ウィリアムのいたずらの、まちあるき、たべあるき

ウィリアムのいたずらが、街歩き、食べ物、音楽等の個人的見解を主に書くブログです(たま~にコンピューター関係も)

「等覚一転名字妙覚」って、ソフトウェアだとそう思う・・・

2018-04-29 11:44:35 | Weblog
なんて書くと、某宗教団体から、「わかってない」と炎上されそうだけど、
コメントとか受け付けえないし、わたしはだれだかわからないはずなので、
まいっか。

4月23日の「100分で名著」 の法華経で長谷川とうかくの小説書いた人が
言っていた(伊集院光も説明していた)

等覚一転名字妙覚

って、まさに、ソフトウェアは、そう思う。

等覚、妙覚は、菩薩の一番上の位。等覚の上が妙覚
名字(即)とは、もっともっと、ずっと下の状態で、言葉上、仏を信じている状態
(ここでいう名字とは、「は~い、お名前書いてね!」の名字ではなく、”ことば”という意味)

つまり、

等覚っていう、菩薩のなかでもめちゃくちゃえらい地位にいても、この先に悟りの境地があるのではなく、

そのめちゃくちゃすごい地位で、すごい力をもったひとが、
「菩薩様、助けてください」という一般の信者(言葉で、仏を信じている人、こまっている人)
   のところにもどってきて
菩薩の智慧を使って、一般の人を助けることができてこそ、妙覚であり、悟りをひらいたことになる。

修行の上に悟りがあるのではなく、あくまでも、在野で、仏を信じる人の困難を救ってこそ初めて悟りが得られると・・・※




ソフトウェアも同じで、

 ソフトを作ることの楽しさとか、ソフトウェアってすごいという感情は、ソフトを作り始めたころにあるのよね。
 で、ソフトにかかわってくると、どうしょうもない問題にぶつかって、
 「もしかすると、ソフトウェア工学とかやるといいの?」
 ってことで、ソフトウェア工学とかを勉強するかもしれない。

でも、ソフトウェア工学、いろいろ複雑な話になって、形式仕様とかでてきたり
・・・で、アカデミックの最先端、最高位の技術を身に着けたとしても、
それで、プログラムができるわけではない・・・システムの問題も解決しない。

ソフトウェアの最先端・最高の技術を持ったうえで、

  「SEさん、なんとかしてください」という一般ユーザーや、
  「先輩、どうしましょう(>_<!)」という新人君のような
  ソフトウェアの力を信じている人たちに対して

ソフトウェア工学の技術を応用できてこそ、「ソフトウェア工学をマスターした」といえる。

んでしょうな。




そんな、ソフトウェア工学の応用話を、「結合テストと単体テストのスケジュール」の話で
したいと思っています(って、C2の話するまえに、寄り道しちゃってるけど・・・)


※そういえば、ゴータマも、修行だけで、ぶったになったのではなく、
 ちちがゆをのんで(すじゃーた?)あとで、仏になってますよね。
 いったん在野に戻ること大事。




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