東南アジア・ヴァーチャル・トラヴェル

空想旅行、つまり、旅行記や探検記、フィールド・ワーカーの本、歴史本、その他いろいろの感想・紹介・書評です。

佐々木高明,『南からの日本文化(下)』,日本放送出版協会,2003

2007-12-20 21:36:46 | フィールド・ワーカーたちの物語

下巻の一部だけレビュー。
フィリピン・バタン島のイトブット(Itbut)村、1970年の調査。
ヤムイモとサツマイモを主作物とする輪作畑作農耕の村。

イモを栽培するさい、ニワトリやブタの血を供犠する儀礼がある。著者の推定によれば、これは古い時代の雑穀ないしは陸稲焼畑の儀礼が根菜農耕に起源があるものである。

フィールド調査とともに、ふたつの日本からの漂流記録も参照される。
寛永年間(1660年代)と天保年間(1830年代)の記録である。
この2種の漂流記録から、過去の農耕や儀礼、食物調理を再現する。

サツマイモはスペイン人の渡来とともに持ち込まれたようだ。
過去の記録にアワ栽培の記録はない。
大型獣つまりブタ・ウシの供犠がある。
サトウキビからつくった酒やキンマも天保期には記録されている。

*****

台湾・屏東県・霧台(ブタイ)郷・去露(キヌラン)村での1971年の調査。
まったく平坦面がない村で、斜面の焼畑でサトイモ・アワ・サツマイモ・ラッカセイを主作物とした農耕。
ここではアワの栽培にさいして禁忌や儀礼があり、アワモチやアワ酒などハレの食品として意識されている。

しかし、収穫量や日常重要な作物は、サツマイモでありサトイモである。

*****

というように、照葉樹林帯からはずれた、根菜農耕を主体にした焼畑民のあいだでも、アワや雑穀栽培にみられる儀礼が存在する、ということ。
一方では、おそらく古層の文化である動物供犠の儀礼も残っている。
そして、新大陸産の作物であるサツマイモ・トウモロコシ・ラッカセイなどが日常の作物として、収穫量も消費量も多くなっている、ということ。

なんかあたりまえのことばかり書いているようだが、〈照葉樹林帯〉の核心域での調査が困難な時期に、メラネシアやウォーレシアに共通する生態を調査したことが、のちに〈照葉樹林文化論〉を訂正・発展させるさい、視野をひろげることになったと思う。

それからやはり、日本文化と結びつけた議論よりも、ブタや水牛のいる村、トウモロコシやサツマイモといった新大陸産の作物のインパクト、キンマやサトウキビ酒など日本列島にない文化、そういうことを含めたフィールド調査話のほうが、わたしには興味があるのだが。

佐々木高明,『照葉樹林文化とは何か』,中公新書,2007

2007-12-20 21:35:32 | フィールド・ワーカーたちの物語

決定版だ。
もう、これ以後、照葉樹林関係の本を読むのはやめる。
これ一冊で終わり。

中尾佐助という人物は偉大だ。
彼の提唱した仮説、仮説だよ、仮説!照葉樹林文化論は、その後のフィールド・ワークで検証され生態にかたどられた物質文化である。中尾佐助の仮説は正しかった。
しかし!
〈東亜半月弧〉というような魅力的な命名は、少々むりがある。実際は、アッサム・雲南から日本列島西部まで続くのはたしかだが、広大な長江以南の地域も含んでいる。
江南では、歴史時代に照葉樹林帯が消滅したように、雲南・貴州の山地からも照葉樹林は消滅している。
残ったブータン・シッキムから西日本のわずかなポケット地帯から証明された仮説である。

では、中尾佐助はなぜこの魅力的な仮説を考えたか。
それは、(ここからがわたしの判断だが)やはり、中国と日本の伝統を切り離したかったからだろう。
ちょうど、江上波夫の〈騎馬民族説〉が、シナ文明と日本列島を切り離したかったのと同様のメンタリティだろう。
〈騎馬民族説〉はトンデモだが、照葉樹林文化はたしかに存在し、実証できた。
しかし、それを、日本文化の起源とか、日本人の源郷ととらえるのは、やはりおかしな方向へいってしまう。

