水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

6億円

2011年05月13日 | 日々のあれこれ

 「立川で6億円盗まれる」という新聞記事を見る。
 一定年齢以上の方なら、すぐ3億円事件を思い浮かべることだろう。
 大事件だった。何年前に時効になったんだっけ。
 迷宮入りするまで、捜査にどれほどのリソースが投入されたことか。
 ちなみに、盗まれたお金の中に製造番号が控えられていたお札があって、犯人のモンタージュの載ったポスターの下の方にその番号が書いてあった。
 幼少のみずもち少年は、母と電車に乗ってお医者さんに行く時、ポスターのその数字を見て、一瞬にして暗記し母をほほえませたものだった。
 その数字をさっき思い出して「XF227001AからXF229000A」と打ち込んでネットで検索してみたら、あってるではないか。
 なんてかしこかったのだろう、幼いおれ。
 貨幣価値が異なるとはいえ、6億円盗まれてトップ記事にならない。
 社会面のみにあるその記事を読んでみると、宿直が一人で、カギがかかってなかったとかで、しかも郵便局のお金だという。
 范増ですか。いや亜父(あほ)ですか。
 この警備会社は数年前にも1億5千万円盗まれたとか書いてあるけど、それでまたこれって、終わってないですか。
 そこに6億預ける郵便局も。
 週刊プレーボーイで「はっきり言って日本は終わってます」と堀江貴文氏が語っているのを昨日読んだけど、本当にそうかもしれないなと思う。
 いかに周到に練られた犯罪であったかが後でわかる3億円事件にくらべると、今回のはけっこうチョロかったのではないか。
 長く生きてると世の中の変化は感じてしまうものだ。

 ほりえもん氏はこうも言っている。

「私がライブドアでやりたかったことは、お金を稼ぐことではない。資本市場の仕組みは、企業を応援してくれる人たち全員が株を持てることにあるのだが、今の日本では一部のお金持ちや投資顧問会社しかほとんど参加できない。また電波はもっと有効に活用できるはずであり、テレビやラジオの仕組みを変えて、より便利なものにしたいと考えていた」(「週刊プレイボーイ」)

 メディアではさんざん持ち上げられ一方、「金の亡者」とか「品がない」とか「やりかたがきたない」とかの悪口もさんざんに言われていた。
 当時彼の本はけっこうわくわくして読んだものだが、今ふりかえってみて、たしかに彼は世の中のありかたを変えようとしてたはずだ。
 当時だって、人が言うように金第一主義とは思えなかったし。
 しかし、彼のやりかたは、既得権を持つ人達からは当然反感を買う。
 堀江氏を、逮捕、実刑というかたちで排除していく力は、実は6億円を平気でとられるほどに日本人を劣化させた方向でもはたらいている。
 天災ではなく人災であることが明らかになった原発事故も、もとをただせば同じだ。
 堀江氏は言う。

「だが、日本人はそれを自ら選択しているのだ」

 そのとおりだな。
 誰それが悪いと言うのはかんたんだけど、いまの日本の現状に全く責任をもたなくていい大人は一人もいない。
(今日、なんでこんな大風呂敷ひろげてしまったんだろ。)
 と言ってみても、自分に何ができるかと言われたら、目先の小さなことしかないのだ。
 せめて、これからの日本を背負ってくれる若者をつくりだすために、授業をして、部活をして、そうじをして、道をふみはずしかけてたら注意してあげるしかないのである。

 今日は4コマのうち2コマが漢文。3年になるまでとっておいた「鴻門之会」を読んでいる。
 試験との関係で、1時間で4頁すすまないといけないクラスがあった。
 内心あせってたが、ほどよいリズムで進め、樊噲(はんかい)が生肉を食わされる場面では「トリミングしてなくないですか」とかのくすぐりを入れながらも、最後に音読してゆとりをもって終わっているという、はたで見てたらほれぼれするであろう授業の話術。
 意図的に経験を積んだ結果、相当の域に達してしまったが、誰も言ってくれないので自分で言ってみることにした。

