◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

渋川明雄様からの投稿 渋川善助様のこと(その2)

2009年04月26日 | 今泉章利
4月22日に渋川明雄様から、渋川善助さんにかかるメール(その2)を頂きました。これは、4月14日に頂いたものの続きで、以下が、渋川明雄様からの投稿です。大変に貴重なものです。

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大正14年10月1日、陸軍士官学校本科に第39期生として入校。
同期生で無二の親友となる末松太平は入校間もない頃、大岸頼好の紹介で「大学寮」の西田税を訪ね、後に森本赳夫、草地貞吾を連れて行くが、森本はこの男はと思う同期生を何人か連れて行き西田と会わせていた。渋川はその中の一人であった。
そして「日本改造法案大綱」を手にする。「大学寮」の講師であった西田税をはじめ、満川亀太郎、中谷武世、安岡正篤、沼波武夫とは後に関わりをもつ。
大正15年6月、両親宛に次のような手紙を送る。
「皇国の将来を思ふ時、点取虫共があくせくして居る有様が情けなくなってきます。こんな奴等に日本国を負わせることが出来るかどうかと。彼等にして戦争をやる機械にならんとするならばそれでよし、俺はその機械を動かして則天行地の大業を行ふ人間たらんという意気ごみです」
この後間もなく教官と衝突。その理由は、教官が教育者として見るべき条件として厳格な諸箇条を列挙したが、それに対して、その条件に照らせば陸士の教官はすべて教育者として失格だと批判。これが問題化する。自説を撤回せず、二度の重謹慎30日の処罰を受ける。
9月に祖父善太郎に次のような手紙を送る。
「人間には大きな務めがございます。人間全体に対する務めでございます。又国民と致しましては、親よりも家よりも大事な務めが御座います。君国の御為に尽すことでございます。これがつまりは親の為家の為ともなるのだと存じます。一身の出世が目的であったり致しましては決してお国の為となるとは限りません」
昭和2年4月、本科の卒業試験も終わっていたが、退校処分となり、同年5月28日に士官候補生を免ぜられる。退校処分決定者は、校長であった真崎甚三郎。
退校になったいきさつを末松太平は次のように言う。「退校になった理由は、彼が教育学の根本問題に照らして、学校幹部の教育者としての資格を批判したからだったが、学校当局をして退校に踏ん切らせたのは、意外にも些細なことだったことが、このとき永井大尉(注・士官学校本科時代の区隊長)の口を通じてあきらかにされた。それは渋川や私と同じ区隊の生徒、赤松候補生の日記がもとでだったという。赤松は軟文学を耽読していたことが理由で、処分を受けたことのある、学校当局から目をつけられている軟派中の軟派だった。が彼はかねてから渋川を尊敬していた。渋川は退校になる前に、二度の重謹慎の処分を受けるのだが、それに同情して赤松はその真情をこまごま日記につけていた。その日記がみつかったことによって、学校当局は渋川の背後にこういう軟派たちの支持があると思い込み、渋川の処分を寛大にすることはこの軟派たちをつけあがらせることになると、厳しく退校の処分に踏ん切ったという」
末松太平は渋川のことを次のように言う。
「同期生きっての秀才」
「士官学校の優等生だったころの渋川は、口も八丁、抜群の頭脳と赤鬼というあだ名通りの体躯にものをいわして時には強引に横車を押しとおした。あのまま秀才コースをまっしぐらに進んでいたら行くとして可ならざるなき有能無類の幕僚に成長したことだろう」と。
手紙から察するに、軍人に見切りをつけ革命家になろうと決心したに違いない。「俺はその機械を動かして・・・・」は、後に西田と隊付青年将校の間にあって動いていく。二・二六事件に到るまでの陰なる重要な人物なのだ。
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以上が、渋川明雄さんの投稿です。水上さんの場合、このようなご自分で書かれたものなどが少なくて、手がかりが少なくて困っています。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
コメント

お願い 注の意味です。

2009年04月26日 | 今泉章利
皆様

私のこのブログの最後には次のような注があります。

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)

これは、ブログなので、正確性を欠いたり、思い違いがあったり、単なる書き違いや打ち間違えなどがあって、もし、何の注意もなく次から次へとコピーが広がると間違えが、インターネット感染してしまう恐れがあるのを防ぐこともその目的のひとつです。
すごい人になると、プログラムで自動的に取り込んでこのブログを「公開」しているかたもおられます。考え方は、まだまだ練られていないし、後で読んでおかしいものは都度修正しています。なるべくアップデートするようにしたいのですが、混乱を生ずるので、その日付のままで修正しているのもあります。