わたしとしても、日本列島に共通する文化として、ヒマラヤ山麓東部まで続くものがある、とする説には感動するが、それのみを日本文化の源流とするのは誤りである。
また、こちらが重要だが、ヒマラヤ山麓東部から東南アジア北部、華南、台湾までを、日本文化のルーツとしてだけ強調するのは完全におかしい。

さらなる間違いは、照葉樹林文化と稲作を結びつけたことである。
その点は、本書の研究史と第3部の対談にくわしいが、やはり照葉樹林帯の文化として稲作をとりあげるのはむりがあったようだ。

誤解をさけるためにつけ加えると、現在の照葉樹林帯では、稲作は重要な要素である。しかし、日本列島で稲作が重要であるのは移入文化であるのと同様、かの地での稲作も移入文化である。

という基本をしっかり認識するために読むべき本。
ほんとに40年間よく研究してくだすった。

立本成文,『共生のシステムを求めて』,弘文堂,2001

2007-11-25 17:57:39 | フィールド・ワーカーたちの物語

この著者の本を読むのはこれがはじめて。
研究領域はよく知っているし、どんなことを書いているかも知っているが、一般向け著作の少ない研究者の場合、まったく著作を知らない、読まないということがある。

副題「ヌサンタラ世界からの提言」、シリーズ名「現代の地殻変動を読む」、というタイトルから予想されるように、東南アジア海域世界の生き方を理解し、現在のグローバル化へのアンチ・テーゼを提唱したもの。

著者の主張する、提言する、東南アジア世界のエコ・システム、ソーシャル・エコ・システム、圏的発想、二者間関係を基盤とする人間関係、そういうことはわかる。理解できる。
しかし、それを東南アジア全体、さらに日本列島や東アジアに適応できるか、あるいは、グローバル化に対抗するオルタナティヴになるか、というと、わたしには判断不能だ。
たしかに、著者の描く、うごきまわる人々、ディアスポラ、フロンティア社会、そういったものはすばらしく、風通しがよくて爽快で、国家や企業にがんじがらめに縛られた社会で暮らす者にとっては魅力的にみえる。
とくに第4章のブギス人の世界、第5章のエスニシティを考察した部分、第6章の国家のひずみを描いた部分がみごとであるが。

家族や世間を考えると、不自由なもの、束縛するもの、と感じてしまうわたしがまちがっているのは、わかる。かといって、ヌサンタラ世界のように生きられるかというと、今住む世界とはまったく異質な世界であるように思える。むむむ。

鈴木隆史,『フカヒレも空を飛ぶ』,梨の木舎,1994

2007-11-05 20:51:23 | フィールド・ワーカーたちの物語
サメってこどもの頃たまに食わせられたものだが、好きじゃなかったなあ。
「サメ」「浸透圧」「尿素」などで検索するとわかるが、サメやエイは筋肉中の尿素濃度を高くしていて、それが死後アンモニアに分解されるのだ。
そのうえ、サメの肉は、ぐにゃぐにゃした歯ごたえのない肉でマズイんだよな。と、いう話をしたら、サメを食べたことがない人も多いようで、日本では大半は安いカマボコや練り物の材料になっているようだ。

さらに本書を読んでびっくりしたのは、海上でヒレ以外が捨てられているということ。うーん、マズいサカナであるが……。

一方、フカヒレという高級料理があるということを知ったのは、いったいいつ頃だろう?
実際に食う以前に、小説かなにかで知ったとおもう。
初めてフカヒレを食べたのが、いつかもう忘れてしまったけれど。