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明日から試験前

2011年05月12日 | 日々のあれこれ

 授業変更があって2コマしかなく、試験のだんどりなどそこそこ進んだ。
 吹奏楽連盟の会費も振り込みにいけた。
 これでコンクールの参加資格は得たから、まさに今日は西関東大会への第一歩を踏み出した日と言えるだろう。
 でも、明日から試験休みで練習できないのがいたい。
 毎年同じような流れで暮らしてるが、去年と同じことをしていたのでは同じ結果になるわけだから、結果を少しでも変えたいなら、生活をどう変えていくかだ。
 さいわい、最近の練習ぶりは悪くはない。でも大きく異なるかといえば、そうとも言えない。
 今月のバンドジャーナルに載っていた「指揮者(顧問)が感じている音楽性を超える演奏はない」という秋山先生のお言葉が身にしみる。
 つまり部員諸君が試験勉強にいそしんでいる間に、譜読みをすすめねばならないし、音楽性を高めるため、芸術性を高めるために、映画やお芝居を見に行けたなら行かねばならないのだ。
 お友達と呑みにいくのも大切な自己研鑽である。
 習志野高校の石津谷先生も、すべてのイベントが勉強だとおっしゃっていたはずだ。石田先生だったかな。
 そのために一刻もはやく試験をつくりきろう。3年なので4種類つくるのが、ちょっときついけど。
 まず明日は整体に行っておくのが大事かもしれない。

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模試

2011年05月11日 | 日々のあれこれ

 3年生は先週に続いて模擬試験。
 朝から夕方までの理系組は、ほとんど練習できなかった。 
 これからも放課後の講習や模試などで、みんなそろって練習できる日は少ないから、一日一日を大事にしていくしかない。
 監督しながら「人はじぶんのものでないものを占有しようとすると、逆に占有されてしまうのである」という文を読み、なんかすごく納得した。
 お金、仕事、土地、家、おいしいもの、衣服、色恋、家族、何を想像してみてもあてはまりそうだから。
 お金がほしいと思えば思うほど、それにふりまわされるようになる。
 義理人情をかいてしまったり、筋のよくないお金までほしくなってしまったり。
 異性がほしいときの振り回され方なんか、ほんと身にしみてイメージできるし。
 金賞も同じだ。
 大きな目標であり、徹底的に執着していきたいが、そのあまり自分を見失わないように気をつけないといけない。
 自由も、それを手に入れたと思ったときには、気をつけないといけない。
 大学生になってふらっと海に行ける程度の自由を、本質的な自由と勘違いしてしまう。
 目先の自由を行使したいと思うあまり、もっと価値ある自由を手に入れるための努力をする時間を浪費すべきではない。
 まあ、でも理屈はそうだけど、わかっててふりまわされてしまうのが人間なんだけどね。
 年をとっても、それは変わらないです。恥ずかしいくらいに。

