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◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

34.事件関係者の息子が見た二・二六事件:82回忌祥月命日ご報告

2017年07月17日 | 今泉章利
平成29年7月12日、東京麻布賢崇寺で、15士祥月命日、22士の命日の法要が行われた。
以下、ご報告申し上げます。

高齢化が進み、御便りは次の一通のみであった。

相変わらず東京は、暑い日が続いていると思います。こちらは静かな雨が降っています。
明日、穏やかな一日であってほしいものです。
諸士のご冥福をお祈りします。(北海道の方から)

私は、池田少尉が、昭和62年に出版された「生きている二・二六」から次の文章を読ませていただいた。
池田さんは林さん、竹島さん、栗原さん、安田さん、渋川さん、坂井さんの遺書に言及された後、坂井中尉の遺書に触れられた。
(以下文中より)

「、、宏大無辺の御仏の御慈悲に浸り、唯忠を念じて名目致します。前途を祝福して下さい。 天皇陛下  万々歳」

何という純な心であろうか。秩父宮のことや恨みがましいことなど一言も言わずにあの世へ逝ったのだ。
香田さん、丹生さん、安藤さん、對馬さん、高橋さん、田中さん、中島さんもみな無量の思いを遺書に認めて亡くなった。村中さんと磯部さんの手記は、現在事件究明の一つの鍵ともなっている歴史的価値あるものだが、両人の性格が実によく表現されていると思う。
 私は今日まで、何回もなくなった同志の人々の遺書を読んだ。そして凄まじい気迫の中に、何とも言えぬ真の人間性、人としての心の温かさを感じている。
あの人達は、人一倍君を思い、国を思い、人を愛し、兵を愛し、正義の迸(ほとばし)るところ、このような行動に身を投じて死んでゆかねばならなかった。
皆心優しき人々であった。西田税は同志の処刑後、次の歌を詠んでいる。

 かの子等はあをぐもの涯(はて)にゆきにけり
  涯なるくにを日ねもすおもふ

涯なる国はどこにあるのであろうか。私はひとり、君に対して不忠の臣、親に対して不幸の子として生き残った。」

香田代表理事からは、8月に公開予定といわれていた、裁判記録の公開が、さらに遅れる見込みであるとの報告があった。
弘前ご在住の、對馬中尉の妹様の波多江たまさま(102歳)より、リンゴジュースのお供え物があった。皆様にお分けした。

出席者は、炎天にも関わらず、40名近くの参列があった。北海道、湯河原、大阪、また、熱海からのご参加を頂き、衷心より感謝でいっぱいであった。

法要がすっかり終わり、本堂の前立った時、突然、私は、以前、賢萗寺の本堂の前で、杖をついた、背の大きな方にお目にかかったことを思い出した。その方は、いきなり私の顔見て「君は今泉君の息子か。」といわれた。父はその時はすでに亡くなっていた。その方は父と同期の常盤少尉であった。
暫く話をした後に、「泉下の皆は涙を流して喜んでいるよ。みんなは、本当に心の優しい人だった。」といわれたことを思い出した。常盤さんは、無期禁固。しかし常盤さんももうずいぶん前に鬼籍に入られた。

 (2010年、坂木原レム氏画のコピー、同氏より頂いたもの)

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33.事件関係者の息子が見た二・二六事件:81年目の処刑日

2017年07月12日 | 今泉章利


2017年7月12日なった。15人の青年将校の処刑日、1936年(昭和11年)から81年目にあたる。
静かな夜更けである。今日は、港区元麻布の賢崇寺で、82回忌の法要が営まれる。 私には、このブログを書くことを通じて、彼らの思いが例年になく強く伝わってくるのである。

蒸し暑い。しかし、東京渋谷の宇田川町の衛戍刑務所では最後の数時間、どれほど湿気があっても暑苦しくても、この国を守れ、お前たちは、朕が股肱なるぞとの信念に燃え、天皇が世々伝えられた天壌無窮のご計画を守るべく立ち上がった青年将校たちは、逆賊の汚名のもと、死にゆくのである。
処刑に促されて牢屋を出る瞬間まで、天皇陛下をおもい、日本国の行く末をおもい、親をおもい、妻や子をおもい、、廊下を歩いて刑場に赴くのである。
小伝馬町の牢屋だから、廊下を挟んで、向こうが見える。中庭も見える。みんな大声で自分たちの上官の名を叫んだ。精一杯大きな声で叫んでいた。窓ガラスで見えない牢屋では、刑務官を怒鳴り散らし、窓を開けさせた。
宇田川町の衛戍刑務所は、大きな涙声が こだましていた。

以下は、私が大阪の朝日の人ともに、直接聞いた、北島軍曹の話である。
「安藤さーーん」「安藤大尉どのーー。」「中隊長殿ーーー」
すると、刑場に赴く廊下から、安藤大尉が、するりと、中庭に歩いてきた。
安藤大尉は、獄中の人たちに向かって、「この度は、皆様に大変ご迷惑をおかけしました。こころからお詫び申し上げます。安藤、心より感謝しております。」といわれたと。
そのときの図面も書いてくれた。(後日掲載します)
外では、空砲の演習が始まっている。
そして、天皇陛下万歳の声がして、実弾のピューンという発砲音が聞こえた。
5名ずつ、三組。

香田清貞陸軍歩兵大尉 34才   ひたすらに君と民とを思いつつ 今日永(とこ)えに 別れ行くなり、ますらおの猛き心も乱るなり いとしき妻の末を思えば

安藤輝三陸軍歩兵大尉  31才  君国ノタメ捧ゲ奉ル 我コソ不滅ナリ 心安ラカナリ  死ト共ニ  七月十二日朝 (処刑による血の付いた書)、 國体を護らんとして逆徒の名 万斛の恨 涙も涸れぬ ああ 天は 鬼神 輝三

對馬勝雄陸軍歩兵中尉 28才 日は上り国の姿も明るみて 昨日の夢を 笑う日も来ん  、 大君にささげし命うちきよめ いのりつづくる 時をもたなん

・・・・・・・

これから9時に宇田川町の慰霊像にお参りし、1時から賢崇寺で法要が営まれます。

本当にお世話になった関係者が鬼籍に入られてしまった。河野先生、池田さん、北島さん、、父、しかし、私には、今も生き生きと彼らの姿や聲が聞こえるのである。 慰霊像の横から、お寺の本堂で、ひょっこりとお目にかかれる気がするのである。

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29.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」  軍人勅諭と蹶起主意書 池田俊彦さま

2017年07月12日 | 今泉章利
29.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」  軍人勅諭と蹶起主意書 池田俊彦さま

なぜ二・二六事件はわかりにくいのか。
鬱陶しい日が続き、なんとも体調がすぐれない。70歳を前に、身体が馬力の落ちたエンジンのようですといっても、今の元気のいい若い人には、ピントこないだろう。今の車は古くなっても馬力は落ちないのである。
今は、製造技術が発達して、価格も安いので、十分に動いているエンジンを積んだの車を廃車にするのに何の抵抗もない時代だ。無理もない。昔は、車はとても高級品であったから、エンジンの馬力が落ちたらエンジンを取り出し、シリンダーの機械加工やピストンリングの交換などをした。私の子供頃の人々は、虎の子の車をいたわり使っていた。しかし、こんなことが、つい昨日のことでも、今の若い人にはまるで通じない。そんなことを喜んでやる自動車修理職人などもいつの間にかいなくなってしまった。逆に、今常識である出来事が、20年もすれば、すぐにわからないことになってしまう。心しなければならない。
二・二六事件もまったく同じようである。
事件を起こした主意は、「蹶起主意書」に書かれている。とはいえ、難しい言葉がならび、国語辞書を引くのも嫌になる。いやになると解説本を探す。しかし、その解説本が解説になっていない。書いている人の理解が浅いのである。
しかし、私は、この趣意書が、軍人勅諭に呼応していることに、最近気がついたのである。 解説はともかく、まずは明治15年(1882年)に書かれた軍人勅諭を、次に、その54年後に書かれた昭和11年(1936年)に書かれた蹶起主意書をいきなり読んでいただきたい。そこには、半世紀以上も、軍人勅諭を胸に刻み、大元帥である天皇の統率される兵として精励刻苦、全力を尽くしてきた軍人の姿が浮かんでくる。
そして、日清日露をへて、歴史が移り、様々な国際問題、国内問題をが「昭和11年」をいただくように高まり、蹶起主意書が、かかれるのである。明治憲法は、欽定憲法にて「侵すべからず」しかし、近代自由主義からの、法匪、官匪、持てるものと持てざる者の差は広まり、「矛盾は国の命運」を左右するまでに深刻となっている。

(1)陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭)(明治15年、1882年)

我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある.
昔神武天皇躬(み)つから大伴物部の兵(つわもの)ともを率ゐ,中國(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平(たひらけ)け給ひ高御座(たかみくら)に即かせられて天下(あめのした)しろしめし給ひしより,二千五百有餘年を經ぬ。此間(あいだ)世の樣の移り換るに隨ひて,兵制の沿革も亦(また)屡(しばしば)なりき古(いにしえ)は天皇躬(み)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(おん おきて)にて時ありては皇后皇太子の代(かわ)らせ給ふこともありつれと,大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき。中世(なかつよ)に至りて文武の制度皆 唐國風(からくにぶり)に傚はせ給ひ、六衞府を置き左右馬寮(さうめりょう)を建て防人なと,設けられしかは,兵制は整ひたれとも打續ける昇平(しょうへい)に狃(な)れて朝廷の政務も漸(ようやく)文弱(ぶんじゃく)に流れけれは、兵農おのつから二(ふたつ)に分れ古(いにしえ)の徴兵はいつとなく壯兵の姿に變り、遂に武士となり、兵馬の權は一向(ひたすら)に其武士ともの棟梁たる者に歸し、世の亂と共に、政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ

世の樣の移り換りて斯(かく)なれるは人力(ひとのちから)もて挽回すへきにあらすとはいひなから、且(かつ)は我國體に戻り且は我祖宗(わがそそう)の御制(おんおきて)に背き奉り浅間しき次第なりき。降(くだ)りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政(そのまつりごと)衰へ、剩(あまつさえ)外國の事とも起りて其侮(そのあなどり)をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖(おほじのみこと)仁孝天皇皇考(ちちのみこと)孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ。

然るに朕幼くして天津日嗣(あまつひつぎ)を受けし初(はじめ)、征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し、年を經すして海内(かいだい)一統の世となり古の制度に復しぬ。 是文武の忠臣良弼(りょうひつ)ありて朕を輔翼(ふよく)せる功績なり
歴世祖宗の專(もはら)蒼生を憐み給ひし御遺澤(ごゆいたく)なりといへとも、併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理(ことわり)を辨(わきま)へ 大義の重きを知れるか故にこそあれされは 此時に於て兵制を更(あらた)め我國の光を耀(かがや)さんと思ひ此(この)十五年か程に 陸海軍の制(せい)をは今の樣に建定(たてさだ)めぬ
夫兵馬の大權は朕か統(す)ふる所なれは其司々(そのつかさつかさ)をこそ臣下には任すなれ 其(その)大綱は朕親(みずから)之を攬り 肯(あへ)て臣下に委ぬへきものにあらす 子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して 再(ふたたび)中世以降の如き失體なからんことを望むなり
朕は汝等軍人の大元帥なるそ されは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み汝等は朕を頭首(とうしゅ)と仰きてそ其親(したしみ)は特に深かるへき 朕か國家を保護して上天(しやうてん)の惠に應(おう)し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも 汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし
我國の稜威(みいつ)振はさることあらは 汝等能く朕と其憂(うれひ)を共にせよ 我武維(これ)揚(あが)りて 其榮を耀さは 朕汝等と其譽(ほまれ)を偕(とも)にすへし 汝等皆其職を守り朕と一心になりて 力を國家の保護に盡さは 我國の蒼生は永く太平の福を受け 我國の威烈は大(おおい)に世界の光華ともなりぬへし
 (以下略)

2.蹶起主意書 (昭和11年、1936年)

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たる所以(ゆえん)は万世一系たる 天皇陛下御統帥(とうすい)の下に挙国一体生成化育を遂げ遂に八紘一宇(はっこういちう)を完(まっと)うするの国体に存す。
此(こ)の国体の尊厳秀絶は天祖肇国(ちょうこく)神武建国より明治維新を経て益々体制を整へ今や方(まさ)に万邦に向つて開顕進展を遂ぐべきの秋(とき)なり。

然(しか)るに頃来(けいらい)遂に不逞凶悪の徒簇出(ぞくしゅつ)して私心我慾(がよく)を恣(ほしいまま)にし至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)之れ働き万民の生成化育を阻碍(そがい)して塗炭の痛苦を呻吟せしめ随(したが)つて外侮外患日を逐(お)うて激化す、所謂(いわゆる)元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等はこの国体破壊の元兇なり。

倫敦(ロンドン)〔海軍〕軍縮条約、並に教育総監更迭に於ける統帥権干犯至尊兵馬大権の僭窃(せんせつ)を図りたる三月事件或(あるい)は学匪(がくひ)共匪大逆教団等の利害相結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にしてその滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒真に譬(たと)へ難き所なり。
中岡、佐郷屋(さごや)、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の憤騰(ふんとう)、相沢中佐の閃発となる寔(まこと)に故なきに非ず、而(しか)も幾度か頸血(けいけつ)を濺(そそ)ぎ来つて今尚些(いささ)かも懺悔反省なく然も依然として私権自慾に居つて苟且偸安(こうしょとうあん)を事とせり。露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむは火を賭(み)るより明かなり。
内外真に重大危急今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し稜威(みいつ)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊(かんぞく)を芟除(せんじょ)するに非ずして宏謨(こうぼ)を一空せん

恰(あたか)も第一師団出動の大命渙発せられ年来御維新翼賛を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍(えいじゅ)の我等同志は、将(まさ)に万里征途に登らんとして而も省みて内の亡〔世〕状に憂心転々禁ずる能はず。君側の奸臣軍賊を斬除して彼の中枢を粉砕するは我等の任として能くなすべし。
臣子たり股肱(ここう)たるの絶対道を今にして尽さずんば破滅沈淪(ちんりん)を飜すに由なし、茲(ここ)に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅(ちゅうめつ)して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭(つく)し以つて神洲赤子の微衷を献ぜんとす。 
皇神皇宗の神霊冀(こいねがわ)くば照覧冥助(めいじょ)を垂れ給はんことを


 昭和拾壱年弐月弐拾六日  陸軍歩兵大尉 野中四郎 外同志一同



この事件を理解するには、明治憲法において、天皇が統帥権を有して軍隊を率いていたこと、そして半世紀以上も、毎日、この勅諭を復唱する軍人を、理解することが必要である。

歩一の陸軍少尉、池田俊彦さんが、法要のとき何の挨拶も抜きに、胸から取り出した蹶起主意書を大きな声で、読まれた時の横顔をのを思い出す。 
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32 北海道の話 歩兵操典と父の初年兵教育

2017年06月26日 | 今泉章利
北海道の話 歩兵操典と父の初年兵教育

末松さま。身にしみいるブログ、御過分のお言葉、誠にありがとうございました。恐縮しております。
そうですね、すでに答えは出ているのですけれど、いざ、文字にしようとすると、いろいろと検証する必要があったり、個人的な思い込みを払しょくする必要があったり、でも思い込みが消えなかったり、凡人であることを痛感します。そうすると、壁にぶちあたるような気がいたします。
さて、先日、北海道千歳に行ってまいりました。懐かしい方たちとの語らい、大変、勉強になりました。年齢は私とあまり変わらないのですが、昔からずっと事件の法要に出ておられた方からのお話、高橋正衛さんの若かりし頃の話とか、印象深いものがありました。
また、父が心血を注いでいた初年兵教育のベースになっている「歩兵操典」の読み方教育法など、教えて頂きました。
今の自衛隊では、アメリカ方式になっているのだそうですが、それでも旧日本陸軍の良いところをミックスしたような、「自衛隊新入隊員必携」とか、言う本があり、これが、内容は全然違うけれど「歩兵操典」に当たるものだそうです。

「歩兵操典」の一例ですが、私の理解している限りにおいての説明ですから間違っているかもしれせんが、たとえば、「機関銃及び自動砲教練」における分隊の隊形および分隊長以下の「隊形」の記述では、分隊長は馬に乗り(馬の背中という意味で「駄載(ださい)」)そのあとに4名横隊の銃手が二列(合計8名)。 それから、三歩下がって、「銃(砲)馬」およびそれを御する「馭兵(ぎょへい)」一名、さらに、五歩下がって、弾薬馬および馭兵一名。これが簡潔な図になって示されています。「機関銃」(一分間に200-300発)「自動砲」(一分間に五-六発)についても、分隊長以下それぞれ八名の役割が示されています。そのあと、戦闘、夜間訓練、弾薬の補充等などが記されています。
「要は、ここに示される通り、体が覚えるまで訓練すればいいのですよ。」と、こともなげに、友人は言いましたが、「歩兵操典」は次のように一から七篇まであります。

第一編 各個教練 (「不動の姿勢」「擔(ニナ)へ銃(ツツ)」から「射撃」「手榴弾」「戦闘」「夜間ノ動作」など)
第二編 中隊教練 隊形、戦闘、中隊、戦闘のための前進、展開、突撃、防御、夜間戦闘、追撃、退却、弾薬・資材の補充など)
第三編 機関銃及自動砲教練(隊形、射撃、、)
第四編 歩兵砲教練
第五編 大隊教練
第六編 通信隊教練
第七篇 聯隊教練
付録  刀、喇叭ノ操法、十一年式軽機関銃ノ操法など

なるほど、兵隊を訓練する、錬度の高い軍隊になるのには相当なエネルギーと期間が必要です。
自衛隊では、刀やサーベルを使うのですかと聞いたら、赤坂御所などの儀仗兵による例外(サーベル)を除いては、一切使わないとのことでした。

いや、それにしても、この本をみないで、様々な動きを体に教え込むなど、兵役の間は、休む暇なしだと思いました。私の父は、第一篇のあたりで、事件になってしまったのですが、参考までに、教練に関し父の書いたものをすこし書いてみます。(懐かしき初年兵教育の想い出(昭和六十三年、「草萌え」六 より))