しかし、現在、日本中だれでもフカヒレ料理を知っているようだ。おいしいと思う人が食うのは文句ないが、ラーメンの具にするなんてのは、まったく邪道ではないか。麺料理は、ブタやトリのスープが基本なんだから、フカヒレをいれたってうまいわけないだろが。レトルトスープのフカヒレなんてのも無駄な邪道ではないかよ。

という背景のもと、インドネシア・インドラマユ県・カランソン村に住みこんで、フカ漁とフカ肉・フカヒレの流通を調査したのが本書。告発系の本を多くだして歴史修正主義勢力からきらわれている梨の木舎からの出版。
けれども(だからこそ?)、本書はじっくりフィールドにいすわって調査した読みごたえある一冊である。
1985年から91年まで5年間の調査。(ボゴール大学の研究生なので、ずっとこの村に滞在したわけではない。)

フカヒレ大尽のイディ氏との出会いから始まり、ジェンデラル・ヌラヤン・ハジという名のギャンブラー的商人、はだか一貫から財を築いたじいさんの家に下宿する。
こういうタイプの人間を描くのもインドネシア研究者の通例で、貧しい漁民・農民の話ばかりじゃわからない。
もちろん、零細漁民というより漁船に乗る労働者、浜のかあちゃんたちの仕事もみている。(サメ肉からはいだ皮をクルプック(キャッサバ澱粉から作るせんべい)の原料にするという話は、本書ではじめてみた。エビセンばかりではないのだ)

さらにジャカルタのフカヒレ輸出商、香港の貿易商など流通を握る華人たちの話もきく。ルピアの下落で相対的にフカヒレの値があがり、インドネシア国内でフカ漁がブームになったという背景が説明される。
流通を握るのは香港とシンガポールの商人であり、日本の商社などが参入できない世界であるようだ。つまり、生産地インドネシアから消費地香港、さらに日本などの市場へ再輸出するネットワークが華人のネットワークに結びついているわけだ。

さらに80年代後半のフカヒレ・ブームの中ではじまった、アル島やイリアン・ジャヤのフカヒレ漁についても書かれている。(その後の真珠養殖ブームにもふれている。)
サメ漁のついでに捕獲されるエイは地元でサゴヤシ澱粉と交換される。ほとんど商品価値がない。
ふーん。

ここで本書の内容をすこしはなれて国内のエイ情報。
日本全体のことはわからないが、わたしの知る範囲では、干したエイのヒレを料理して食うのは東北だけのようだ。北海道では生のエイ料理もあるようだが、わたしは生のエイ料理は知らない。干エイをもどした料理も生のエイも〈カスベ〉と呼ばれているようだ。干エイヒレ、つまりカスベをもどした料理は秋田県でもよく食べられわたしも好きだ。(だいたい、どうして、他の地域で知られていないのか?どうして、こう他の地域にない食物が秋田に多いのだ?)
それで、このカスベだが、けっこう高価なのだ。現在売られていうのが、どの産地ものか知らないが、東南アジアから輸入されているわけではないのか?(エイの種類がちがうのか?こんな基本的なこともわからない。)

本書を読んで不満はサメ肉の流通のことも、もっと書いてもらいたかったこと。

どなたか「イカの東南アジア」というような本書いてくれないでしょうか。エビやミルク・フィッシュのように養殖で環境に影響を与えるものではないので、その方面の関心をひかないが、東南アジアで広く消費され、華人市場にも輸出されているものだから、いろんなことがからんでおもしろいと思うのだが。

石井米雄・横山良一,『メコン』,めこん,1995

2007-09-17 09:25:01 | フィールド・ワーカーたちの物語
両開きの体裁で、写真家・横山良一・石井米雄の共著であるが、文章のほうの石井米雄の部分を紹介する。

戦後最初にこの地域を踏査した1957年「稲作民族文化総合調査団」の一員。
さらにそのすぐ後、梅棹忠夫とともにインドシナ三国を踏査。
タイ語というよりタイ語族の権威であり、東南アジア研究センター所長、神田外国語大学学長などの要職をつとめ、各種学術会議や出版企画の監修も多い。
つまり、このメコン流域に、もっとも詳しい、本を書くなら最適の人物であるが、めちゃくちゃ忙しい人らしく、めったに一般向けの本は書いてくれない。

