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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

営業

2013年10月18日 | 日々のあれこれ

 昨日、今日と担当する中学校回りをした。
 学校説明会の案内や、今年の入試の概要について、中学校の先生にお会いして説明して回る。
 いわゆる営業だ。時期的に、合唱コンクールの練習をしている学校さんにいくつか出会った。
 いいなあ。この時期だけは中学校の先生になって、自分のクラスの合唱指導をしたくなる。
 とくに今日うかがった学校さんからはハイレベルな歌声が聞こえてきて驚いた。数年前、けっこうふざけた感じの練習に聞こえてた記憶があったが、きっと学校全体で立て直したのだろう。そのご苦労に頭が下がる。
 合唱や、ときどきみかける体育祭の練習などにこそ、その学校の雰囲気が如実に表れてしまうような気がする。

 「試験では点数がとれているのに、通知表の成績が今ひとつあがらない、うちの学校はきびしいんです」という訴えを、個別相談会の際に時折耳にする。
 通知表の成績は、テストの点だけでなく、授業態度や提出物や、学習に対する姿勢があわせて評価されているわけだが、学校行事や、ふだんの教室掃除や委員会活動に取り組んでいる姿勢が各先生方にインプットされていて、それもベースになっているとは言えるだろう。
 そういう総合的な態度が、勉強面の成果に大きく影響するのは、間違いないことだし。

 学校の先生というのは(もちろん自分も思いきり含めて言ってるけど)、「学校的まじめさ」を露骨に表現する生徒が好きなのだ。
 学校のことをきちんとやる生徒、前向きに取り組む生徒、つまり学校が用意した価値観を、ばかにしないで受け入れてくれる生徒。
 合唱にしても応援合戦にしても、冷静に考えたら「なんでそんなことしないといけないの?」という企画であり、そう思う子がいてもなんら不思議ではない。
 自分だってそんな時期はあったし、そういうことを全く考えたこともない人の方が少ないだろう。
 学校の先生方もおそらく例外ではない(忘れている人はいるけれど)。
 そう思いつつも、やりはじめれば人をのめりこませる力をもっているのがそういう行事の力でもあり、だからこそ学校の中で大きな位置づけを占めているのだ。

 そういうものに異を唱える生徒さんがいればら、先生にいい印象はもたれない。
 それは学校の価値観そのものを否定されていることになるから。
 ちゃんとやらない子を見かけたら「不快に」感じることを求められているのが「先生」であるとも言える。
 学校生活を支える価値観は、社会の要請で作られているものでもあり、われわれ一般ピープルが円滑に社会生活をおくるためにはどうすればいいかという知恵の集合体でもあるから。
 先生が生徒を評価するとしたら、自分たちは社会からそういう役割を与えられている存在だという自覚を持つ上においてのみ可能だろう。
 その自覚がまったくない場合、もしくは評価される側が先生のその自覚を感じないとき、評価はただの好き嫌いに見えてしまう。

コメント (3)
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