《愛する新兵さん達》
昭和十年十二月一日、初冬の好日和であった。近衛歩兵第三聯隊の正門には、昭和十年徴集兵達の晴れの入営を歓迎する大きな国旗が掲揚され、正門歩哨も緊張の面持にて厳然として立っている。午前八時、付添人同伴の入営兵達が威儀を正して続々として入門し、誘導兵の案内にて各所属中隊の入り口に集められた。
第二大隊第七中隊の新兵さん達は、全部で八十四名、出身地は、北は北海道から、南は沖縄まで、殆んど全国に及ぶ。気候、風土、生活習慣の異なる壮丁を受け入れたのである。
扨て、入営兵たちは、付添人と別れを惜しむ暇もなく、各班長に引率され、目が回るように忙しい内務班生活が始まる。一方、入り口前には中隊の幹部が整列し、紋付羽織姿の、付添の父兄達が、肩を寄せ合うように、安堵と不安のまなざしで集まっている。

先ず、中隊長 井上勝彦大尉(三十九期)の挨拶
 名誉ある、当聯隊の入営に当たり、全国各地より遥るばる上京せられ、本日めでたく入隊されました。ご存知の通り、当聯隊は、禁闕守衛の大任を担っております。皇軍の一員として、立派に御奉公できるよう、中隊は一致団結して訓練に励みます。どうか安心してお引取りください。

次に初年兵教官 今泉義道少尉(四十七期)の挨拶
 本日より皆さんの御子弟を 天皇陛下 の赤子として謹んでお預り致します。私は基本教育を実施する責任者であります。去る十月に少尉に任官したばかりのホヤホヤでありますが、腰に剱を帯び軍隊の飯を食うこと七年以上です。(注:東京陸軍幼年学校(14歳入学)、陸軍士官学校予科、本科、少尉任官21歳)、僅か一歳年上の兄貴ですが、軍隊教育の神髄は、愛と誠なり、と教えられて参りました。担当の助教助手共々三ケ月に亘りまして、名誉と責任を肝に銘じ共に汗を流して相共に努力することをお誓い致し、私の御挨拶と致します。

私は、かねてより作っておいた、初年兵教育進度計画と実施要領を教官室の壁に貼りつける。助教(下士官四名)助手(伍勤(注:伍長勤務上等兵=極めて優秀な上等兵)を含む上等兵八名)の理解を仕易くするためだ。
現在私の手許にはこの大きな一覧表はないが、記憶を辿れば概ね次のようになる。
 第一期 十二月 徒手執銃各個教練
 第二期 一月  分隊訓練
 第三期 二月  夜間教練  実弾射撃等
右に基き教練の合間を見て、精神訓話(勅諭)学課、歩兵操典の他、緊張の初年兵をリラックスさせるため、軍歌、演芸、作文などの心配りもした。各内務班では、兵器の手入れ、被服の整理整頓など、内務の躾(しつけ)が逐次行われていた。教官たる私は、各人の名前と顔などを早く覚えるため、夕食後など暇を見つけては、一人宛私の個室に呼び寄せ、身上調査を始める。中隊の書記はすでに立派な、身上調査一覧表を作り届けてくれていた。これは、マル秘であるが、現在私の手元にあり、大切に保管している。これを見ると例えば
学力欄=大学専門学校卒 五名、 尋常小学校卒 三名、 中学校卒 十七名、 高等科小学校卒 五十九名、 学力、程度のバラツキの広さ
職業欄=圧倒的に、農業が多く、殆んど小作農である
家計欄=家計困難が四名もいる。近衛師団はその徴集に当り道府県知事の推薦によると聞いていたが、これには内心驚く

営庭(注:近衛歩兵第三聯隊の場合、百二十メートル×六十メートルの運動場のようなところ。さらに聯隊には、八ケ中隊、機関銃隊、炊事場や浴場など、約二〇〇〇人くらいの若い男たちが日夜訓練に励んでいたのである。見えにくいが近歩三の図面を添付した。)には、早朝より元気の良い号令や掛声などが響き渡る。
汗まみれの兵隊には、入浴、着替え、洗濯など特に保健衛生には留意する。この頃は肺結核が猖獗を極めていた。週番士官以外の日でも、私は各班内を巡視し、消灯後の就寝状況などを見廻った。土曜の夜は、班長達を、私の個室に呼んで菓子や酒などをやり乍ら、懇親を深めつつ教育上のさりげない情報を集めていた。

 昭和十年十二月二十五日、営庭において、第一期検閲、幸い第七中隊は、最も優秀なりとの講評を受けた。この日、井上勝彦中隊長は、陸大の専科学生として転出された。自然の成り行きで私は中隊長代理になった。(中略)

 昭和十一年一月五日、陸軍事始。代々木練兵場に於いて観兵式が行われた。
 大元帥陛下におかせられては愛馬白雪を召され、在京各部隊を御観閲、続いて御閲兵。勇壮なる軍楽の調べに歩武堂々、陛下の御前を分列行進。私は、愛刀、紀伊国綱広(きいのくにつなひろ)を抜き放ち、第七中隊を指揮す。正に光栄の一齣(ひとこま)であった。

 昭和十一年一月十五日、聯隊命令により本部附き、中橋基明中尉(四十一期)が吾が第七中隊中隊長代理に補せられた。
 
 昭和十一年一月二十六日、代々木練兵場に於て、第二期検閲了る。
 そのころ、陸士本科歩兵教練班一行が代々木にて私共の初年兵教育の現場を見学、多分分隊教練の訓練でもやっていたのであろう、「颯爽とした今泉教官の姿は忘れられません。」と思い出を語ってくれたのは、四十八期の後(うしろ)勝(まさる)君である。

 昭和十一年二月二十五日、夜間訓練を了えて、午後八時頃帰営。第三期検閲を富士の裾野の滝ケ原廠舎に於て受けるべく翌二十六日は代日休暇。二十七日は原宿駅より軍用列車にて、御殿場に向かう予定であった。 

 吾が愛する初年兵は、漸く言語もハキハキ、動作もキビキビ、顔付も引締まって、立派な兵隊さんらしくなってきた。
私は第三期検閲に関する打合せを助教たちと行い、久しぶりに鎌倉の家に帰るべく、隊をでた。山王下で電車の来るのを待ったが、さっぱり来ない。タクシーも止まらない。薄汚れた残雪に佇み長靴の指先がしびれるように凍ってきた。あまりの寒さに、決心変更、再び坂を上って帰隊、自室の寝台にもぐり込んだのは多分、二十六日の零時を過ぎていた。


多少長くなりましたが、北海道で、「歩兵操典」の話を聞きながら、父の僅か三か月の、初めにして最後の、初年兵教育のことを考えていました。
この運命の昭和十一年二月二十六日、午前三時、父の軍隊生活は、いきなり終わりを告げたのでした。 



近衛歩兵三聯隊(今の赤坂TBSの場所)
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31 なかなか投稿できずに申し訳ありません

2017年06月09日 | 今泉章利
いろいろと準備はしているのですが、どうも投稿できずにいます。
仕事や、体調があまりよくないことは、事実ですが、いいわけにはならなりません。いまや、私にとって、この投稿は私の遺書のようなものであり、重要なものです。
にもかかわらず、投稿して居ないのは、畢竟、精神が足らない證拠です。お詫びします。

昨日、父の獄中和歌を久しぶりに見つけました。

    

時鳥(ホトトギス)血に鳴く声は有明の月よりほかに知るものぞなき  今泉義道

22歳の父が、獄中で、銃殺されていった方々を思いながら、詠んだ歌だと思います。

私は、いま、もうすぐ68歳。あまり気負わず、思ったことを、記すべきだよという声が聞こえてくる気がします。今日も、様々な、行事がありますが、気負わず、流されず、投稿ができますよう、祈っています。
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26.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 二・二六事件を研究される方へ (1)私流の資料の読み方 

2017年05月02日 | 今泉章利
26.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
二・二六事件を研究される方へ (1)私流の資料の読み方 

二・二六事件の資料はたくさんあるが、それらをどのように扱ったらいいのか。

1.第一次資料 孫引きではなくて本人が書いたもの。又、公判調書のような公的なものもある。但し注意を要するのは、二・二六事件の裁判には、弁護士がなく、裁く側が一方的に作った資料なので、恣意的に、微妙に書きぶりを変えることである。
但し、今年には国立公文書館で公表されることが予定されている、東京地検が保管していた「訴訟記録」には、本人が書いた「上申書」「手記」などが含まれているはずであり、これらは間違いなく「一級資料」である。私は、安藤大尉のものを少し読んだだけであるが、様々なことが読み取れる。また、上申書のないもの、例えば、水上さんの場合、たくさんの資料があるが、一番実態にあっているものは、その直後の、2月28日の三島憲兵隊の調書である。水上さんは、ほとんど何の説明も受けず日本刀一振りを支給されたのだが、一か月後の3月18日、陸軍法務官西原周治によってなされた第一回被告人訊問調書では、機関銃や小銃、ピストル、発煙筒など用意した武器、その目的を説明したようになっている。電信兵で応召された経験はあっても、武器の扱いは全くの素人であるにもかかわらず作文がなされている。河野さん亡き後、湯河原班の主犯としてのフレームアップである。これなど、いまの裁判で検察が作文した自白調書に似ている。また、本人が書いたものでも、ある意図をもって、ところどころ捻じ曲げた表現もある。これも又、厳に注意を要する。
又、昭和40年代に多く出された本の中には誤謬や思い込みで書かれているものが少なくない。注意を要する。

2.歴史をなりわいとする人たちがまとめた資料。 ある歴史観や目的謎解きに基づいた資料が結構多くあり、注意を要する。これが新事実と声高に言う。また、資料であっても、解説で、さらりと想像を交えて書くことが多い。解説は、一般の人がほとんど目を通す場所である。また、統計資料を使って人を幻惑する手法もある。
また、上から目線で、よくわかっていないのに解説する。読んでる方には、すっきりしない思いと軽くなった財布になんとなく気が付く。