そんな石井米雄を無理強いして書かせたのが、めこんの社長・編集者の桑原震である。
最適の著者と編集者を得た、東南アジア本の傑作!と声を大にしてさけびたいが……。

まず、短い!
石井米雄ともあろう人物なら、この三倍くらいは、楽に書けるのではないか。
内容がスカスカで長いだけなら意味ないが、もっともっと書く内容をもっていると思う。
本書をしのぐメコン流域案内は今後でないのか?
残念ながら、その可能性は薄い。

本書が刊行された頃、ベトナム・ラオス・カンボジアの旅行・取材の制限が緩和され(もちろん、それ以前に完全に閉ざされていたわけではないが)、どっとインドシナ関係書、旅行記、写真集が出た。
どれも、はじめておとずれるベトナムやラオスに感激し、市場経済へむかう活気や美しい田園風景に感激し、混乱の中でいきる元気な住民におどろいているが、中身がうすい。

そんなメコン流域本が氾濫するなかで、本書の内容は他を圧しているが、それでも、やはりページ数が少なすぎ、内容が圧縮されすぎている。
ちまたにスカスカの本があふれ、石井米雄大先生が書き下ろしを発表した後では、これらにつけ加える内容を書きたい人も書きにくい。
特定のテーマや地域を研究したり旅している人は多いだろうが、本書のような広大な流域の歴史と文化的背景を理解したうえで本を書こうとする著者は、残念ながら、ここしばらくは出現しないだろう。

というわけで、読者は本書の少ない記述でがまんするしかない。
内容は、文句のつけようがなくおもしろく、高度で内容が濃い。
東南アジア関連書のなかで、ベスト10確実である。

一見意味がないような、同じような流域の地図が章ごとについているが、これは、すごい。
章ごとの内容が、メコンの支流や山地の地形とどう関連するかが、よおくわかる。
これは、編集者・桑原震の発案でしょうか?

『時間の束をひもといて 追悼土屋健治』,1996

2007-09-07 18:43:58 | フィールド・ワーカーたちの物語
編集・発行:『土屋健治追悼集』刊行会。
非売品。
おおきめの公共図書館や大学図書館で閲覧可能であろう。(図書館員のみなさま、利用がないからって廃棄しないでね。)
高い値段をつけて売っている古本屋から買うことはないぞ。

編集の中心は押川典昭(『ガラスの家』翻訳完成!アマゾンでもみあたらないが……)など生前の交際をえた方々、京都大学東南アジア研究センターや東南アジア史学会。

全875ページの前半は土屋健治の小学校時代の作文から私信、短いエッセイで生涯をたどる。
後半は弔辞と追悼の辞。
さいごに極詳細な年譜。

追悼の辞では、やはり高谷好一と前川健一がいちばんおもしろいな。
坪内良博や白石隆は、いまさら書くこともないほど話をした仲間というかんじか。
早瀬晋三と古川久雄が真剣な問いかけをしている。
あとは、土屋健治という男が、そびえたつ壁のようにみえた後輩・同僚がおおかったんですね。(深見純生、倉沢愛子など、そうそうたる方々がおそれている。)

意外なのはユディスティラ・ANM・マサルディで、土屋健治といっしょに冗談をいいあい、笑いころげていた、という話。写真でみる、苦虫をかみつぶしたような顔の土屋健治からは想像もできない。

小泉文夫 その3

2007-08-20 08:55:42 | フィールド・ワーカーたちの物語
前項のような「未開」の地での調査も学術的に価値が高いが、やはり、われわれ普通のものに楽しめたのは、音楽文化が豊かな地域からの音であった。

