鬼頭春樹著「実録相沢事件 二・二六への導火線」河出書房新社刊を恵贈していただいた。
「謹呈 著者」のカードには「御批評願えれば幸甚です」と、メールアドレスが記されていた。
以下は、鬼頭氏に送ったメールの“要旨”である。
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(前略)本書の帯封コピーを見て“どういう立場から事件を捉えているのか”多少の危惧を抱いたのですが、非常に公正な立場で書かれていたので安堵いたしました。
読んでいる間は、絶えず“故・相澤正彦氏=相澤中佐のご長男”のことが念頭にありました。奇妙な表現ですが“正彦氏の霊魂と一緒に読んでいる”という気持に度々なりました。時折、目頭が熱くなりそうになった部分も多々あります。
御存知と思いますが、1993年1月16日の夕刻に“相澤よね様=相澤中佐夫人”が逝去し、その翌朝に“末松太平”が死去しました。友引の関係もあって、通夜(1月19日)葬儀告別式(1月20日)とも同じ日程となり、同志の皆様は、相澤家(喪主=正彦氏、斎場=東京都中野区)末松家(喪主=私、斎場=千葉市)の参列に苦労したようです。
(中略)相澤正彦氏は、書物執筆のために膨大な資料を集めていたようですが、着手する前に難病に侵されて、2004年2月に無念の逝去をされました。奥様から連絡をいただいて、通夜と葬儀告別式に参列した“二・二六事件関係者”は(多分、正彦氏の遺志もあったと思います)私ひとりでした。山口富永氏(長野県大町市)は高齢と遠方のため参列を断念、弔電が披露されていました。
(中略)御著書310頁の「相沢が心を許した友人を探し出すのは難しい。利害関係損得勘定を超え、友情を共に下した人間は何人いたことか」という文脈で「その四人が広く知られるが」として、末松太平を「四人」に入れていただきありがとうございました。御著書全般にわたって、末松太平が相澤中佐を慕っている気持が伝わって、感銘を受けました。
(中略)蛇足。「実録相沢事件」は、相澤家(相澤中佐のご霊前)に届いているのでしょうか。(以下省略)
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この“蛇足”の理由は、本文中で紹介されている「相沢中佐の孫」が“志村孚城氏=現在は仏心会世話役”だけだったからである。志村氏(相沢中佐の長女の令息)は「孫」に違いはないが、私には“志村陸城中尉(青森第五連隊)の令息”というイメージが強い。志村氏の柔らかな人柄(と笑顔)には、日頃から好感を抱いているが、それはそれとして、やはり「相澤姓の孫=相沢正彦氏の令息二人」にも「実録相沢事件」の刊行を報せておきたいと思ったわけである。
鬼頭氏からは即座に返信メールが届いた。私の持論=文は人なり。真摯な人柄が伝わる長文のメールである。
末尾に「なおご教授いただきました相澤淑子さまには、早速、ご挨拶状を差し上げた上で、献本させていただきます」と記されていた。
“蛇足”は無駄ではなかったということである。
「実録相沢事件」の表紙を開くと、相澤ご一家の集合写真が掲載されている。幼い正彦氏は、相澤中佐と手を繋いで写っている。正彦少年の表情に、数十年後に私が出会った“正彦壮年”が二重写しになって、熱い思いに捉われる。(末松)