最近すこし本が読めるようになってきた。つまり少し理解することができるようになってきたように感じる。還暦なのに人の書いた文章が読めないとしたら悲劇かもしれないが、ようやく読めるようになってきたことは、喜劇かもしれない。
父が赤線を引いて几帳面な書き込みがある本がある。竹山道雄さんが終戦後に書かれた「昭和の精神史」がそれである。冒頭、「大事件が起こってそれが終わると人はその責任者を暴きたて非難をする。そしてその大事件の被害のカタルシスとするのだが、それから、もう10年すると、今度は落ち着いて、あれはいったい何であったのか。とその真の原因を探そうとする。と何かに書いてあった。」。と書いてあった。正確な言葉は違うがそういうことを書いておられた。そして「その真の原因を語ることは、歴史家が時間をかけてゆっくりと答えを出すとおもうので、その歴史のことを自分が語るには些か無責任であるが、歴史家の答えも待っていられないので、メモと思ってこの本を書こうとおもう。その時代を生きた自分がその時に感じたことと今の歴史家の言っているものが明らかに違うことを感じるからである。」として、二・二六事件の当時、溜池で山王ホテルで、兵隊が機関銃の射撃体勢に入り、後ろに将校がピストルを振り上げて何か言っている。通りをはさんで、群衆がみまもり、その前を、軍人がバイクで走ってゆく。。それを見ながら坂をのぼり、ドイツ大使館の前に行くと、大使館員がputcheだったか、(つまり、反乱という意味だったか、)、言っていたと書いてあった。(すべて今、頭に残っているイメージで書いているので正確な言葉ではないが、こう言うことである)竹山道雄さんには、小生はもっと違うイメージを持っていたのだが、この一文を読んで、改めて関心を強く持ったのである。竹山氏は、今の、つまり戦後直後の歴史家(つまり、マルクス史観というか、、)が言っている戦前は、明らかに彼の体験した戦前と違っていると書いているのである。このような竹山氏の率直な感覚に小生は魅力を覚えた。そして、この本に赤線を引いている父を思って、心が和んで行く気がした。。 竹山氏は、鎌倉に住んでおられたのだろうと思う。それが証拠に、その御子息の竹山護夫氏は、わが小学校、つまり、鎌倉市立御成小学校の6年先輩で、栄光学園にすすまれたという。
(今泉章利)
注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
父が赤線を引いて几帳面な書き込みがある本がある。竹山道雄さんが終戦後に書かれた「昭和の精神史」がそれである。冒頭、「大事件が起こってそれが終わると人はその責任者を暴きたて非難をする。そしてその大事件の被害のカタルシスとするのだが、それから、もう10年すると、今度は落ち着いて、あれはいったい何であったのか。とその真の原因を探そうとする。と何かに書いてあった。」。と書いてあった。正確な言葉は違うがそういうことを書いておられた。そして「その真の原因を語ることは、歴史家が時間をかけてゆっくりと答えを出すとおもうので、その歴史のことを自分が語るには些か無責任であるが、歴史家の答えも待っていられないので、メモと思ってこの本を書こうとおもう。その時代を生きた自分がその時に感じたことと今の歴史家の言っているものが明らかに違うことを感じるからである。」として、二・二六事件の当時、溜池で山王ホテルで、兵隊が機関銃の射撃体勢に入り、後ろに将校がピストルを振り上げて何か言っている。通りをはさんで、群衆がみまもり、その前を、軍人がバイクで走ってゆく。。それを見ながら坂をのぼり、ドイツ大使館の前に行くと、大使館員がputcheだったか、(つまり、反乱という意味だったか、)、言っていたと書いてあった。(すべて今、頭に残っているイメージで書いているので正確な言葉ではないが、こう言うことである)竹山道雄さんには、小生はもっと違うイメージを持っていたのだが、この一文を読んで、改めて関心を強く持ったのである。竹山氏は、今の、つまり戦後直後の歴史家(つまり、マルクス史観というか、、)が言っている戦前は、明らかに彼の体験した戦前と違っていると書いているのである。このような竹山氏の率直な感覚に小生は魅力を覚えた。そして、この本に赤線を引いている父を思って、心が和んで行く気がした。。 竹山氏は、鎌倉に住んでおられたのだろうと思う。それが証拠に、その御子息の竹山護夫氏は、わが小学校、つまり、鎌倉市立御成小学校の6年先輩で、栄光学園にすすまれたという。
(今泉章利)
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