たった一人の法要
2月26日(日)の82回忌の御法要は、皆様のおかげをもち、滞りなく終えることができました。心からの感謝の気持ちで一杯でした。
それから数日たった3月2日(木)、小雨の降る賢崇寺で、私は、たった一人で法要をしていただきました。木版がなり、本堂に入ると、住職の藤田俊英さまからのご説明が、ありました。
「ただいまから青雲院禅心義道居士、故今泉義道さまの第23回忌の法要を行います。導師(藤田俊孝、前住職さま)の入場を待ち、入場の際には合掌にて迎えます。正面の座についた導師の合掌礼拝にならい、礼拝をお願いします。
本日は、読経のあと修証義第5章「行持報恩」を共にお読みします。そのあと、ご焼香になります。香のかおりが、わが身を清め、そして、立ち上る香は、私たちの思いや願いを亡き人のもとに届けてくれるといわれています。
身心を正し、心を静め、故人の冥福をお祈り頂きたいと思います。」たった一人の私に対しても、普段と何ら変わることなく、淡々とご説明をされ、御導師のご法要が引き続き行なわれました。
私の家は、江戸時代から賢萗寺が菩提寺であるため、子供のときから父に数えきれないほど連れられてきた居りますが、今回、この静かな本堂で、父と初めて、ゆっくりと再会したような気がしました。懐かしくてむねが熱くなりました。
今から22年前の1995年平成7年3月2日、父、今泉義道が、亡くなりました。81歳でした。
父は、只の一度も、私に怒ったことがありませんでした。いつも春風駘蕩、仕事一途で、几帳面で、おしゃれで、綺麗な整った字を書き、お風呂の好きな父でありました。
生意気盛りの私は、それがなんとも歯がゆくて反発を感じたものでしたが、父や事件関係者の方たちから、いろいろと事件のことをお伺いし、自分も、68歳の齢を迎えようとするこの頃になって、改めて、父の気持ちがわかる様な気がしています。
父は、鎌倉師範学校付属小学校卒業後、神奈川県の湘南中学1年をおえて、東京陸軍幼年学校に入学、47期陸軍士官学校予科(近衛歩兵第三聯隊)、本科に入ります。父の少尉任官式である、命課布達式(注:課命布達式ではない)は、昭和10年10月に、今のTBSのところにあった、赤坂の近衛歩兵三聯隊の営庭で、行われました。
1000名を超える連隊長以下全員整列の前で行われたようです。詳しい文言は忘れましたが、声の良く透る大きな声で、
「天皇陛下ノ命ニヨリ今泉義道士官候補生は陸軍歩兵少尉ニ補セラル。因テ同官ニ服従シ各々軍紀ヲ守リ職務ニ勉励シ其ノ命令ヲ遵奉スヘシ。」「カシラーナカ」」
このようなことを父は言って居たように記憶しております。軍に命をささげた21才の男にとっての最高の瞬間でありました。ほとんどすべての陸軍の将校が、この布達式を経験されていることと思います。
任官後、父は直ちに11月に徴兵された第7中隊の新兵たちに教育を行ないました。我が家には、父の持っていた新兵さんたちの身上一覧表がのうち残っています。いろいろとプライバシーも書いておりますが、同様のものを私は、歩三の麥屋少尉から見せてもらったことがあります。教育は、よく計画されているものでした。終戦頃に殴るけるの陸軍内務班話をきくと、信じられないといつも言っていました。
兵隊さんは、陛下からお預かりした大切な方たちで、一人前の兵隊さんになれるよう1,2,3期と検閲を受け乍ら、基本動作を訓練するものです。そんな中、ある時、軍曹が、青ざめた新兵さんとともにやってきました。
歩兵銃の、いわゆる「営倉バネ」をなくしたということのようでした。父によれば、話を聞いたあと、机の引き出しをあけ、その兵隊の顔の少し傷ついたところに、メンタムを塗ってあげたと言っていました。(もちろんバネは備品をあてがったようです。)
これには、後日談があり、父は戦後の集まりで、この兵隊さんは、その後、聯隊一の射撃手になったときいたそうです。その時の、うれしそうな父の顔が今でも浮かんでまいります。
父の葬儀は、賢萗寺藤田俊孝さまにより行われました。私は46歳、御老師は58歳、御老師は、法要の一部として、皆様への私のご挨拶の時間をくださいました。私は、父の二・二六事件参加の決断となった、部下の斎藤特務曹長が、必死の形相で、「今泉少尉殿、私は、命ぜられるままに実弾を運びました。今泉少尉殿、私は死にます。」と、軍刀の柄を握りしめ、ボロボロ涙を流された話をさせていただきました。父への思いやりをくださった俊孝様の御心に胸が詰まる思いがいたします。