3.マスコミ資料 新聞や週刊誌でそれなりの証言であったりするものも多いが、背後の認識が不勉強なものが多い。新奇性が要求されることは認めるが、検証が足りない。しかし、国会図書館などで昔の週刊誌などの記事を読むと、大切なヒントを発見することも多い。史実をつなげる助けとして丹念に集めることをお勧めする。

4.小説 これが一番難敵で、三島由紀夫のような場合は、はっきりと小説家の世界と分かるが、すらすら読めるものは、極めて注意を要する。作家は「歴史小説」とこの事件の書きぶり内容に責任は持たない。が、一般の人たちはこの小説に一番影響される。また、マスコミもこれを前提に「小説家の歴史」を膨らませる。有名な、真崎大将の「お前らの心はようッく分つとる」という文言は、磯部さんの行動記にある言葉だが、「行動記」そのもので、戦おうとした、囹圄の身の磯部さんの唯一のそして必死の戦術であったこと、つまり、事件に直接、真崎さんを引き込むことで、北、西田を救おうとした磯部さんの気迫である。したがって嘘もあった。この点は、後日、磯部さんは真崎さんに申し訳ないと言っている。
小説家立野信之は「叛亂」の第9章のタイトルに、此の言葉を使った。そして、この本で昭和28年、立野は第28回直木賞を手に入れた。日本人は、それ以来、真崎大将がそういったものと信じている。実際はどうだったか。真崎大将の護衛のため、真崎大将の自宅からの車に同乗し、真崎大将とともに陸軍省に入った陸軍憲兵伍長の金子桂さんによれば、真崎さんは相当怒っておられ、怒りをあらわに、青年将校たちに「馬鹿者!」といったとのことである。金子さんはそれを書かれたし、私もそれを金子さんから直接聞いている。

5.推理を込めた歴史書 1965年に発売された高橋正衛氏の中公新書「二・二六事件」の「彼らをつきうごかしたもの」のなかの「真崎甚三郎」の野心があったと断定する。黒幕は真崎だというのである。そして、このことは、膨大な証言資料を集めた松本清張を経て、や澤地久枝の「雪は汚れていた」を頂点に推理が進められた。結論から言えば、何もなかった。しかし、一般の国民は、真崎という黒幕がいたという印象を確信した。澤地は大量の本を売り、NHKや文部省から表彰を受け、朝日新聞は一面で新事実と書きたてた。
しかし、事実は何もなかった。東京地検の地下に「公判資料」があるらしいと報道されたころだった。そんな中、澤地は、匂坂法務官が遺した資料が、「これが最後の資料で、他には存在しない」と言い切って、「新事実も出なかった「雪は汚れていた」」を売り逃げしたのである。二・二六事件の資料は他には存在しないと言い切った澤地は、「歴史学者でもない匂坂法務官の子息がそういった」ということを根拠に書いている。物書きの文章は上手い。

そもそも、高橋正衛の真崎黒幕論は、1989年2月、末松太平氏の立会いのもと、高橋は、「真崎甚三郎」研究家の山口富永に対し、「あれは私の勝手な想像」と平然と言ったのである。この黒幕を求めて、日本の黒い霧を書いた「松本清張」が必死になるのは已むをえまい。ただ副産物として、事件に関連する方たちのインタビューや、様々な資料の収集物は残った。父のところまで、清張の事務所のひとが、インタビューに来たのを覚えている。
久野収を信奉する高橋という人の一言が生み出した、25年間の「二・二六事件黒幕探し」は今もかすかに脈動している。

6.まだ他にもあると思うが、これら文献資料が、脈絡なく、雨あられのように、いきなり飛んでくるので、一般の人は何が何だか当惑の極みに立たされるのである。
どうか、ご自分なりに分類し、年表をつくられることをお勧めする。今は、エクセルという便利なものがあるからなおさらお勧めしたい。


いま、教育の現場では、二・二六事件はソ連の革命の影響によって起こったもの と理解している中学校の先生がいる。イメージは、ソビエト兵の軍帽なのである。これは、事件直後、陸軍省がばらまいた事件の背後の可能性の中にあるものである。
又今の若い右翼の人は、仄聞ではあるが、二・二六事件は天皇陛下のご宸襟を悩ませたとんでもない不敬事件として見向きもしない人も多いらしい。
何が理由なのか。おそらく、情報が、整理されずめんどくさいのではないか。

多くの切り口があり、多くの方たちが関与した。そして、中国との戦争が起こり、アメリカとの戦争が起こった。戦直後、文部大臣前田多門(後藤新平秘書官、朝日新聞をへてソニー初代社長、神谷美恵子の父)は、学校教育局長に東大法学部の田中耕太郎を、社会教育局長に朝日新聞の関口泰などを置いた。其の教育方針のもと、私達、戦後生まれは、二・二六事件などは殆ど何も教えられなかった。

それにしても事件はわかりにくい。次回、何がわかりにくいのか、少し考えてみたいと思う。
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25.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平さまのこと(その8)「初心」は失われやすい

2017年04月14日 | 今泉章利
25.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
末松太平さまのこと(その8)「初心」は失われやすい

昭和42年2月24日 朝日新聞 文化欄 に「幻の雪」と題された記事がある。その中に、次のような記述がある

二・二六は、一世代を経て、奇妙なよみがえりを示している。三島由紀夫、利根川裕、それに武田泰淳ら諸氏の作品がそれにかかわりがあるが、むしろ当事者でありながら、そうしたムードに乗っかって、気楽な真相ばなしを流布したりする元軍人もいる。
関係青年将校の一人末松太平氏が、そのような風潮に対して、、おさえがたいいきどおりをひかえ目に述べている文章を近ごろ読んだが(「論争ジャーナル」三月号)、なるほど「初心」は失われやすいものである


この文中にある「論争ジャーナル」三月号は入手できていないが、国会図書館にあることは確認したので、近いうちに入手したい。
この記事の書かれた昭和42年ころは、二・二六産業と言われたほどに、実に多くの出版物が出された。
私だけが真実を知っているとか、その時、私が見た二・二六事件はこうだったとかいうたぐいのものである。
私の父は「まさに汗牛充棟の如し」とよく言っていた。

末松さんは、悲惨な日本の状況を正すべく、その道をまっすぐに歩まれてきた。
真剣に日本をよくするために、身を挺する覚悟で歩き続けていた方である。亡くなる瞬間まで、事件のことから離れることはなかったと思う。だから、私のような無知の青二才にも、真剣に話をしてくださった。
88歳のお祝いをしたとき、先生は、殆ど食べ物に箸をつけられなかった。目も開けられないような感じであった。きっとおつらかったのだろう。しかし、若いものが自分の祝宴をして呉れるなら、喜んで受けようー
そういっておられるかの様だった。

宴席は、太平さま、奥様の敏子さま、相澤正彦さま、「史」を主催しておられた田々宮英太郎さま、真崎大将の薫陶を受けられた山口富永さま、国民新聞の山田恵久様、二・二六事件の後、橋本欣五郎の大日本青年党に参加した今澤栄三郎さま、そして43歳の私、だったように記憶している。
そして、いま、私は、70歳を前にして、不遜にも、末松建比古様のブログに、末松太平先生の思い出の一部をを記している。



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24.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平さまのこと(その7)車力村の小作争議

2017年04月14日 | 今泉章利
24.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」
末松太平さまのこと(その7)二・二六事件の原点 車力村の小作争議

振り返ってみると、私が末松太平先生からお教えいただいたのは、わずか3年であります。先生が85歳の平成2年に、登戸のご自宅をお邪魔し、平成5年に88歳で亡くなられるまでのわずか3年なのであります。
にもかかわらず、何も知らない私に、事件についての神髄を語ってくださり、既に書きましたが、まず初めに先生は、車力村の小作争議をしめされ、これが二・二六事件の原点だと断言されたのです。
忙しいさなか、車力の高山神社に三回も行きましたが、何もわかりませんでした。でも、いま、こうして、このブログを書くに当たり文献を読み返してみました。

先生が大正14年、予科を卒業され、5聯隊に赴任された翌年の大正15年、青森県東津軽郡車力村(しゃりきむら)で、小作争議が起こりました。
明治憲法下、大地主制度が、江戸時代そのままにうけつがれ、明治5年、税金は現物ではなく、土地(地租)を基準に土地の値段の3%税金を取り立てる方法に代わりました。これは、
江戸時代の5公5民(税金は50%)とほとんど変わらない税率だったと、1973年(昭和48年)に発行された「車力村史」に記載されています。
具体的には、「小作料は、大正15年で54%、青森県北部では、コメの値段を勘案すると76%という「ベラボウ」な小作料が平気でとられていたと、かてて加えて、このほかに、小作人は、「礼米(感謝米)」と称して4年に一回、一年分の小作米にあたる米を地主に収め、地主から土地を新たに借りる時は、契約と同時に一年分の小作料金額を前納する。まさに残酷そのものであった。しかも、3年に一度は必ずといってよく、水害、冷害にみまわれて凶作となった。この様相を描いている書籍も少なくないが、これが50年前(注:大正末から昭和初期)の偽らざる車力のすがたであった。」とあります。

