◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

今泉リポート/20・必読!コメント欄

2007年11月08日 | 今泉章利
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水上源一さんのこと(21)(予審調書その9) (今泉章利)
2007-11-12 00:38:56
水上源一さんのこと(21)(予審調書その9)091111(今泉章利)

予審調書(被告人尋問調書 被告人水上源一) (その9)

(政権争奪の修羅場の如き観を呈して居ることを見て、あきれて帰りました。)

それから、張作霖爆死事件の如き、日本の生命線たる満蒙保持の為、故田中大将が国家的見地に立って、敢行した事変を、単なる党争の為に、議会で暴露し、其の結果、対外情勢を悪化せしめ、又、張学良を日本より離反せしむるに至っても、。。。として恥じない政党の態度を見て、その眼中に国家のないことを知りました。

引続き、東京市の疑獄事件 山梨米造の収賄事件、小川。。の収賄事件等、政党の腐敗を証明する幾多の疑獄が相次いで起り、。昭和三年ロンドン条約
締結に当りて、

内大臣 牧野伸顕

が、軍令部長加藤寛治大将の、帷幄上奏を阻止して、統帥大権を干犯し、又、米国政府特使キャッスルから 巨額の金を収賄して 我が全権に譲歩をなさしめたことは 世間周知の事柄であります。 更に其の後、金対米弗禁止の際に 財閥が非国民的な弗買いに依って、巨利を博したのは 政党財閥の結託の現れであり 結局彼等は私利私欲の為には 天皇や国家を全く蔑ろにして更に顧る処がないのであります。

昭和六年如月には、満州事変が勃発しましたが、弟一線に立つ兵士の多くは窮乏せる農村の子弟であり、出征XXもなく、又、出征後には、生活の為に姉妹を娼妓に売る様な悲惨の状態にあるものが無くならないのに拘わらず、政党、財閥は之の事変を国民の金儲けに利用すべく策動して居るのを見て、私は愈々、彼等を何とか処置せねばならぬと考える様になりました。

同年頃、或る友人から
北一輝の

日本改造法案

を借りて読みましたが、其の中には、或る程度まで、私の考えていた通のことが、述べられてあるので、大いに意を強くしました。

其の後、血盟団事件、五・一五事件等の起るのを見て、其の行動に全く共鳴し、愈々維新運動の捨石として、之等先駆者の様に、倣おうと決心しました。

其の処で昭和七年五月、救国学生同盟を組織し、都下、各大学の学生を覚醒して、学生間に、

単に象牙の塔に立籠る許りではいかぬ。学生と雖ども、其の時に当って国事に盡X しなければならぬ。

と云うことを鼓吹し、同志を募りましたが、私の考えは、其の仲間の中から真に維新の捨石となるべき人物を選び出そうと云うにありました。

(その10に続く)

追記:水上さんという方は、ご自分で、民間にありながら昭和維新を自ら起こす、起こせないにしても、捨石となる覚悟で、同志の獲得に努めておられました。単に、事件にたまたま加わったと言うのでは決してありません。この研究は、もっとしてみる必要があると考えております。

さて、今日11月11日の日曜日、私は、自宅からそれほど遠くない、松戸の古ヶ崎2472番地と言うところを訪ねて参りました。ここは、湯河原の襲撃に加わった宇治野時参さんの住んでおられた住所でした。近くの農家にお伺いしたところ、わざわざ地図を出してきてくださって調べてくださいましたが、たどり着いたところは、大型量販店がたっていて、2477番地はわかりましたが、2472番地はありませんでした。宇治野時参さんはどんな方だったのだろう、、水上さんと一面識もないまま同じ襲撃作戦に参加し、どのようだったのだろう。。江戸川の東側に開けたこの豊かに広がる田畑を想像しながら、帰って参りました。

帰宅後、河野司先生の「湯河原襲撃」を見ますと、「宇治野時参軍曹のこと」と題する文章がありました。そこには、昭和11年の秋に、河野先生はこの江戸川堤の旧家である宇治野さん宅を訪れ、父の甚蔵さん、末弟の以恒さんと会われたこと、そして、昭和八年、宇治野時参さんが釈放されてからの、こまやかな交流が記載されておりました。そして、其の中に、宇治野時参さんが、河野隊長が倒れ、この事件に一番責任を持つのは、隊の編成上は、軍曹たる自分であったはずなのに、民間の学生、水上氏一人が責を問われて死んでいったことに、心から苦悩されておられたとの話が書いてありました。そして熱血漢のこの宇治野時参さんは、昭和二十七年二月、賢崇寺の二十二士の墓碑石や墓所の工事が、開眼供養の前前日になっても一向に着工されない状況を知り、血相を変えて石屋に乗りこみ、厳冬の中、徹夜で間に合わせる尽力された方とのことで、供養が終った後、河野先生と手を握り合って嬉し泣きに泣いたと書いてありました。

また、色々と詳しく書く機会もあると思いますが、私は、今、いつも何か後で語られてしまうような感じのする湯河原に参加された方たちが、実際のところ、東京の部隊の方とは、極めて強い絆で結ばれていたことが、改めて分かりつつあるような気がしています。いや、東京の部隊のみならず、実は、もっとひろい多くの人々との、そしてその深い結びつきを感じているのであります。末松太平様が、昔、小生の「二・二六事件とは何だったのでしょうか」という質問に、言下に、とても強い口調で「正義の味方だ。」と仰られた言葉とその時の表情を思い出しております。









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