やはりそのうち何かの形にしたいと思いますので、この注のとおり、お使いになるときはご一報いただければと思います。なにとぞ御理解、ご協力方、宜しくお願い申し上げます。

(今泉章利)

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ひろ坊様へ 車力村小作争議と政治、そして国民 (追加)

2009年04月26日 | 今泉章利
追加です。

寝るとき、あーーあれを書いていなかったと思いましたが、とてもしんどかったので寝ました。追加します。

まず、この組合名は、タイトルには書きましたが、「車力村小作農民組合」だったようです。そして、車力村の人たちは、あまり権力に屈せず、自ら行動を起こすということで注目されていたのかもしれません。。

もう一つは、農民救済の問題です。これも詳しく調べなければなりませんが、私の理解のポイントは、次の三点です。
(1)農民救済法は、いくつか出されたと思います。しかし、当時の議会のシステムは、現在の日本憲法と異なり、衆議院も貴族院も同じ力を持っていたということです。つまり、両院の賛成がなければ、廃案になります。衆議院から送られてきた法律案を、貴族院が修正して送り返したら、その修正を認めない限り、法案は成立しません。農民救済法は何回か廃案となり、修正を受け、骨抜きになったと理解しています。詳しくは、さらに勉強したいと思います。

(参考)当時の憲法のもとでは、どんなに衆議院で頑張っても、貴族院との、あるいは、枢密院との妥協なくしては、法律の成立は不可能でした。主権者は天皇であり、もちろん、明治憲法を変えることは思いもよらないことです。明治憲法の規定においては、衆議院を除いて国民の意思が反映される所はほとんどなかったと理解しております。地方知事は、政府の任命制ですし、政党は、伊藤博文が作った政友会が基本になっております。そして選挙は、知事のもと地方官僚や警察を実際の手先に使った内務大臣、そして警保局長などが、時の政権の意向を受けて、選挙妨害を行うのですから大変です。話すと長くなるのですが、要は、政友会(正確には立憲政友会)も立憲民政党も等しく、中央官僚、地方利権者たちと複雑で密接な関係があり、明治憲法における国民は、本当に限りなく無力に近い存在でありました。

(2)救済の実施に当たっても問題がありました。小作人に対する救済米に対し利子をとるというものです。昨日述べたあの小作料にこれが上乗せされたらいったい小作人はどのように生きてゆくのでしょうか。しかしそれよりも、もっと激しく彼らを傷つけたものは、小作人は、流れもので何をしでかすか分からない人間だから利子をとるのが当然だというような議論にあったということのようです。これは、小作人の方たちの人間性を否定されたということです。どんなにお辛かったでしょうか。そして話が複雑になるのは、ここに金貸しが登場するのです。あるいは、地主が金貸しになるのです。はじめはいいよ いいよと言っておいて ある時から変身し 借金の返済を迫るのです。裁判所からの取り立てに「あとはカマと仏壇しかない。これを取り上げられたら首をくくるしかない。」と相談に駆け込んだという多くの人たちのことが、淡谷悠蔵氏の本に書いてあります。また、娘売りという話も起こってくるのです。この話も別の機会にしましょう。

(3)最後の、そして最大の問題は、国民、特にインテリの無関心でした。
朝日新聞の荒垣編集局長が現地に行っての全面的な報道でも、都会の、たとえば東京では「かわいそうに」というような目線を下に向けた「同情」しかありませんでした。せいぜい学生が募金箱を持つようなものでした。淡谷さんが、市川房枝に頼まれて向かった日比谷公園のしゃれたレストランでは、ご立派な婦人活動家たちは、一瞥しただけでした。(それどころか淡谷さんは乞食と間違えられそうになったりして、場違いのご自分を感じられたのでした。)だれも、抜本的な問題に触れようとしない、理解していない、触れられないといったほうがいいのでしょうか。。よくわかりませんが、、東北の農民の問題はどこかの出来事でした。私の知っている千葉県の手賀沼の周りの農民たちは冷害もなく、誰も無関心であったという話をその地のお寺の住職から聞きました。