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コンクール

2011年05月10日 | 日々のあれこれ

 コンクールの参加申し込み要項が送られてきた。
 先日1年生を迎えたと思ったら、もうコンクールだ。
 コンクールの抽選会のときに、出演日調整というのが行われてきた。
 指揮をする先生が年次研修にあたっていたり、他の学校行事と重なっていたりした場合、たとえば出演できる日程が三日間あるとすると、そのうちの都合のいい日のくじをひくまで引かせてもらえるのだ。
 といっても吹奏楽関係者以外には、そのイメージがわきにくいかもしれないが。
 コンクールの日程が8月3日、4日とあったとする。
 3日は校内模擬試験なので、4日に出させてくださいと言えば、それが通ったのだ。
 指揮者の都合がわるいとか、演奏メンバーが入試だから、なんてのも実は認められてきた。
 たとえば野球の大会で、「8月7日は校内実力試験があるので、8月8日に一回戦を戦いたい。そこがあたるまでくじを弾き直させてください」と言ったら、頭おかしいの? と言われることは必至だ。
 「いつも面倒みてもらってるコーチの家庭の都合で、この日は試合ができません」と言ったなら、それなら抽選会来なくていいです、出ないでください、と言われるだろう。
 そういうことが吹奏楽コンクールでは行われていた。
 初めて抽選にいったときは驚いたものだ。
 しかもそれを教育的配慮と述べてらっしゃる先生がいたことにも。
 今年の要項には、出演日調整は、教員の公的な出張のみ考慮する、とある。
 さらに当日の申し出は認められないと記載されている。
 長かった。常識の範囲と思われる抽選会になるまで。
 勇気を出して、それはおかしいんじゃないですかと初めて意見をいったとき、「誰? こいつ」って顔で見られてたなあ。
 大滝理事長ならではのご英断だと思う。
 抽選会でなんか言う人がいたら、ちょっとがっつり意見してしまうかもしれない。

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経験

2011年05月09日 | 日々のあれこれ

 問題を解く時は、線を引いたり、丸で囲んだりして読まないとだめ。それをしないのは、数学で言えば途中式を書かずにいきなり答えだけ書こうとするのと同じだ、と教えているつもりだが、なかなか手が動いてくれない。
 まして初めて読む古文で、何も書かずに読めるはずがない。
 あるクラスで古文の演習をやってて、あまりに手の動きが悪いので、プチお説教してしまった。
 この中には、みずもちよりも古典ができますという人はいないはずだ。 
 だから、先生が言ったとおりに、人が出てきたら囲みなさい、「ば・に・を」のところで切りなさい。
 自分のやり方でいくら読んでたって、読めるようにならないよ。
 今までのやり方では伸びてないということは、そのままのやり方100問を解いたって、だめな部分がより強化されるだけだろ。やれと言われたことは素直にやんないとだめです。
 
 何事も同じだ。
 経験することは大事だが、ただ経験を積むのではなく、意図的に積まねば。
 意図的な経験であっても、意図自体にあやまりをふくんでいると、かえってマイナスになる。
 先達によって正しく導かれてはじめて成長が得られる。
 
 教員の世界でも、長くやってきたから優れた指導ができるとは限らない。
 というか、年配になるにつれ悪化される方もいる。
 若くして高段の技量を身につけている方もいる。
 吹奏楽で言えば、顧問になって数年で、いや早い方はすぐに、トップに躍り出られるような方々だ。
 顧問になってずいぶん経った。
 ただやってきたつもりはないけど、なかなか思うようになれない。