「車力村史」をもう少し引用してみましょう。

「明治に入ってからは、近在の地主たちが、二束三文で土地を買占め、殿様に代わって支配力を欲しいままにした。だから、この地方の農民の殆どは、みなこの地主の小作人として生殺与奪の権を握られていた。道端で、万一、地主と出会った際、挨拶の仕方が悪いと、文句を言われて、小作田を取り上げられた。横暴なやり方で不服であるが泣寝いりしたものである。また、いかに不当な条件であっても、それに対して、一言半句もいえない、文句をいうとたちまち田畑を取りあげられ、その日から食えなくなってしまうのだ。
この状態は、大正はおろか昭和時代になっても、少しも変わらなかった。
東北の農業は、全国的に一番立ち遅れていたが、それは、地主がはびこり、零細農民の数が多く、生血を吸われるように過酷な条件で年貢米を取り上げられるからだ。小作人から取立てた米屋金は、地主によって、今度は、商業資本や銀行資本、高利資本となって、略奪の資金に転化された。
大東亜戦争前後の強権発動と同じく、藩政時代に百姓から取れるだけのものは取った。それが次年度の凶作につながった。かくして凶作は凶作を生んだ。凶作は天災ではなくて、人災だといういい方はこんなことから生まれたのであろう。
そして、大地主たちが、どんな生活をしたか、それは西北の町や村に、今も残っている邸宅を見るとよくわかる。これらの地主たちは、終戦後のうちの大改革、要するに、農地改革で、その邸宅を人手(ひとで)に渡したものもあるが、その建物が当時の豪勢な生活振りが容易に想像される。赤レンガ塀を、大正八、九年頃、隣家の日照状況を考慮に入れず、周囲に高く廻し、お城のような家を築いて、公益を図ることもなく、自分勝手な暮しをしていたのだ。そして、彼らは小作人たちを、人間に値しない虫ケラ同然に思っていた。
農民の生活はどんなであったかは、幼児の死亡率、結核の死亡率、トラコームの罹患など、いずれも全国1,2位であったことでも想像できよう。まったくみじめな記録である。
この貧しさは、無知とからんで、彼らを一層みじめにした。小作人のほとんどは、娘を女工や女郎に売った。北海道やカムチャッカに出稼ぎに行った。そして、借金、貧困、病気の悪循環を繰り返した。」

読まれる方は、なぜトラコーマか、と思われるかもしれんせんが、小作人たちは、暖をとるために「サルケ」という泥炭を乾燥させたものをたいたのですが、これが煙がひどく、目や鼻やのどを刺激し、眼病の原因になります。
炊いていると隣にいる人の顔も見えなくなるほどの煙が出る、、とあるので、想像ができます。毎日サルケをたかなければ、凍えてしまいます。トラコーマの原因はこれだけではありませんでしたが、この地域ではこれが主な原因でした。

私たちは、ひとくちに、農村の疲弊といいます。然しそれがどんなものであったのか理解していません。私が今持っている参考文献(公式のもの、)を以下に示します。若い人にはもっともっと勉強してほしいと思います。
なぜ、二・二六事件が起こったのか、なぜあれほど優秀な軍人たちが、立ち上がったのか。いや、その前の、大正から昭和初期にかけての、経済を含めた歴史を整理してみてほしいです。

昭和6年の3月事件とはなにか。 なぜ血盟団事件は起こったのか、 同じ年の10月事件をどうとらえるのか、 昭和7年の515事件、 士官学校事件、 教育総監更迭事件、 相澤事件とは、、。
いや、一人でやるのはとても大変と思います。どうか、一次資料を使って、何人かで勉強をされるべきと思います。 一人では手に負いかねますし、珍妙な、分析が思い浮かんだりします。( 最近、信じられない想像の産物が、本やテレビなどにもよく出てくるようになりました。気になります。)

話を戻しましょう。「昭和の初期の農業恐慌」ということばもあるそうですが、私の参考にしているものは、次のようなものです。

・車力村史 昭和48年 車力村役場発行
・青森県史 資料編 近現代3  平成16年 青森県史友の会
・青森県史 資料編 近現代4  平成17年 青森県史友の会
・新編 埼玉県史 通史編5(近代1) 昭和63年 埼玉県発行
・新編 埼玉県史 通史編6(近代2) 平成元年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編19(近代・現代1、 政治・行政1) 昭和58年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編20(近代・現代2、 政治・行政2) 昭和62年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編21(近代・現代3、 産業・経済1) 昭和57年  埼玉県発行
・新編 埼玉県史 資料編22(近代・現代4、 産業・経済2) 昭和61年  埼玉県発行
・各新聞資料 東北大凶作 1991年(平成3年)無明舎出版など  できれば 地方の公文書保存館にある地方紙の新聞記事などがよい
・県議会など議会の議事録
・警察や、内務省警保局資料など


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23.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170407)末松太平さまのこと(その6)有馬頼義をめぐって(その2)

2017年04月11日 | 今泉章利
23.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170407)
末松太平さまのこと(その6)有馬頼義をめぐって(その2)

前回私は、「実は有馬氏はもう一つ痛い反論を受けていた。それは、有馬氏の1967年(昭和42年)2月25日の投稿記事に対する、同年3月3日付けの朝日新聞文化欄の《河野司 二・二六事件の意味 前提に思想があった””ただの人殺し”は間違い》という記事であった。こちらのほうは、末松氏の反論よりも早い。が、それについては、もう少し説明をしたい。実はこの文章は、高橋正衛氏が書かれた文章なのである。」と書いた。

1995年、折目朋美氏の「雪降リ止マズ」という漫画の出版記念会に、出席したときのことである。
その6年前、高橋正衛氏は、山口富永、末松太平両氏に、「真崎組閣陰謀説は、何の根拠もない私の想像です」と自白したが、それから4年後の、平成5年(1993年)1月、末松先生が亡くなられた、そんな時期時だった。
私が、池田俊彦さんに、高橋正衛が来てますよと、多少非難めいて池田さんに言うと、池田さんは「いろいろあるが、彼は、二・二六事件そのものを日本人に啓蒙した実績はあるのだから、、」といわれた。この出版記念会は、池田さんがアレンジされたものなので、おそらく、池田さんが呼ばれたものと思う。
パーティの席上で、、ちょっと顔色が悪かった高橋氏と国家論についてしばらく話をした後、高橋正衛氏から、「今泉さん、昔、私は皆様のために頑張ったことがあるのですよ。今となっては誰も覚えていないでしょうけれど、、」と言って、28年も前の1967年(昭和42年)の朝日に掲載された有馬頼義事件の話をされた。

新聞記事の翌日の法要の後の直会の席では、多くの参列者が「二・二六事件は強姦、人殺しの類」という有馬の記事に激しく憤っていた。今から、朝日新聞に押しかけていって、抗議をしようじゃないか、声高に語る人が多かった。
当時44歳の、高橋氏は、立ち上がって、みんなに自分は朝日新聞を知っているので、どうかこの場は私に任せてほしいと、一世一代のお願いをした。何とか了解を取り付けて、自分は、賢崇寺からその足で、朝日新聞の担当に会いに行った。
自分から朝日に対するお願いは、有馬頼義の記事に対して同じスペースの反論の記事を書かせてほしいという事だった。朝日文芸部は、内部で検討をした後に、条件として、記事を書く人間は、朝日が記事を書くことを認めたレベル人でなければ認められない。このことは、暗黙の了解なのだが、「高橋正衛が書くならいいよ。」ということであった。しかし、自分の名前で出すわけにはいかない。結局、河野司さんの了解を得て、文章は、高橋正衛が書くが、筆者は「仏心会の河野司」とすることになった。

反論は、前述したように、その約一か月後の昭和42年3月3日に掲載されたのであった。以下は、その掲載文である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「昭和42年3月3日  朝日新聞 文化欄」

二・二六事件の意味 河野司

有馬頼義(よりちか)氏への反論
二・二六事件で、いわゆる叛乱(はんらん)軍に襲撃され、そのため死をとげた、ときの内大臣・海軍大将斎藤実の縁戚(えんせき)にあたる有馬頼義氏の二月二十五日本欄「二・二六事件と私」と題する所論を読んだ。

遺族の一人として

私は有馬氏が、この事件の被害者の身内であるのと正反対の、加害者側の一青年将校側の肉親である。しかし、この事件の起きた瞬間は、有馬氏と同じく私も、直接には何らこの事件には関係のない人間である。
 そして現在有馬氏は文筆を業とし、私は一事業家である。このかぎりでは、私個人としては街の一読者として、有馬氏の所論を一人で読み、自ら感ずるところを、ただ一人胸中にとどめておくべきかもしれない。
 この二・二六事件は、もうすまでもなく、昭和史にとって重大な意味をもち、国民の生活に大きく作用した公的な事件である。私達青年将校の遺族としては、あの昭和十一年二月二十六日の明け方に起きた事件そのものは動かし得ない歴史的事実である限り、公的の場で、この事件の持つ意味を如何に論ぜられ、批判されるとも、それを静かに受け入れるであろう。
 この事件を素材とした小説、映画が書かれ、つくられても、それはあくまでも作者の事件への、その人の解釈であり、それに対する毀誉褒貶(きよほうへん)は、その道の専門家におまかせする。したがってここでは「宴」のことは私には関係ない。事実はひとつ、解釈は多様なのであるから。