以前、菊池寛の二・二六事件事件当時の日記を、このブログにのせたことがありますが、まったく認識も理解もしていない、それどころか、雑誌の連載が気になってしょうがないというような感覚だったのをご記憶の方もおられると思います。当時東大の学生だった丸山真男の事件の日を回顧する文の中にも、まるで、そのようなもの、つまり、日本の小作人を柱にした農業システムが危機にひんしていることに対する認識をまるで持っていなかったのでした。憲法のシステムが大問題を起こしていたのです。その点、北一輝は違いました。もはや日本を変えるためには、明治憲法体制を崩す以外にないということで、国家改造法案を書いたのです。

多くの人たちは様々なことから国家の危機を感じていましたが、若き陸軍将校たちはこの農民問題を肌身に感じのだと思います。そして、このような政治がなぜ放置されているのだ。という青年の正義感はいやがうえにも高まってゆくのです。そして詳しくはわからないが、明治憲法の中では絶対的な限界があることを敏感に感じ取っていたような気がします。

備考:ひとり貧乏人の中で育ち貧乏の辛惨を知っていた吉川英治は、本当に貧乏で現場で死にかけて、人に騙されて、それでも人がよくて、努力家で人気作家になった人でしたが、、事件を知るや雪の中の蹶起した兵隊にキャラメルを配ったという話をきいています。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
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渋川明雄様からの投稿 渋川善助様のこと(その1)

2009年04月26日 | 今泉章利
皆様

4月14日、渋川明雄様から、渋川善助さまの貴重な記事が送られてきました。このあとさらに(その2)が続く予定です。以下は、明雄様の記事です。

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明治38年12月9日福島県若松市七日町61番地にて、父利吉、母ヨシの長男として生まれた。当時渋川家は家長である祖父渋川善太郎のもとに海産物問屋を営んでいた。
会津若松市立第二尋常小学校卒業、福島県立会津中学校第二学年を修業、小中学校を首席で通した。
大正9年、軍人の道を志向して家業を弟達に託し、仙台地方幼年学校に入学。
同校を経て陸軍士官学校予科に入学。予科入学式当日、入学宣誓文を朗読する。
大正13年11月21日兵科発表があり、志願通り歩兵となる。この日父利吉宛の手紙。
「今日です。愈々兵科発表がありました。今講堂から帰って来た所です。志願通りに歩兵になりましたから御安心下さい。本たうの軍人になる第一歩です。全く愉快です。しかし叶はないで飛んだ人々は実際気の毒です。何人か泣いていました。唇を噛みしめて、目に涙を一杯に溜めて居る人の顔みては嬉しさうな色も出しかねます。いづれ後から色々申上げます。今日は気が立って居ますからこれで失礼します。皆様によろしく」
大正14年3月14日、陸軍士官学校予科を326人中2番の成績で卒業。卒業時には恩賜の銀時計を拝受し、裕仁親王の御臨席を仰ぎ、御前講演を行う。題は「日露戦役ノ世界的影響」。その要旨は、
「日露戦役は、国内のみならず東洋、西洋諸国に対し政治、外交、思想、軍事上に多大な影響を与えた。
第一は、日本は立憲国であるが日露戦役の勝利による影響で随所に立憲運動の流行が見られた。
第二は、日露戦役は亜細亜解放戦役であり国民的運動を深めた。
第三は、世界外交上に大きく影響を及ぼした。
第四は、国民が熱誠なる忠義心をもって統治者に仕えれば戦争に勝利し健全な国家を作ることができることを知らしめた。
今や日本の思想界は憂慮すべきものがあるが、日本国民が真剣味をもって君国の為に戦えば感慨の情、切なるものがある・・・と結ばれている」
陸軍士官学校予科卒業後、士官候補生として郷土の若松歩兵第二九連隊に配属される。相澤三郎中佐、一期後輩の竹嶌継夫中尉も同連隊出身。二・二六事件で刑死後、菩提寺の本覚寺に渋川、竹嶌の位牌が並べて置かれた。
歩二九に於ける教官は小野寺信少佐で、同人の「偉大なる精神に感化を受けるところ大」であった。
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大変によく分かる内容です。普通のものは、みんな、二次資料の写し書きなので、なんだか熱が入らないのですが、お読みいただいてこれがそうでないことがよくお分かりいただけると思います。お手紙のこと、後の昭和天皇の御前での講演、なにか運命を感じます。心が熱くなるのを禁じ得ません。ありがとうございました。次を期待します。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
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