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なにわオーケストラルウインズ

2011年05月07日 | 演奏会・映画など

 一年の合奏だけやって学校を出、「なにわオーケストラルウインズ演奏会」に行かせてもらった。
 ふだんは主にオーケストラで活躍されている管楽器プレーヤーの方々が、丸谷先生のもとにならと年に一度集まって吹奏楽の曲を演奏するという企画で、今年で9回目になる。
 着替えの紙袋を学校においてきてしまうという小さなトラブルがあった。
 駅の駐車場でそれに気づき、学校に取りに戻ったのでは開演に間に合わなくなる時間だと判断した。
 楽しみにしている課題曲の演奏に間に合わないのは残念すぎるので、上下ジャージのまま、駅前の本屋で一冊だけ本を買って電車に乗る。
 錦糸町に着いた時点で20分くらい余裕があったので、どこかでせめてジーパンでも買おうかと思ったが、でも別に誰もおれのことを見てるはずもないしとそのまま「すみだトリフォニー」に入ったけど、やはりういてる感はあったかな。
 オープニングはスパーク作曲の「陽はまた昇る」。震災直後に、スパーク氏がメッセージとともに日本の吹奏楽関係者へとプレゼントしてくれた曲だ。スパーク先生、さすがです。心にしみるメロディーだった。
 3曲目に「シンフォニア・ノビリッシマ」という吹奏楽の古典的作品。「ノビリッシマ」とは「高貴なということばの最高級ですね」という丸谷先生の解説をうかがって、意味がわかった。「ノーブル(高貴な)」が変化した言葉。訳すと「マジ高貴な合奏曲」となる。
 この言葉を耳にしたとき、なるほどこの夢のバンドのサウンドには高貴さがあると思ったのだ。
 オケではなく吹奏楽なので迫力があるのはもちろんなのだが、気品が漂うのだ。
 高校生バンドだと、この二つを両立させるのは至難の業だ。片方に肉薄するバンドはある。この日指揮された石津谷先生の習志野高校さんの最高の時は、ひょっとしてかなり両立してたかもしれない。
 おそらくこの方達は、苦労することなく(もちろん、みなさん苦労を重ねてきたのだろうけど)このサウンドをつくっている。
 このサウンドで課題曲を楽しませていただいたが、曲としての中身が最もチープな課題曲3でさえ、深いものに聞こえてしまう美しさだった。
 課題曲1は、予想通りのサウンド。作品としての完成度が高いせいか、上手なバンドはみんな同じひびきになるのではないかと思えた。
 4はまた美しく仕上がっていい曲だったが、上手な人と未熟な人との演奏の差が極端に大きくなる曲であろう。
 2、5は、この手練れのみなさんをもってしても、若干こなれてない演奏に聞こえた。逆に言うとサウンド以外の部分で、演奏のグレードをあげていくことができる要素がかなりあるのかもしれない。
 ほかに「アルヴァマー序曲」「トッカータとフーガ」「東海岸の風景画」という、楽しめる曲ばかり。
 最初に「東海岸の風景画」というプログラムを見たとき、へえヘスの新作かと思ってしまった。
 頭のなかにある「イーストコーストの風景」という曲と別物だと思ってしまったのは、どんだけ英語無知なことか。
 「イーストコースト」をライブで聴いたのははじめてかもしれない。昔やったけど、よくこんな難しいのできたよね。
 バッハザールで演奏し終わった瞬間に、客席から「かっこいいっ!」という女子高生に声がしたのを今も覚えている。おれのことを言ったのかな。
 またやってみたい。細かいこだわりなのだが、この曲は2楽章と3楽章はアタッカ(楽章の間をあけないこと)で演奏してほしいのだが、それはかなわなかった。
 何年か前のこの演奏会で「春の猟犬」を聴きながら号泣してしまったことがあった。
 今年はそこまではなかったなと思いながら、アンコールの拍手をしてたら3曲目になんと「キャンディーズメドレー」。やられた。3階席で若いお姉ちゃんのはさまれて突然すすり泣きをはじめたおじさんは私です。
 久喜高校さんの演奏会を聴いて問題意識をもったせいか、打楽器のとけ込み具合に感動した。
 なるほど打楽器はときに伴奏として、メロディーとして、オブリガードとし、管楽器と別物ではなく一体として存在しうるのだとわかった。目指すべき方向性が見えたような気がする。
 さて、評論してないで練習しよう。

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久喜高校定期演奏会

2011年05月05日 | 演奏会・映画など

 久喜高校さんの定期演奏会を聴かせてもらった。
 一部で課題曲「ライブリアベニュー」や「パガニーニの主題による変奏曲」など3曲。
 二部で「もののけ姫」「マードック」など3曲。
 さらに3部のポップスとお芝居で十数曲。よくこれだけさらえるものだと感心する。
 聴きながら考えたこと。
「もののけ姫」は久しぶりに聴いた。「もののけ姫セレクション」という8分くらいのバージョンだ。
 前に「もののけ姫3章」という15分バージョンを演奏したことがある。いい曲だった。二つのバージョンをあわせて、もしくはさらに何か足して「もののけ姫」ガッツリバージョンて出来ないだろうか。
 久喜高校さん、どのパートもよく吹けている。音も出ている。あえて難をさがすなら、よく吹けているだけにバンド全体の音がもっと混じり合ったら、なおいい響きになるのではないか。たぶん、そういうのを専門家はブレンドというのだろう。
 それにしても、これだけのバンドを指導しながら、吹奏楽連盟、高文連の仕事、ご自分の属する一般バンドの運営、さらに指揮法研究会を立ち上げて迷えるみずもちをお導きくださる、顧問金子先生の生活ぶりは一体どうなっているのだろうか。お子さんも小さいのに。
 あふれる感謝とご家庭が壊れないことを、ぎりぎりクリアしてきた先輩として祈るばかりである。
 おつかれさまでした。
 来春のうちの演奏会は満員にしたいな。二年分の思いと20回目という節目の気持ちで。

