4月13日に、大人の寺子屋講座に行ってきたんだけど、
そこの質問で
「弥陀の本願って何ですか?」
と質問した人がいて、先生が
「一切衆生を救いたいという願いです」
と答えて、
質問した人は、わかんないけど、まあいいやみたいな顔をしてました。
ごめ~ん、これ、私が前回質問用紙に書いて、今回取り上げられた
「仏道とは何なのでしょうか。
帰すべき仏の教えを基に自分を見つめるということなのでしょうか?
そのとき、浄土真宗の教え(=仏の教え)は「阿弥陀仏の本願に帰すること」だとすると、阿弥陀仏の本願の意味が分かりません」
っていう質問に対して、今日のお話はこれの答えになるような話をすると先生がおっしゃっていたので、
たぶん質問した人は、今日の先生のお話を聴いてもわからず、この質問が出たんだと思います。
質問した本人(=私)は理解したのですが、たぶん、他の人はわかってないと思うので、私が理解したことをシェアしたいと思います。
■弥陀の本願とは
先生の答えだけだとわからないので、もう一度確認します。
↓を参考に
(聞いてきた内容が大谷派の内容なので、東本願寺関連から引用しました。
真宗でも親鸞会の人とは考え方が違うかも?)
まず、法蔵菩薩という方がいて
「全てのものを救うための仏国土を作ろう!」
と思いました。仏国土とは仏道により国を作ることであり、その国は「苦しみがないためにこれを極楽といい、穢れがないためにこれを浄土といいます。」
苦しみがないというのは、苦しいことが起こらないということではなく、苦しいことを克服していて、苦しみを感じないということだと思います(私の解釈)。
で、この世界を実現するには、弥陀の誓願、とくに18願
(ごめん、適当な例がなかったので、西本願寺派の↓からとってきた。
考え方は同じっぽい)
全ての生きとし生けるものが、私の真心からの願いを疑いなく信じ、浄土という仏の国に往き生まれたいと思い、たとえ十回でも念仏するならば、必ず浄土に往き生まれる。
ということが大事とされました。
この18願とは
迷いやすく、悩み苦しみの多いこの世界に、あなたのことをずっと思い通しの仏がいるよ。迷い苦しみの中にも、温もりに包まれて生きていける道があるよ。だからどうか、私の願いをそのまま受け取ってほしい。
という思いを信じて、「この考えすげ~」と称賛すれば(=称える、浄土宗の唱えるとは意味が違う)、あなたも浄土に行けます(っていうか、大谷派の場合、浄土に生まれています)
っていうことですよね。
で、質問した人も、そのことは知っていると思うんですよ、聴きたいのは
「あなたのことをずっと思い通しの仏がいるよ。」
いるって、なぜ断言できるの?
ってことだと思う。
これ、「阿弥陀仏は存在るか」という話を思い出してもらうと判ると思う
「阿弥陀仏は実在するかどうかは(お釈迦様とちがって=お釈迦様は実在する)人間ではわからないが、その働きは確かに存在する」ということだったと思います。
たしかに、法蔵菩薩のように考えれば、その働きは存在することになります。
法蔵菩薩は、「自分はさておき、すべての衆生が救われますように」と考えました
みんなこの考えになると、
Aさんは、自分はさておき、Bさんが救われますように
Bさんは、自分はさておき、Cさんが救われますように
:
Zさんは、自分はさておき、Aさんが救われますように
って考えることになりますよねえ、
そしたら、Aさんが苦しんだら、Zさんが、助けてくれません?
つまり、自分が苦しんだら、他人が助けてくれるという社会ができますよね!
これが、苦を乗り越える方法。
みんなが法蔵菩薩のように
「自分はさておき、他の人が救われますように」
と考える社会(=浄土)は、まるで、阿弥陀様が存在するかのように
他の人が自分を助けてくれて、苦を乗り越えられる社会になりますよね!
つまり、「あなたのことをずっと思い通す阿弥陀仏の(実在はわからないけど)働きは存在していて、迷い苦しみの中にも、温もりに包まれて生きていける道(=法蔵菩薩のように、
「自分はさておき、他の人が救われますように」
と考える生き方、視点、宗(よりどころ、立脚点)=仏道)はあるということを信じる(=南無)」
ってことで、これをまとめると南無阿弥陀仏ってこと。
なので、これを称える(信じて称賛すると)・・・苦を乗り越えた、「私が私が」というエゴで固まった煩悩のけがれた世界から抜け出した、けがれなき世界に行けませんか?
っていう風に理解しました。違うかな・・・
・・・まあ、自分はこう理解しました。
ということで、いつものように講義メモ↓
なのですが、今回はオフレコ部分があったので(インターネットに載せてはいけない個人的な話の部分)、そこは削除してメモっています。