南インド・北インド・ベンガル・ジャワ・バリ島・イラン・トルコ・ルーマニア・ブルガリア、といったユーラシア大陸の東西南北。
乾燥地帯の民族、南の海岸にそった民族、インドの各地、これらの地域の芸術家、専門家、あるいは観客や見物人に見せることを前提にした芸能が、やはり聴いていておもしろい。
これらは、もうCDやウェブでどんどん聴けるようになったので、ここでは省く。

そんななか、小泉文夫自身だったら楽しめたろうな、と思うのが「高砂族の歌」、台湾原住民の歌である。
キングレコード GXC-5002 『高砂族の歌』 として市販。
録音は1973年、CDや50枚組セットに収録されているのと、同じ録音だと思う。

10の部族すべてを収録だから、各部族の収録数も時間も少い。
しかし、解説を読めば、ひじょうに多様で、自由リズムの独唱から拍節的な独唱、拍節的合唱、自由リズムの合唱があり、合唱もユニゾンから平行オルガヌムやドローンを加えたもの、カノン形式などポリフォニー、あるいはハーモニーを持つものがある。

と、書いていくと、ちょっとちょっと、台湾の歌を、そんな西洋の基準でとらえるのか、と疑問・批判がわきそうだ。

しかし、この場合、これでいいのだ。

小泉文夫という人は西洋音楽の基準・美学の圏外にあるさまざまな音を紹介した人であるが、同時に西洋的な科学的論理的基礎もしっかりできていた人だと思う。
むこうの国の偉い人や官僚が嫌うような僻地にでかけ、原住民の村の長老に挨拶し、どっかと上座にすわり、(というようなイメージを平岡正明が書いていたっけ)無心で楽しめる人徳も持っていた。
わたしなんかは、この録音された歌をとても楽しめないが、小泉文夫自身はなんの違和感もなく楽しんだのではなかろうか。
それに、なにより、西洋西洋というが、ポリフォニーの伝統を維持したゲルマン民族も焼畑農耕民ですからね。

というような融通無碍な人が小泉文夫であった。
が、それがちょっと困る部分もあったな。

よい例が、この『高砂族の歌』というタイトルだ。
台湾のオーストロネシア語族の人々は、「山地民」「山胞」「先住民」という呼称を嫌っている(「熟蕃」だの「生蕃」という用語は論外!)。同様に「高砂族」という呼称も迷惑な呼び方である。
それを堂々とつかうのは、ちょっと無神経ではなかろうか。
客人に対して、礼をつくす人たちが、そんなこまかいことを気にしないにしても。

あるいは、たとえば、「ガムラン」というカタカナ書き。
小泉文夫自身が「ガメラン」のほうが現地の音に近いと知っていながら、語感が悪いといって「ガムラン」という表記を続けた(と、本人が書いている)。
そのため、「ガムラン」という表記が定着してしまったではないか。今打っているIMEスタンダードも「ガムラン」は一発でカタカナ変換になるのに、「ガメラン」はへんな文字に変換される時がある。
まったく困った人だ。

死後、評価が高まるとともに、限界も指摘された。
ポピュラー音楽に関心がなかった、という問題など重要だが、今はおいておく。
上記の困った点は、彼の人徳のうち、笑って許そう。

しかし、彼の晩年、といっても50代前半であるが、しだいにある種の壁ができていたようにおもえる。
以下、故人に対していささか礼を逸するが、書く。

マス・メディアを通じた小泉文夫の活動で、われわれは異郷の未知の文化に遭遇できたわけだが、一方で小泉文夫自身は、さまざまな会議・組織・イベントに参加し、猛烈に忙しくなった。
その中で、彼は、音やパフォーマンスばかりでなく、現地の気温や湿度を肌で感じながら音楽・芸能を観るイベントをつくりたいと言っていた(不正確な引用ですみません。ラジオの放送だったか。)。
しかし、これは、無理な方向ではなかろうか。
そして、わたしは、彼が病床に伏してからの苦しみ、手帳の予定に次々と横線が引かれていく、という苦しみを思う。
びっしりと予定が書きこまれた予定が、自分が関与しないまま過ぎていく苦しみ。