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キッズオールライト

2011年05月04日 | 演奏会・映画など

 今年はホール練はとれないかなと思いつつ、さいたま市文化センターの予約状況を調べてたら、夜間に一区分空きがあった。
 さっそく予約しに文化センターへ。
 その帰りに新都心で「キッズオールライト」を鑑賞。
 「八日目の蝉」とは別の形で、家族とは何かなんて考えさせられた。
 
 「八日目の蝉」で、生後まもなく誘拐され、逮捕されるまでの4年間を犯人の女と過ごした幼女は、当然のことながらその女を母親と思っていた。
 警察に発見され、実の父母に育てられはじめてすぐに家を飛び出し、警察に保護されて訴える。
「はやく本当のお母さんのもとに帰してほしい」と。
 もちろん誘拐された両親はたまったものではない。
 誘拐された身体が物理的にはとりもどせても、心はとりもどせないのだ。
 なぜその女と不倫関係になってしまったのかと後悔する父。
 その相手の女に厭味を言いに言ったりしなければ、女は娘を誘拐しなかったかと後悔する母。
 女の子も、物心がつき、事件の中身を理解できるようになるとなおさら、実の両親にはわだかまりをもちながら生きていくことになる。
 それは決して時が解決するというほど単純なものではなかった。
 血のつながった人間同士なら、自然と仲良くなれるさ的な考えが幻想であることにも気づかされる。
 家族というのは、決してDNAが自然につくりあげてくれるものではないのだ。

 「キッズオールライト」では、レズビアンの夫婦(ていう表現でいいのかな?)が、それぞれ一人づつ出産した子供とともに4人の家族をつくっている。
 家計をささえる父親的な存在が女性であることを除けば、ごく普通の家族ともいえる。いえないかな。
 18歳の姉と15歳の弟は、二人の母親が精子バンクからの提供を受けて出産した子供だ。
 子供達が本当の父親の存在に興味をもち、連絡をとることができ、遺伝子上の父親とが接触がはじまってから、家族の間がぎくしゃくしてくる。
 しかしそこで描かれる家族内の波乱は、特殊な家族であることにすべてが原因するものではない。
 思春期をむかえ、親とうまくいかない子供達と、いつまでも子供を支配したい親との軋轢。
 親は親同士でお互いの考え方や暮らしぶりの違いからすれちがいを生じさせ、小さないさかいが大きな溝になってくる。
 若いころは、ちょっとした行き違いも恋愛感情がそれを簡単に乗り越えさせた。
 ぶっちゃけていえば、多少のけんかもヤればおさまる。
 齢を重ねるとなかなかそういうわけにもいかないし、社会における自分の位置や、子供にとっての自分の役割なども邪魔して、なかなか素直に相手の気持ちを受け入れられなくなるものだ。 
 えっ? いや、一般論ですよ。
 たまたま二人の子供の親が同性というだけで、この映画で起きることは一般的に起こりうることだ。
 母親の一人が実の父親と関係をもってしまうことまでふくめて。
 親が同性という設定だから、なおさら問題がせつなく訴えかけてくるところが、この映画のすぐれた点なのだろう。
 何年もかけて築きあげてきた人と人とのつながりは、血縁よりよほど強い。
 家族は、血縁やDNAが自然に作り上げるのではなく、ともに暮らす人同士が相手を思う心がつくりあげるものなのだ。
 大人の作品なので、高校生諸君は別に観る必要はないが、今年の洋画のベストです。