確信犯だった彼ら

私たちは、わが身内、肉親の三十年前の激派の行動を全面的に肯定し、これを生涯かたくなに固持して、二・二六事件への批判をすべて拒否するものではないのである。
 しかしながら有馬氏の所論については、私は、この心がまえを破って、ここにいくつかの疑問を提示したい。
 この事件の首謀者の一人、磯部浅一の新しく発見された「獄中遺書」に次の如き一節がある。
 「吾人の行為が国賊的叛徒の行為ならば、その行動は最初から第一番に、直ちに叱らねばならぬ。認めてはならぬものだ。吾人を打ち殺さねばならぬものだ。直ちに大臣は、全軍に告示して全軍の力により吾人を皆殺しにすべきだ。大臣は陛下に上奏して討伐命令をうける可きではないか。間髪を入れず打つ可きではないか」
 御承知の通り、叛乱軍部隊は”間髪を入れず”討たれることなく四日間経過した。
 ところで叛乱将校を裁いた軍法会議では、二十六日の明け方」の殺人・放火の事実にのみ犯罪事実を想定して反乱軍将校を断罪している。それは有馬氏のいう”ただの人殺し”と断定したのと同じ態度である。
 二・二六事件は”ただの人殺しか”、つまり破廉恥罪か、それとも政治事件、確信犯罪かは重大な一点である。そして有馬氏が「革命ではなく人殺し」といっているのをみれば有馬氏の答えは明瞭(めいりょう)である。
 では、殺人罪とすれば、犯人は犯行後の現場にずっととどまっていたのである。何故”間髪を入れず討た”なかったのか。この事件は政治事件、確信犯の所業だから討てなかったのである。

国防国策の争い

さらに有馬氏はいう。「かれらをクーデターにかり立てたのは、陸軍部内の派閥抗争であり、第一師団の満州追放がきまったことについての反抗である」と。「地区軍部内の派閥闘争」とはおそらく皇道派と統制派の争いを指すものであろう。
 この争いは普通考えられる争いよりも、より根源的に国防国策をめぐる争いであった。だから高橋正衛氏の「二・二六事件」(中央公論社)は、全ページどこにも皇道派、統制派の文字がない。それでも二・二六事件は書きうるのである。まして、陸軍部内の派閥闘争がクーデターをかりたてたのなら、何故、軍の派閥に無関係の近衛文麿は、あのときこの叛乱軍将校の恩赦、特赦を画策したのか。この解答を有馬氏から聞きたい。
「第一師団の満州追放」という表現も杜撰(ずさん)?きわまる。戦時でない平常時の師団の海外駐留の手続き、国防方針の決定はほぼ二年はかかるのである。この点は。その衝に当った旧軍人にたしかめられたい。
 最後に重要なこと。「私は、二・二六事件は革命などというようなものでなく、ただの人殺しか強盗・強姦のたぐいだと思っている」という表現。「たぐい」というのは有馬氏が、この事件をとらえる抽象的意味として使用したと思う。しかし私は、すでに悪魔の意味をもつこのような言葉使用しなくては自分の悲憤と願望を表現できない文筆家を軽蔑(けいべつ)する。
まして、二・二六事件は、絶対にたとえ抽象的にせよ、このような言葉を浴びせられる事件ではない。テロリズムは「思想の争い」を直接暴力で解決せんとするから当然批判されるのである。しかし「思想」が前提であるその一点を、肉親への悲劇という表現からとりさるべきではなかろう。

革命の敗者と見る

襲撃のひどいやり方も斎藤実に関しては、有馬氏の目撃した事実を認めよう。しかし高橋是清については当時の流言以外、私としてはわからぬ。有馬氏に確証があればうけたまわりたい。しかし青年将校は今日生きている我々がどう解釈しようとも”革命”を実行しようとして決起したのである(計画の不徹底、幼稚さといわれることは別として)。有馬氏はこのことはあくまで認めないのであろうか、、、、、、、。
有馬氏の所論ののった同じ二十五日の読売新聞の夕刊に中野好夫氏は書いている。
「フランス革命の末期、、、ひどいときには一日五十人以上の大量処刑を行なった日さえあるという。厳たるこれは革命の事実である。だが今日ゴロリと血染めの生首写真(かりにあるとしてだが)だけをぬき出して「どうみるか」と問う酔狂者はまさかいまい。これも事実、しかもおそるべき異常事態にちがいないが、フランス革命そのものの歴史的意味はもっと奥のところにあることはだれでも知っているからであろう」
もちろん、二・二六事件とフランス革命は世界史的価値において全然ちがう。ただ革命という一瞬は美化すると、おとしめるとにかかわらず血染めの生首だけぬき出して「どう見るか」とは言えないのである。
二・二六事件の青年将校は死をもってあがなった革命の敗者であったのである。

**************

筆者は仏心会(二・二六事件処刑者遺族の会)会長。湯河原の旅館に牧野伸顕氏を襲撃し、十一年三月六日自決した事件首謀者の一人、河野寿元大尉の実兄。



写真はちょっとみにくいが、右が2月25日の有馬氏の記事、左が3月3日の反論。いずれも黄色の枠で囲ってある。

(備考)なお、高橋正衛氏は、1994年(平成6年)、中公新書「二・二六事件 増補改訂版」を出された。真崎大将の件はそのままだが、増補に二つの問題提起がある。一つは、軍隊のける命令の問題で、
もう一つは、大臣告示は、ただ単に紙切れであったのか、ということである。また、竹山道夫氏の「昭和の精神史」についても触れられている。「昭和の精神史」は、物静かだった父が、几帳面に何本も赤線をひいていた本である。
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22.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170406)末松太平さまのこと 有馬頼義をめぐって(その5)

2017年04月05日 | 今泉章利
22.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170406)
末松太平さまのこと 有馬頼義をめぐって(その5)

慰霊像が建立されてから二年後の1967年(昭和42年)2月25日、「朝日新聞」「文化」欄に、「二・二六事件と私」と題して、”事件は「革命ではなくて人殺し」”という記事が掲載された。筆者は、斎藤実内大臣の親戚、1954年(昭和29年)に直木賞を受賞、久留米藩主家の第16代当主である有馬頼義(ありまよりちか)氏。氏は、事件は「人殺し、強盗、強姦のたぐい」と決めつけたのである。
有馬氏はさらに週刊新潮に「二・二六暗殺の目撃者」を連載し、1970年(昭和45年)に、一冊の「二・二六暗殺の目撃者」として出版した。

週刊新潮の連載が終わるころ、末松太平さんは、長文の反論を有馬氏に送っている。有馬氏に送った手紙そのものは見ていないが、71年3月の「情況3」にのった「二・二六は革命だったか」には、その内容が書かれていると思われる。その内容は、1980年に発行された「軍隊と戦後の中で」「私の昭和史」拾遺 のなかでも見ることができる。

有馬氏の”勉強した歴史”には多くの間違いがあり、それを、末松さんはひとつづつ、ぐさりぐさりと指摘し、さすがの直木賞作家もうんざりしたとみえるが、なるほど、批判をすることというのは、このように書くのだなあとと今でも感銘深く思っている。
なお、以前に書いたと思うが、昭和41年の三島由紀夫の「二・二六事件と私」にも、末松さんはコメントを与え、軍隊を知らない三島は、文中、「末松さんの指摘に基づき小説を修正した。」と書いている。


さて、有馬氏は「二・二六暗殺のの目撃者」のあとがきで、「末松太平氏から長文の反論を受けた。末松太平氏の反論は、主として、二・二六事件が、人殺しでなく革命であったという趣旨のものである。ここでもまた「暗殺」とか「目撃者」とかいう言葉が、問題にされているが、これは週刊新潮のつけた題名で、はからずしも、私は、利根川君と同じ運命に立たされ、受けずもがなの攻撃を受ける結果となった。」と釈明付き文章を書いている。

実は有馬氏はもう一つ痛い反論を受けていた。それは、有馬氏の昭和42年2月25日の投稿記事に対する、同年3月3日付けの朝日新聞文化欄の「河野司 二・二六事件の意味 前提に思想があった””ただの人殺し”は間違い」という記事であった。
こちらのほうは、末松氏の反論よりも早い。が、それについては、次回説明をしたい。実はこの文章は、高橋正衛氏が書いた文
章なのである。そのいきさつも含めて。

 



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21.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170327) 末松太平さまのこと(その4)慰霊像の碑文「由緒書き」

2017年03月27日 | 今泉章利
21.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170327)
末松太平さまのこと(その4)慰霊像の碑文「由緒書き」

外は雨が降っています。なかなか投稿ができませんでした。書けるようで、書けない。わかっているようでわかっていない。忸怩たるものを感じています。
私は、本をじっくりとは読んではいませんでした。正確には、日常の些事におわれて、じっくりと読むことができなかったのです。

いわんや、同じテーマを語っている他の本との比較や、書かれている本を時系列でなど考えることなどは、できていませんでした。 でも、やはり、頼りになるのは、河野司先生や、末松太平先生、池田俊彦さんなど、お顔が浮かんでくる方たちの本ですね。また、もちろん、父や常盤さんや鈴木(赤塚)さん、北島さん、麥屋少尉、たちのお話も大切な資料になっています。
末松さんのこのブログに投稿するようになって、改めて、山のような本や資料を、じっくりと、様々な人の表情を思い浮かべながら、あせらずに、年表を作り、それを眺めながら、以前よりも少し、整理しながら考えをすることができるような気持ちになっています。