しかし、この点こそ、彼が病魔を招きよせた元凶ではないか。

彼が紹介したさまざまな驚異、華麗な響き、朗々とした歌声は、なにもすることがない、という退屈な日常から生まれたものではないのだろうか。
温度や湿度を同じにしても、共有できないものがある。

小泉文夫という人物は、貧富の差、世界中を移動できる者と一生うまれた地を離れられない者の差、膨大な教養を持った者と生活技術だけを持つ者の差、こんなさまざまな地球上の不均衡をのりこえて、いっしょに歌や踊りを楽しめる才をもった人物であった。

しかし、越えられないのは、時間の差、忙しくはたらく者と暇で暇でうんざりしている者の溝ではなかったろうか。

*****

小泉文夫が死去した1983年の12月、NHK-FM の「世界の民族音楽」で、追悼特集があった。
それをカセット・テープに録音したのをまだ持っている。
以上の内容は、この放送内容も参考にした。

他に、
岡田真紀,『世界を聴いた男・小泉文夫と民族音楽』,平凡社,1995
を参照。

小泉文夫 その2

2007-08-19 16:44:27 | フィールド・ワーカーたちの物語
<生前の学術書は『日本伝統音楽の研究 1』,音楽乃友社,1958 のみ。

これは、日本音楽の音階を4種のテトラコルドに分けたもの。
わたし自身は他人に説明不能なので、ウェブで調べてくれ。

最初の「基音」ということろで、どうやって基音を定めるのかよくわからず、結論を読んだくらいだが、ともかくもう、修正の余地のない決定的な音階分析。
沖縄音階を日本音楽の構造の中にしっかりと収め、「ヨナ抜き音階」「都ぶし」などと称されていた音階の構造を解き明かし、雅楽の音階も含めて、「4種のテトラコルド」として捉えたもの、という具合でいいかな。

実際に執筆・発表(N響の機関紙に発表)し、修士論文にしたのが29歳ころ。
普通なら、これだけで一生食っていける?
その後すぐにインド政府給費留学生として南インドのマドラスと北インドのラクナウで学ぶ。

その後、籍のあった平凡社を退社し、東京芸大へ。
ここから、一連の海外調査と日本国内のフィールド調査がはじまる。

国際会議出席のついでの録音だったり、学生を指揮した演習としての国内調査で、まとまった著作として発表されていないが、この時期のエッセイとラジオ放送がわれわれ一般人にとどいたのが、1960年後半から1970年代だろう。

一例をあげると、わらべうた。

これは、いわゆる形骸化したわらべうたではなく、自然発生の遊び歌、替え歌、言葉遊び歌を調査したもの。
わらべうたは、「素朴な農村」にではなく、むしろ大都市の過密なところで多様である。という衝撃的事実を発表する。
もっとも、昔はよかった風のムード的日本情緒をたれながす人には、彼の論旨は届かなかったようだ。
そればかりでなく、彼が学校教育に提言したものは、ほとんど相手にされなかった。
これにはがっくりしたようで、以後、活動の方向は、マスメディアと学術団体、企業協賛のイベントへむかう。

もうひとつ例をあげると「エスキモーの歌」

学術的成果も調査方法も衝撃的。

生業・環境・制度の異なる、クジラ漁のエスキモーとカリブー狩のエスキモーと比較したもの。
ここで、世界の多様な民族には、どこにもすばらしい音楽伝統があるわけでは、ない!という苦い事実がしめされる。
もちろん西洋音楽を基準にした比較ではない。
そうではなく、歌、とか音楽という文化がひじょうに薄い、というか、文化全体の中にしめる位置がほとんどない民族もいる、ということだ。