あれから22年、私は68歳、俊孝老師は80歳になられました。事件の多くの方たちが鬼籍に入られました。もう父の事も知っている人はほとんどいなくなりました。気が付いたら、いつも一緒に歩いていた人が、消えてしまったのであります。
3月2日、たった一人の私にしていただいた、、父の23回忌に、そんなことを思ったのでした。
2月26日(日)の82回忌の御法要は、皆様のおかげをもち、滞りなく終えることができました。心からの感謝の気持ちで一杯でした。
それから数日たった3月2日(木)、小雨の降る賢崇寺で、私は、たった一人で法要をしていただきました。木版がなり、本堂に入ると、住職の藤田俊英さまからのご説明が、ありました。
「ただいまから青雲院禅心義道居士、故今泉義道さまの第23回忌の法要を行います。導師(藤田俊孝、前住職さま)の入場を待ち、入場の際には合掌にて迎えます。正面の座についた導師の合掌礼拝にならい、礼拝をお願いします。
本日は、読経のあと修証義第5章「行持報恩」を共にお読みします。そのあと、ご焼香になります。香のかおりが、わが身を清め、そして、立ち上る香は、私たちの思いや願いを亡き人のもとに届けてくれるといわれています。
身心を正し、心を静め、故人の冥福をお祈り頂きたいと思います。」たった一人の私に対しても、普段と何ら変わることなく、淡々とご説明をされ、御導師のご法要が引き続き行なわれました。
私の家は、江戸時代から賢萗寺が菩提寺であるため、子供のときから父に数えきれないほど連れられてきた居りますが、今回、この静かな本堂で、父と初めて、ゆっくりと再会したような気がしました。懐かしくてむねが熱くなりました。
今から22年前の1995年平成7年3月2日、父、今泉義道が、亡くなりました。81歳でした。
父は、只の一度も、私に怒ったことがありませんでした。いつも春風駘蕩、仕事一途で、几帳面で、おしゃれで、綺麗な整った字を書き、お風呂の好きな父でありました。
生意気盛りの私は、それがなんとも歯がゆくて反発を感じたものでしたが、父や事件関係者の方たちから、いろいろと事件のことをお伺いし、自分も、68歳の齢を迎えようとするこの頃になって、改めて、父の気持ちがわかる様な気がしています。
父は、鎌倉師範学校付属小学校卒業後、神奈川県の湘南中学1年をおえて、東京陸軍幼年学校に入学、47期陸軍士官学校予科(近衛歩兵第三聯隊)、本科に入ります。父の少尉任官式である、命課布達式(注:課命布達式ではない)は、昭和10年10月に、今のTBSのところにあった、赤坂の近衛歩兵三聯隊の営庭で、行われました。
1000名を超える連隊長以下全員整列の前で行われたようです。詳しい文言は忘れましたが、声の良く透る大きな声で、
「天皇陛下ノ命ニヨリ今泉義道士官候補生は陸軍歩兵少尉ニ補セラル。因テ同官ニ服従シ各々軍紀ヲ守リ職務ニ勉励シ其ノ命令ヲ遵奉スヘシ。」「カシラーナカ」」
このようなことを父は言って居たように記憶しております。軍に命をささげた21才の男にとっての最高の瞬間でありました。ほとんどすべての陸軍の将校が、この布達式を経験されていることと思います。
任官後、父は直ちに11月に徴兵された第7中隊の新兵たちに教育を行ないました。我が家には、父の持っていた新兵さんたちの身上一覧表がのうち残っています。いろいろとプライバシーも書いておりますが、同様のものを私は、歩三の麥屋少尉から見せてもらったことがあります。教育は、よく計画されているものでした。終戦頃に殴るけるの陸軍内務班話をきくと、信じられないといつも言っていました。
兵隊さんは、陛下からお預かりした大切な方たちで、一人前の兵隊さんになれるよう1,2,3期と検閲を受け乍ら、基本動作を訓練するものです。そんな中、ある時、軍曹が、青ざめた新兵さんとともにやってきました。
歩兵銃の、いわゆる「営倉バネ」をなくしたということのようでした。父によれば、話を聞いたあと、机の引き出しをあけ、その兵隊の顔の少し傷ついたところに、メンタムを塗ってあげたと言っていました。(もちろんバネは備品をあてがったようです。)
これには、後日談があり、父は戦後の集まりで、この兵隊さんは、その後、聯隊一の射撃手になったときいたそうです。その時の、うれしそうな父の顔が今でも浮かんでまいります。