昭和40年にたてられた渋谷の慰霊像、正式には「二・二六事件記念慰霊像」(二・二六事件慰霊像)といいます。渋谷宇田川町の建立に当たっては、責任者河野司、相談役末松太平、常勤小早川秀治、会計監査藤田俊訓 田村町にある河野先生の三昭化成の一室の準備事務所で行われました。像に向かって前面の「慰霊」というのは「像名」といい、曹洞宗館長、髙階龍仙禅師の染筆によるものです。側面に大きくはめられているのは「由緒書」といって、末松太平さまが書かれたもので、河野先生の名前となっています。「由緒書き」は、河野先生の友人で日展の審査員のである大阪の花田峰堂師が揮毫されました。
以下は、碑文に書かれてある通り書き写したものですが、花田先生の書かれた楷書の原文のままなので、すこし読みづらいかもしれません。なお、花田先生の楷書と草書の原文は、今でも大切にを保管しております。

末松太平さまが、「由緒書き」の最終案を書きあげて、河野先生に見せたところ、河野先生から「何も加えるところはないですね。そして何も削るところはないですね。」といわれたのだと、私に話されたことを今でもはっきりと思い出します。
堂々たる「由緒書」は、見事な、末松太平さまの傑作と思っています。

昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍の歩兵
第一、第三聯隊を主体とする千五百余の兵力が、
かねて昭和維新断行を企圖していた、野中四郎
大尉ら青年将校に率いられて蹶起した。
當時東京は晩冬にしては異例の大雪であった。
蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し、総理大
臣官邸陸軍省警視廳等を占據した。
齋藤内大臣 高橋大蔵大臣 渡邊教育総監は
此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い
岡田總理大臣牧野前内大臣は危く難を免れた。
此の間、重臣警備の任に當たっていた警察官の
うち五名が殉職した。
蹶起部隊に對する處置は四日間に穏便説得工
作から紆余曲折して強硬武力鎮壓に變轉したが
二月二十九日、軍隊相撃は避けられ事件は
無血裡に終結した。
世に是を二・二六事件という。
昭和維新の企圖壊れて首謀者中、野中、河野
両大尉は自決、香田安藤大尉以下十九名は軍法
會議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した
此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した
十九名と是に先立つ永田事件の相澤三郎
中佐が刑死した處刑場跡の一角である。
此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名
に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者
一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く
記念すべく廣く有志の浄財を集め事件三十
年記念の日を期して慰霊像建立を發願し、
今ここに其の竣工をみた。
謹んで諸霊の冥福を祈る

昭和四十年二月二十六日
佛心會代表 河野 司 誌



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20.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170316) 末松太平さまのこと(その3)

2017年03月15日 | 今泉章利
20.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170316)
末松太平さまのこと(その3)

私が登戸の末松さまをお邪魔した1991年(平成3年)は、澤地久枝の雪は汚れていたが、あまりにも、でたらめで、おまけに、其の指南をしたのが、高橋正衛ということがはっきりしたころで、末松さまのお怒りは尋常のものではありませんでした。
お話したように、中央大学からみすず書房に入っていた高橋正衛氏は、中公新書のなかで、何の根拠もなく、青年将校を突き動かしたもののの一つに「真崎の野心」ありと想像し、もっともらしい「真崎陰謀」を想像で書き40版(50万部)も売り続け、日本中が、その「真崎黒幕説」に踊らされていた時期でした。

以下は、末松さまが21011年7月13日に書かれた、筆者あてのお手紙です。

「七月は悲しい三日と十二日       昨日は命日でした。
相澤中佐の唯一人の男の子正彦君から昨日のことの電話がありました。
高橋正衛が臆面もなく法要に現れたとの事でした。二月二十六日にも現れたと聞き、こんど法要に現れたら「お前さんなんかの来るところじゃないよ」と云ってやれと、正彦君には云ってあったのに、何も云ってやらなかったようです。
貴兄が「史」を直接入手されるようになってご尊父の方には拙文の手当てを除きました。コピーでも送るようにして下さると有難く思います。
ご尊父のところに「邦刀遺文」という本が届けられていると思います。邦刀というのは對馬勝雄中尉のことで對馬中尉伝記と云うわけです。若し届けられていたら機を見て御一閲ありたし。
拙文「津軽義民伝」で紹介してある本がやっと完成したわけです。
この前進呈した「時計は止まった針は落ちる」はゲーテの「ファウスト」のクライマックスにある、ことばです。この説明はまだしてありませんが、岩波文庫の森林太郎訳の他二、三程ファウストは刊行されていますから、お読みになり自得されれば十分ではあります。
お中元のお礼を云うつもりで筆を執り、それが後になりました。有難う御座いました。
こんど病院に健診にゆくのは、九月十二日です。これ以外は家にいますから、何時なりとお遊びにお出で下さい。
7.13 末松
今泉様

1936年7月3日は相澤中佐処刑の日、9日後の7月12日は15士の処刑の日でした。夫々の処刑は、宇田川町の衛戍刑務所内で行われました。末松さまによれば、信念をもって事に当たるのが武士の精神で、相澤さんの声はひときわ大きかった。堂々たる声で「天皇陛下万歳」を叫ばれたといわれておられました。空砲のパンパンという音の中に、ピューンという実弾の音が聞こえたといわれました。 なお、処刑の前には、看守がこっそり処刑が行われる旨教えてくれたそうです。
父も獄舎におりましたが、私に相澤さんのときの大音声の話をするときは、目が吊り上がって「それは大きなお声だった」と言っていました。


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19.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170314) 末松太平さま(その2)三島由紀夫「英霊の聲」から

2017年03月14日 | 今泉章利
19.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170315)
末松太平さまのこと(その2)三島由紀夫「英霊の聲」から



三島由紀夫さんの「英霊の聲」(昭和41年発行、河出書房新社)に「二・二六事件と私」という文章が収められています。
その中に、末松太平さまのことが書かれているので、その部分を抜き書き致します。三島由紀夫さんが末松さまのどのように見ていたかを知るうえでの参考になればとおもいます。

QTE

P226
戦時中は日の目を見なかった二・二六事件関係の資料が、戦後次々と刊行され、私が「英霊の聲」を書き終わった直後に上梓された「木戸幸一日記」と「昭和憲兵史」(未発表の憲兵隊調書を収載)を以て、ほぼ資料は完全に出揃ったものと思われる。壮烈な自刃を遂げた河野寿大尉の令兄河野司氏の編纂にかかる「二・二六事件」と、末松太平氏の名著「私の昭和史」は、なかんずく私に深い感銘を与えた著書である。


P232
..かくて私は、「十日の菊」において、狙われて生きのびた人間の喜劇的悲惨を描き、「憂国」において、狙わずして自刃した人間の至福と美を描き、前者では生の無際限の生(なま)殺しの拷問を、後者では死に接した生の花火のような爆発を表現しようと試みた。さらに「英霊の聲」では、死後の世界を描いて、狙って殺された人間の苦患の悲劇をあらわそうと試みた。
二・二六事件という一つの塔は、このようにして、三つの側面から見られたのであるが、まだ一つ側面が残っている。それは狙って生きのびた人間のドラマである。しかし私はそれについてもはや書く気がない。なぜなら、その課題は末松太平氏の「私の昭和史」の、バルザックを思わせる見事な最終章「大岸頼好の死」によって、すでに果たされているからである。


P233
また、「憂国」を次のように改訂し、以後これを底本とする。
「近衛輺重兵大隊」を「近衛歩兵第一聯隊」と改め、「中尉は享年三十一歳」を「三十歳」と改め、中尉の帰宅の件で、「軍刀と革帯を袖に巻いて」を、「軍刀を抱いて」と改め、中尉の遺書の、「皇軍万歳 陸軍中尉武山信二」を。「皇軍万歳 陸軍歩兵中尉武山信二」と改めた。
 この改定は、当時の実情をよく知る加盟将校の一人(当時陸軍歩兵大尉)末松太平氏の助言に依ったものであるが、「輺重兵」の改訂については、私自身多少未練があった。

UNQTE

なお、輺重(しちゅう)とは、いまでいう補給部隊、logisticsのことで、きわめて重要な役目であるのですが、当時は、誤解されていたようで、父などは、陸軍士官学校の将校生徒は、ほとんどが、「歩兵少尉」になることを熱望しており、なれなかったものの落胆は、みていられないぐらいとはなしていました。(この辺りは、澁川さんも同じような感じでありました。また、兵隊とともに勤務できない、事務屋になり下がった陸大卒業組、天保銭組は、本当に馬鹿にされていた様です。)
なお、輺重の重要性ですが、二・二六事件で、食料を27日夜届けたのは、第一師団経理部衣糧課長だった紺田少佐の独断で行われたことが昭和50年2月27日の新聞に載っていました。紺田少佐は、出動部隊の食料が一日分しかないので、300人が1週間食べられるだけの、米、麦、野菜、魚、肉などトラック一台分を届けるように命じたとのことです。後刻、紺田少佐は、取り調べを受けますが、兵たちが、空腹のあまり民家でも襲ったら大変であり、たとえ厳罰に課せられてもとの覚悟のもと、食料を送ったと説明し、処罰を受けることはありませんでした。
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18.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」 末松太平先生のこと(その1)  

2017年03月13日 | 今泉章利
18.事件関係者の息子が実際に接した「二・二六事件の人たち」(20170313)
末松太平先生のこと(その1)