そして自前の歌や音楽の伝統がないカリブー狩エスキモーのこどもたちが、学校の音楽授業を受けるようすが録音されている。
これが、すごい。
今だったら(学校側から圧力や苦情がきて)とても発表できないんでは?
当時はソニーのテープレコーダーをかついだヘンな日本人がやってきた、ぐらいにしか思われなかったのだろう。(たしか、零下何十度の厳寒で、二、三百メートルの距離で遭難しそうになった、というのがこの時の調査だったと思う。)

教室の先生がけんめいに生徒に歌わせようとするが、こどもたちは先生の弾くピアノの音階をまったく受けつけない。
何度やっても歌になっていかない。
とうとう教師があきれて「やれやれ……」と言うような嘆きが録音されている。
こどもたちの戸惑い、「先生はなぜ怒っているんだろう?」という表情が目に浮かぶ。

日常の楽しみでもなく、祭りや儀礼でもなく、プロの芸術家でもなく、公共教育の教室の中で、人類にとって音楽とは、という問題の一端があらわれた録音である。(同時に政府による教育の一面も暴露されている。)

小泉文夫 その1

2007-08-19 16:20:13 | フィールド・ワーカーたちの物語
1983年8月20日、56歳で死去。もう24年前だ。

著作その他いっさい手元にないので、小泉文夫記念資料室
www.geidai.ac.jp/labs/koizumi/
を参考に、あとはすべて記憶で書く。

青土社からエッセイ集はたしか全冊ほぼ刊行時に読んでいたとおもう。
その他学術書にも目をとおし(読んだと断言できないのがツライ)、対談や軽い啓蒙書も読んでいた。
フィールド録音から起したLPレコードも20枚持っていたはずだ。

小泉文夫のインパクトは、現在からみると、ファンや関係者以外から見ると、過大評価されているようにみえるかもしれない。
しかし、すごかった。

わたし自身はFM放送の『世界の民族音楽』の忠実なファンではなく、時々きいていたにすぎないが、(日曜の早朝だったっけ。放送時間に関しては、ウェブで調べよ。)それでも、あの話しぶり(江戸弁まじりの講談調)、うらやましくなるフットワークの軽さ、信じられないようなヘンテコな体験、新鮮で楽しかった。

なんといっても、異国で録音した奇妙な音のざわめきが衝撃的。
当時は実際の海外旅行が困難なことはもちろん、写真もモノクロのぼけた印刷、文章による秘境の紹介は、うすっぺらなものか、その反対に学術的なものばかりで、ほんとに衝撃的なものは届いてこなかった。(もちろん、一般人からみてですが。)

食物や建築など、その場に行かなければ体験できないことはもちろん、映画も音楽も一部のヨーロッパ圏からしか届かない。翻訳文学もほとんどなし。
硬い学術書か統計資料しかない世界が世界地図の真ん中にあった。

そこに、録音とはいえナマの異世界を持ってきた男、電波にのせて日本全国のFMラジオの前の少年少女に開陳した男、それが小泉文夫だった。
そのナマの音とは、ドジンがタイコをドンドンといった偏見を助長するものではなく、「ああ、人類というのは、こんなヘンテコなことをやりだすものか」という驚き、「人間にこんなことが可能なのか」という肉体の限界を超えたような技巧、そんなダイレクトな「海外」や「異国」だった。

(死後、まわりの人々の回想や思い出から知ったことだが)少年時代から乗馬、水泳、ヴァイオリンに親しみ、女性にかわいがられ、百科事典の編集にたずさわり、学生結婚をして、30歳でインド留学、31歳で空前絶後の『日本伝統音楽の研究1』を発行、あるゆる言語を現場で習得し、テープレコーダーを持って世界をかけめぐった男。

かっこいい!
前項でとりあげた三島なんかがウジウジなやんでいたことを軽くクリアして、日本文化の精髄を、科学的にあきらかにするとともに、世界に開かれていることを示した男。