父の葬儀は、賢萗寺藤田俊孝さまにより行われました。私は46歳、御老師は58歳、御老師は、法要の一部として、皆様への私のご挨拶の時間をくださいました。私は、父の二・二六事件参加の決断となった、部下の斎藤特務曹長が、必死の形相で、「今泉少尉殿、私は、命ぜられるままに実弾を運びました。今泉少尉殿、私は死にます。」と、軍刀の柄を握りしめ、ボロボロ涙を流された話をさせていただきました。父への思いやりをくださった俊孝様の御心に胸が詰まる思いがいたします。
あれから22年、私は68歳、俊孝老師は80歳になられました。事件の多くの方たちが鬼籍に入られました。もう父の事も知っている人はほとんどいなくなりました。気が付いたら、いつも一緒に歩いていた人が、消えてしまったのであります。
3月2日、たった一人の私にしていただいた、、父の23回忌に、そんなことを思ったのでした。
とても貴重な体験でした。
226事件は決して風化させてはいけないと改めて思いました。
今は仕事が忙しく時間が作れませんがいつかご尊父のお話を伺う事が出来れば嬉しいです。
82回忌法要を恙無く終えられた由、よろしゅうございました。
その数日後、お父様の23回忌のために再び
賢崇寺様を訪ねられたのですね。小雨にけむる
お墓のお写真にも、あたたかなお気持ちが表れているように思われます。
たった一人の御法要、、
お父様始め、お母様、お祖父様もきっと御一緒に
いらして、さぞやお喜びのことと存じます。
故人への供養は偲ぶこと、と聞いたことがございます。静かな御本堂で、お父様とゆっくり向き合うことが叶い、良き御法要でございましたね。
昭和10年10月に少尉となられ、翌11年2月26日に
事件とは、僅か5ヶ月後のことでしたか。
部下の方にメンタムを塗っておられたお父様。
大切な部下の方々の為に、意を決せられたのですね。
まさに、今泉様にしか、お出来にならぬこと。
お父様を通して、事件の真の意味を、これからも
お書きいただければと願っております。
その為にも
どうか、くれぐれも、ご自愛くださいますよう、
心よりお祈り申しております。
ご多忙中にもかかわらず法要にご参加いただき、又慰霊像にもご芳志賜り、誠にありがとうございました。
お話の機会ができるといいですね。
なお、昭和56年2月の中央公論・歴史と人物「特集証言二・二六事件」もいい本と思います。
末松太平事務所について2
――今泉章利さんコピペーー
父の葬儀は、賢萗寺藤田俊孝さまにより行われました。私は46歳、御老師は58歳、御老師は、法要の一部として、皆様への私のご挨拶の時間をくださいました。私は、父の二・二六事件参加の決断となった、部下の斎藤特務曹長が、必死の形相で、「今泉少尉殿、私は、命ぜられるままに実弾を運びました。今泉少尉殿、私は死にます。」と、軍刀の柄を握りしめ、ボロボロ涙を流された話をさせていただきました。父への思いやりをくださった俊孝様の御心に胸が詰まる思いがいたします。
――コピペ終わりーー
今泉義道少尉は陸軍士官学校47期で昭和10年10月に
歩兵近衛第三聯隊に配属されたばかりの21歳の小隊長でした。
そして新兵教育に日夜励んでいました。
それからわずか4カ月後、2月25日の夜、
中橋基明中尉に
「貴様の小隊を借り受けて昭和維新を断行する」
と打ち分けられます。
超エリート難関の陸軍士官学校を卒業し、
陛下の御楯と希望に燃えていた今泉少尉に
とっては昭和維新は余りにも遠くにあります。
21歳の今泉義道少尉はいきなり修羅場に投げ込まれました。
「昭和維新」がどういう物か解っていた今泉少尉は悩みました。
しかし答えが出るはずもありません・・・
そして刻々と迫る時間の中で現れたのは部下である齋藤特務曹長
であり上記の言葉だったのです。
武器弾薬を無断で運べば死刑は免れません。
そして父親に残した遺書は「部下と共に死地に赴きます」です。
部下を見捨てる事が出来ずに運命を共にしたのです。
21歳の青年は懲役4年で免官です。夢の人生を棒に振りました・・・
今風に言えばまさに被害者です。
しかし息子である、章利さんに語る言葉は
「皆、立派な人たちであった」です。
今泉章利さんは事件後、80年を過ぎた今でも
「226事件の真実」を追い求めています。
大叔父に当たる 陸士47期 榎本忠孝 は昭和11年5月16日 近歩4営内将校舎にて自ら命を絶ちました。私は今年65歳 父親は平成24年鬼籍に入りました。90歳の生涯でした。陸士54期 近歩3でした。旧制 中学時代に突然亡くなった従兄弟 榎本忠孝のことを時々話してくれました。当時の時代背景を考えると胸が痛みますが真実が知りたいと思っています。