と名づけたエッセイが大きな衝撃を与えた。
ヨーロッパと中国ぐらいしか参照したり比較する視点がなかった時代に、いきなり日本とタイを比較する論文があらわれた、というわけである。
衝撃も大きかったが、批判・反論も大きく、ルーズ、ルーズというけど、何がルーズなんだ、農村の組織か?構造か?ひとりひとりの人間の行動か?性格?、だいたい、社会組織に人間の行動が決定されるのか?
そもそも「農村」てなんだ?日本の農村とタイの農村が比較できるのか?
などなど議論を巻き起こしたようだ。

そうした中で、日本の研究者としてもっとも深く社会調査をしたのが水野浩一であった。
農村の経済、農地所有、家族、親族、階層構造、村落自治、宗教儀礼などについて実証的な調査結果がまとめられている。
特に「屋敷地共住」という概念を提出し、タイの農村は核家族であるがイングランドやヨーロッパの核家族とは異なるし、都市の核家族とも異なるという点を描きだしたのが大きな業績である。(そうですよね……)

とはいうものの、本書を、わざわざ現在読む人だったら、付論の「フィールドからの報告」と「工業化と村落の変貌 中部タイのオム・ノーイ村」のほうが、おもしろいのではないでしょうか。
1960年代前半の調査、ちょうどわたしが小学校高学年の時代、東京オリンピック前後である。
読んでいくと、別世界のようでもあるし、日本に近いような場面もあるし、なかなかおもしろい。

星野龍夫・森枝卓士,『食は東南アジアにあり』,弘文堂,1984

2006-10-13 22:08:53 | フィールド・ワーカーたちの物語
星野(ほしの・たつお)さんは、文献研究の達人であり、タイ語とマレー語の現代文学の翻訳でも有名。
森枝(もりえだ・たかし)さんは、戦場カメラマンをめざした(?)が、食文化、料理方面の写真家・ライターとなる。

東南アジアの食文化・料理に真正面から取り組んだ日本最初の書物であろう。(どこまで食文化の本に含めるか、どこまで東南アジアに含めるかが問題になるが、おおまかにいって、本書が東南アジアの食を紹介した最初の本でありましょう。)

本書はちくま文庫で文庫化もされたが(文庫は未見)、その後の東南アジア料理ブームから見ると、内容は、いかにも古い。著者のおふたりも、おそらく、これほど東南アジア料理がブームになり、どうでもいい本がやまほど出版されるとは予想できなかったろう。
まったく前提知識のない読者に伝えるわけであるから、今読むと、実にまだるっこしい内容である。
レシピの紹介もあるが、この本書出版の段階で、これらの料理の味を知っている人はほとんどいなかったのではなかろうか?
いたとしても、高級ホテルのレストランで食べたことがある人、または、現地駐在経験のある人ぐらいじゃなかろうか?

巻末に、タイ語・マレーシア語・インドネシア語・フィリピン語・それに英語での食生活用語対照表がついている。
ベトナム語がないでしょ。
そう、まだベトナムやカンボジアは取材できない状態だったのだ。
そして、フィリピンは、タイやインドネシアよりも身近な観光地だったようだ。(あくまで、比較の上でのことですが)
この対照表は,今でも意外と役にたつ。特に英語が併記されているのが助かる。漢語も併記してくれればもっとよかったのに……。

篠永哲(しのなが・さとし),『ハエ』,八坂書房,2004

2006-09-30 08:48:44 | フィールド・ワーカーたちの物語
副題,「人と蠅の関係を追う」

1973年から始まる著者の海外調査・海外滞在研究の思い出。
学術書ではなく概説書でもなく、著者のフィールド調査と旅行の話といってよい。

最初がハワイのビショップ博物館での標本整理。
公用旅券で渡航、健康診断は寄生虫検査も含む、外貨持ち出し限度額が200ドルの時代。
つまり、この時代、この世代の優秀な学者だけが可能な海外渡航なのだ。
優秀な学者と書いたが、自然科学畑の学者は、たいていアメリカ行きで、著者のようなニューギニアとインドネシアが憧れの地、というタイプは非常にすくない。
特に、著者と同じ医学分野では、この方面つまり太平洋から東南アジア、さらに西南アジアまで向かう人はすくない。

というわけで、貴重な医学関係の学者が歩いた南太平洋~東南アジア~西南アジアの記録が本書である。
人間の害虫である、ヒトの生活圏で分布するハエ、農業・牧畜環境に分布するハエの研究が、多くの場合のタテマエ、つまり研究補助金を申請する時の理由らしいのだが、ほんとうは、野生のハエ、つまり自然環境のなかのハエの採取と研究が、著者の関心であるようだ。

だから、海外にでかけ、保健衛生関係の役人と談判し、調査の許可を得、役人から解放され、山や川にでかけるのが、著者のよろこびであるらしい。
そんなめんどくさい手続きと交渉を全部自分でできるのが著者である。だからこそ、70年代から海外調査に行けたわけですね。

ウォーラス線とウェーバー線の交差するインドネシアを中心に、ニューギニア・ソロモン諸島・西サモア・ニューカレドニアと南東方面、フィリピン・タイ・マレー半島・ボルネオと北西方面へでかけ、さらにネパール・インド・パキスタン、ナイジェリア・マダガスカルまででかけている。
ハエ学的におもしろいのは意外にも、小笠原諸島・ハワイ諸島・マダガスカルなど、大陸から離れたところであるようだ。