井上耕一,『アジアに見る あの坐り方と低い腰掛』,丸善,2000

2007-07-26 10:05:24 | フィールド・ワーカーたちの物語
本書はすごい。
誰でも見ていながらみすごしていた、あの坐り方、つまりウンコスタイル、ヤンキー坐り、(漢字であらわすと、蹲(そん)・踞(きょ)などの文字があてられるが、漢書に記されているものが実際どのような坐り方だったのかは、かならずしも明らかではない。)東南アジア各地でみられる人々の坐り方である。
「低い腰掛」とは、風呂屋の腰掛のような(と、いっても最近、銭湯のイスは高くなる傾向があるが)、地面(床面)から10cmから25cmくらいの腰掛のこと。

著者は、デザイン雑誌の編集、デザイン史、建築史研究者。
東南アジアの旅はタイの少数民族地域からはじめ、次いで中華人民共和国の少数民族自治区、ベトナムやラオス、ミャンマーの山岳地域へ足をのばす。本書にはシッキム・ティンプー・トラジャ(それに東京の渋谷)の写真も少々掲載されている。

著者が引用しているごく少数の文献を除き、先行研究はほぼ皆無。
しかし、漢民族やヨーロッパ人の目をひいたことは確実であり、旅行記や見聞録に記録が残っている。
われわれ日本人からみれば(といっても、最近事情が変わってきたようで、後述する。)あったりまえのような、「あの坐り方」は漢民族をのぞいた東アジア・東南アジアに普遍的に存在する、日常的な姿勢であるようだ。

そもそも、そんな理屈をつけたり、たくさんの証拠を持ち出すまでもなく、「あの坐り方」は、排便に不可欠であり、正常な骨格の人類ならば誰でも可能であるはずだが、ヨーロッパでは古くから衰退した。(こっちのほうが、謎である。)
しかし、便所の構造から考えれば、中東からインド(そしておそらくアフリカ全域も)まで、あの姿勢はだれでも可能な姿勢であるはずだ。

さらに奇妙なのが、あの低い腰掛。
著者は、あの低い腰掛を調理・軽作業・機織などのしゃがんだ姿勢での作業と関連して考察する。
本書全体は、明確な結論を出そうとしたものではなく、なるべくたくさんの実例と写真を紹介したものである。
だから、考古学的考察(土偶や腰掛の遺物)や起源をめぐる論議よりも、広範な観察と写真のほうが読者をひきつける。

低い腰掛に注目したのはすごいが、もうひとつ奇妙なのは、低いイス、つまり背と肘掛がついていて、尻と大腿部がおさまる大きさのイスであるが、異様に低いイスである。
これは西洋か漢族のイスがアレンジされて導入されたものらしい。(日本でも、ちょっと前まで、不釣合いな応接セットが多くの家庭にあったんですよ。じゃまくさく、楽でもないので、そのうち粗大ゴミとして処分されたんですが。)

各地で西洋化もしくは漢化によって、椅子がもちいられるようになっている。
が、椅子にすわる姿勢というものは、どうもリラックスする姿勢とは思えない。また、作業をする姿勢でもない。
もともと椅子というもの、権威の象徴として発達したものらしく、ヒトの骨格や筋肉に負担をかけるモノであるらしい。
わたしなんか、しゃがむ姿勢も足に負担がいって長く続けられないが、椅子に長い間すわっているのも苦痛だ。

しかし椅子に腰掛ける生活は、東南アジア・東アジアにどんどん浸透している。
学校やオフィスがそうであるし、食堂もテーブル式になると、高いスツールやベンチが導入される。
それに、車の運転やモーターバイクは腰掛ける、またがる姿勢ではないか。
そういえば、パソコンも腰掛けて使うように設計されているんだろうか?(今、わたしは椅子の上にあぐらをかいてキーを打っているんだが。)
権威の象徴やみせびらかしの財貨としての椅子があったが、現代的なさまざまな作業、道具によって、椅子に腰掛ける姿勢も急速に広まるだろう。

ともかく多数の写真を撮り、観察した著者の労作。(文章は少なめで、軽く読める)