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5月3日

2011年05月03日 | 日々のあれこれ

 午前中机の整理などをしてから指揮のレッスンに出かける。
 約1時間の移動時間をどう使うか。
 電車移動で添削もしくは読書に使うか、たまっているCDを車で聴くか、どちらもすてがたかったが、電車だと寝る可能性9割を超えているので車にした。
 学校を出て16号に出る手前でいきなり渋滞。うそお。連休だから?
 ラジオを聴くと、高速の渋滞具合はかなりのようだ。
 みんな自粛はしてないようで安心する。
 しかたない、のんびりCDを聴きながら行こうかと、最初に課題曲を2回聴く。
 西部地区で演奏する候補曲を聴くために次のCD入れ替えようとしたら、出てこない。
 前の車から使っている再生機なので時々ある。
 少し間をおいてやると復活するのだが、今日はなおらない。
 16号を避けて陸上競技場の方から上尾、伊奈と抜けていくラインを選んだが、通行量の多さはかわらなかった。
 17号近辺ではやはりかなりの渋滞。CDが出てくる気配なし。残念。
 レッスンでは練習曲№6に初めていどむが、歯が立たない。
 「もっと直線的に」「先入のしかたがちがう」「ああ、そこそんなにやさしく振っちゃだめです」「気持ちがやさしいからかなあ」「いや、ほんとうはやさしくないこと知ってますよ。毒があることを。ブログみたらわかる」
 そんなあ。毒だなんて。ときどき偽物は偽物って本当のことを書いてるだけなのに。
 「この曲の形式は」「どこから再現部」「最初とどうちがいますか」「それはどういうことですか」 … 。ダメだしが続く。
 手の動きが最終目標ではなく、表現すべき内容をもたないとだめとご指導いただいていることがわかる。
 30分過ぎくらいでメモリーを使いきり、40分くらいで息がぜいぜいいっていた。
 お手本をビデオにいれていただき、次回までにかんぺきにさらってくることを誓う。
 渋滞で昼何も食べれなかったので、レッスン後、栗橋線に出たとこで「ラーメン北の国」でもっけいみそラーメンを食す。
 炒めもやしがたっぷり乗るという味噌ラーメンの一番の基本を守り、西山製麺の麺が北海道ぽいラーメン屋さんだ。
 満足して車に乗ったらCDが出てきた。帰りはスムーズだった。

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バーベキュー

2011年05月02日 | 日々のあれこれ

 恒例のバーベキュー終了。
 年々、焼きにかかる時間が長くなっていくのは、個人持ち込みの増大が原因であろう。
 マシュマロはかなり初期の段階から存在していたし、部で買っているお肉よりもやや高級そうなのを個人的にもってくる例はこれまでも見られた。
 本年の場合、例年以上に多様な物品が網に載せられていた。
 アジやハタハタ、焼き鳥、このへんは許容範囲といえるだろうが、チーズフォンデュ、チョコレートフォンデュはいかがなものか。
 また、やきうどん、お好み焼きなどをフライパンで焼く場合、網上のスペースを大きく支配することを考えると、来年以降は、持ち込みについては一定の歯止め、もしくはモラルの向上を周知徹底すべき状況になっているかもしれない。
 父母会の方が作っていただいた、焼きそば、おにぎり、差し入れのキューリのおつけものはきわめて美味。
 枝豆をもってきてくれた1年生がいて、焼肉と枝豆を前にしてお茶しか呑めない状況におかれ、それを乗り切った自分のストイックさは称讃に値する。
 自分に妥協しないこの姿勢は、きっと演奏に現れるはずだ。
 ごちそうさまでした。(この行事って、何年くらい続いてるのだろう?)

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