しかし、う~ん、こういう昆虫学者というのは、常人の見えない世界を見ているもんである。
チョウや甲虫に夢中になる昆虫マニアより、さらに別の世界の住人というかんじ。

林行夫,「「ラオ」人社会はどこにあるか」,2000

2006-07-12 20:55:52 | フィールド・ワーカーたちの物語
林行夫,『ラオ人社会の宗教と文化変容―東北タイの地域・宗教社会誌』,京都大学学術出版会,2000.の第2章。
書名のとおり、ラオ人の開拓村で宗教全般を見聞調査した学術書であるが、まず第2章の「ラオ人」とは、どういう人々かという部分のみまとめる。

タイ国東北部からラオス、メコン川中流域に住むラオ人。

人類学者、言語学者、民族学者の見解は共通している。
この人々は、タイ・カダイ語族にぞくする南西タイ語の一言語である共通のことばを使用し、モチゴメを好み、上座仏教をいとなむ人々である。

もともと、かれら自身は、自分たちを「タイ」といっていたようだ。
それが、スコータイ、アユタヤ、バンコクなどのタイ中部の王朝からは、「ラオ」と呼ばれていた。
タイ中部の人々は、自分たちのことを「シャム」といっていた。

「タイ」という自称であれ、「ラオ」という他称であれ、中部(チャオプラヤー川流域)のシャムからは区別されていた。

この状況が変わるのは、フランスのメコン川流域進出である。
フランスに対抗する、ラタナコーシン朝シャムは、この地、つまり現在のタイ東北部を自国の領土と明言し、そこに住む人々を同じ国民とする。
一方、メコン川東岸はフランスによって、ラオスと名づけられる。

戦後フランス領インドシナが解体し、ラオス人民共和国になる。
タイ王国のほうは、ラオ人に住む領域を「イサーン」と呼び、おなじ国籍、同じ民族のタイ人とする。
しかし、中部(シャム)からみた、東北部の蔑視は続く。
イサーンは、共産主義者の跋扈する地、停滞した僻地と認識される。
干からびた水田と貧しい農民、バンコクのスラムに流入するイサーンの貧民、というイメージが定着する。
アメリカの援助による道路が建設され(ラオスを爆撃する空軍基地もおかれ)、キャッサバやケナフなどの商品作物が導入されると、イサーンの貧しいイメージは増大する。

一方、アメリカ軍基地からの爆撃で国土を荒らされたラオス人民共和国は、まったく別の意味を「ラオ」に与えた。
ラオス政府によれば、「ラオ」とは、盆地や渓谷に住むラオ・ルム(低地ラオ、言語学者が定義するラオ)、モン=クメール諸語をはなし山腹にすむ人々ラオ・トゥン、高地や稜線に住むメオやシナ・チベット諸語をはなす人々ラオ・スーン(山頂ラオ)、すべてを含むラオス国民である。
ラオスでは、少数民族という語を使わない。ラオス国民は言語が違っていても、みなラオである。
そして、ラオス政府からみれば、タイ東北部のイサーンの連中は、シャムに隷属した祖国をもたない者たちである。

というように、タイ国内のラオ語話者・イサーンの人々は、タイ国民としての意識を持ちはじめ、ラオスのラオとは一体感を持たなくなった。
かといって、完全に中部のタイ人(シャム人)と同属意識をもっているわけではなく、シャムからの差別は続いている。

さらに複雑な要素。
東北タイやラオスにもともと住んでいた人々、スウェイ、カメーン(クメール)、そのほかの少数グループからみると、ラオはよそ者である。
モン・クメール語族の人々は、「タイ人」や「イサーン」ではなく、「ラオ」としてラオ人を認識している。また、ラオ語はスウェイやカメーンにとって、共通語でもある。

そう、ラオ人とは、移動する人々であり、農民兼商人である。
クメール人の家に婿入りし、縁者をよびよせ、村をラオ化してしまう。
追い出された先住民は別の村を作る(結果的に、新しい村に先住民(?)が多く、古い村に、移住してきたラオ人が多い、というややこしい状況がある。)

そして、スウェイやカルーン、ニョー、ヨーイからみれば、ラオは決してあわれな農民ではない。
もともと、商才に長け、「蟻が砂糖にむらがるように儲け仕事に敏い連中」なのだ。
正確な年代は不明だが、19世紀から東北タイに進出し、森を切り拓き、農地を作り、転売する、といった「土地ころがし」で儲ける人々である。
現在でも、この移動は続いている。

日本からみると、これほど土地が余っていたのがふしぎだが、もともと人口希薄な土地だったわけだ。ラオに追い出された先住のクメール系が、さらに新しい村を作る、というのも土地がそれだけ未開拓であったのだ。
(タイ政府による土地占有法ができるのは20世紀(1936年)、その法律が実効力をもつのは、地方によって地域によって異なる。)

現在(著者が調査した1980年代)、ラオ人はイサーンの地で、イサーン人としての自己意識を持ち、学校教育によって、ほぼ全員、中部タイの標準タイ語を理解し、ラジオ・テレビのタイ語を聞き、若い層は読み書きもできる。完全なバイリンガル社会である。

著者が調査した村は、コーンケン県ムアン郡ドンハン行政区のD村。
(参考文献をみれば、この村の名はすぐわかるが、なぜか著者はイニシャルのみであらわしている。)
1850年代に開村した開拓村。
かれらの祖先は、ヴィエンチャンからチャンパーサックに南下し、さらにウボンラーチャタニーからチー川ぞいにローイエットに移動した人々である。