私が千葉市登戸(のぶと)にある末松先生のお宅を訪問したのは、平成2年、1990年の5月13日のこととであります。それから、27年という月日が過ぎました。感覚的には、つい昨日のような気がしているのに、30年近くもたってしまっていることを思い改めて呆然としております。そのとき、私は、40歳でした。先生は85歳。誰の紹介も受けずに、いきなりお手紙を差し上げたのに、すぐ地図付きの返事を頂きました。
三回目の目の手術を慶応病院でするから、事前に連絡がほしい。過去の二回の手術は、網膜剥離の手術だったが、今回は白内障だからそんなに大変ではない、と書かれていました。地図には、西千葉駅を西友デパート側の道を5分ほどまっすぐ下り、京成の架橋をわたって右に曲がる、、とありました。

お宅にお邪魔すると、先生は、私の顔を覗き込むようにごらんになられ、「最近目が見えなくなっているが、君はお父さんに似ているね」といわれました。
何か、絵の道具が山のようにのっている大きな机を前に白髪の先生が座り、私は、かしこまって、何を話していいのかわからず、それでも、思い切って次の質問をしました。
「先生、二・二六事件って何でしょうか。」と聞いたのです。 すると、先生は言下に「正義の味方だ。」とはっきりといわれました。
私は、続けて「なぜ人を殺したのですか。」と尋ねたら、間髪をいれずに、「それは立場だ」といわれました。一点の曇りもためらいもない、瞬時に頂いた答でした。
この、問答は、私にとってずっと大切なものとして、ずっと心の中にあり、枝葉をつけながら少しずつ育っている気がしています。



先生は、私のような何もわかっていない闖入者に、そのあといろいろと話をしてくださいました。
「君はカレルの「人間この未知なるもの」を読んだか。「フランクリン自伝」を読んだか。ゲーテのファウストを読んだか。澤地、匂坂、中田の作り上げた「雪は汚れていた」「消された真実」で、真崎が事件を利用して組閣をたくらんだという話は、でたらめだ。なぜ、事件の話をゆがめるのか。」などとといわれました。
二年前の1998年の「雪は汚れていた」に対して、先生は、田々宮英太郎さんが主宰する雑誌「史(FUMI)」66号(1988年)に、「羊頭をかかげて」と題する論文を投稿。匂坂資料を太鼓をたたいて朝日とNHKで喧伝したあげく何も出てこなかった。など、多くのお話をしていただき、だんだん早く大きくなってくる先生の声に、目を白黒して聞いていた小さな自分を思い出します。

また、大正15年に青森県東津軽郡車力村で起こった小作争議のコピーを渡され、「これが、二・二六事件の原点だよ」といわれました。そのコピーには、胸まで浸かって田植えをしている小作人の写真がありました。



また、死刑が確定した對馬勝雄さまの田舎館(いなかだて)の叔父様宛の手紙を示され、「皆々様、勝雄は立派に皇国に尽し申し候、村の鎮守様に対しても面目相立候。私は絶対に死に申さず皇国と共に無窮に御座候、、」と書いてありました。
末松太平先生は、東北の苦しく貧しい農民たちの苦しさこそが二・二六事件の原点だといわれたのでした。
先生のお宅を辞去するに当たり、持参した「私の昭和史」(昭和38年2月20日 第1刷)を差出し、何か書いてくださいとお願いしたら、表紙の裏にサインペンで「尊王討奸 末松太平 今泉章利様」 と大きく書いてくださいました。

なお、私の把握している末松太平先生の著作は次の通りですがもっとたくさんあると思います。参考まで。

1963年 昭和38年(先生58歳) 私の昭和史
1965年 昭和40年(先生60歳) 二・二六事件慰霊像碑文原案(碑文は仏心会代表河野司名にて記す) 
1966年 昭和41年(先生61歳) 少尉殿と士官候補生(追想 大岸頼好 41.3)
1971年 昭和46年(先生66歳) 二・二六事件は革命だったか(情況1971.3、有馬頼義反論)
1980年 昭和55年(先生75歳) 軍隊と戦後の中で 「私の昭和史」拾遺 
1986年 昭和61年(先生81歳) ベストンの話(小田急建材)
1988年 昭和63年(先生83歳)  史66号 羊頭をかかげて
                史67号 「匂坂資料」信者への抗議
                史68号 表紙に寄せて(時計は止まった。針は落ちる)
1989年 平成元年(先生84歳)  史69号 末松太平 表紙に寄せて
           史70号 二・二六事件断章(その一)真崎大将の組閣説始末記
            史71号 津軽義民伝
1990年 平成2年(先生85歳)   史72号 二・二六事件断章(その三) 正義直諌の詔
           史73号 二・二六事件断章(その四) 生れ年としての明治の年号と、士官学校の期は、一致するかしないかの話
1991年 平成3年(先生86歳)   史74号 二・二六事件断章(その五) 事件第一報
           史75号 二・二六事件断章(その六) 翹望(ギョウボウ)
           史76号 二・二六事件断章(その七)岩淵国太郎中尉の死
           史77号 二・二六事件断章(その八)再び岩淵中尉の死について
1992年 平成4年(先生87歳)   史78号 二・二六事件断章(その九)三たび岩淵中尉の死について
           史79号 二・二六事件断章(その十)獄内人間模様 
1993年 平成5年 1月17日 ご逝去
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松本一郎先生のこと  

2017年03月12日 | 今泉章利



末松建比古さま

次のようなコメントを頂きながら返事が遅れました。

拝復 今泉サマ。
法要終了後、挨拶もせず帰ることになってしまいました。まあ、あの場の雰囲気では、サッサと帰るしかありませんね。
松本一郎氏の訃報には驚きました。水上源一氏の遺児サン+今泉サン+松本教授サン+私=4人で、防衛庁関連の“軍事資料室=正式名称ではありませんね”を訪れた日が懐かしく思い出されます。


はい、あれは2004年のころでした私が55歳、宣子さんが70歳を過ぎた頃でしょうか。目黒の防衛研究所でした。確か、いま、市ヶ谷のほうに移っているようです。いつか行きたいと思っています。
あの時、宣子さんから、水上源一さんのことを調べてほしいといわれ気楽な気持ちでいいですよ、などと言ってしまいました。でもそのおかげで、東京地検の閲覧許可を頂いたし、事件のことを学ぶきっかけになりました。
松本一郎先生は、あれからもいろいろとお世話になりました。何といっても二・二六事件裁判の研究を99年に出され、熊本幼年学校のDNAをしっかり受けておられた先生でしたから、御研究、御執筆やお酒も大したものでした。
お具合が悪く、お見舞いに伺い、2016年8月16日に、85歳で亡くなられました。

教え子であり、先生の二・二六事件をはじめ御研究にご尽力された、緑陰書房の荒川様から、昨年の末、先生の遺された資料を私に頂きました。荒川さまは、先生の遺言に従い、ご遺族から先生の資料を譲り受け取られたものですが、私を信頼してすべてを私にくださったものです。
ファイル二冊分くらいの資料で、二・二六事件の判決書(はんけつがき)関連と内務省警保局関連の若干の資料でした。

先生の書かれたもので、私が存じ上げているものは次の通りです。

1993年 史84号 東京陸軍軍法会議についての法的考察  (先生62歳) 
1994年 史85号 東京陸軍軍法会議についての法的考察(続)
1995年 史86号 死を我等に -軍法法廷の北一輝と西田税ー
    史88号 魔王と呼ばれた男

1998年 史97号 安藤大尉の生と死 -信義と情誼のはざまでー  
1999年 二・二六事件裁判の研究 (緑陰書房)
2000年 史102号 幼年学校の教育 
2001年 史105号 磯部・真崎対決の真相 -二・二六事件裁判記録ー
     史107号 真崎大将の人間像(上)
2002年 史108号 真崎大将の人間像(下)  
2003年 史111号 池田俊彦氏を偲ぶ 
    史112号  磯部の杜を訪ねる

2009年 「陸軍成規類集」、森松俊夫監修  (緑陰書房)
2011年 夢幻のごとく 野田謙吾中将と昭和期の陸軍 (緑陰書房)
2012年 二・二六事件判決書綴、訴訟記録目録 出版 (緑陰書房) 

2014年 道程 松本一郎著作集 (緑陰書房) (磯部、真崎その他記事有)

2016年 ご逝去 85歳 (注:法務省、訴訟記録を国立公文書館へ移管決定)

先生は、62歳の1993年から、二・二六事件の研究を始められたと思います。独協大法学会にも投稿されていたようです。しかし、「史」に投稿した記事が素晴らしいと思います。裁判資料に基づく一級の研究成果であります。
これから研究される方には、入手しづらいものもありますが、緑陰書房からだされた「二・二六事件裁判の研究」や「道程」は入手可能ならば、ぜひお読みすることをお勧めします。

末松様。私の記憶を呼び起こしていただき、まことにありがとうございました。
また、2010年ころだったか、、故澁川明雄さんと先生に、訴訟記録の公開についてご協力のお願いしたこともありました。先生は、難しいですけれど、、私のできることはしてみましょうといわれました。私は2012年の出版は、それを受けていただいたのかとも思っております。
私の、一郎先生への一番の心残りは、国会図書館で、ばったり会い、先生が、これから飲みに行かないかトお誘いを受けたとき、何かの用事で、お断りしたことでした。末松様、私は、膝が悪くてウォーキングはできませんが、元気なうちに何処かでお目に書かれますよう願っております。父上のお墓詣りも希望しています。

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