大学の落研でのゆるぎない自信をもとに談志門下に入り三日目。
「何か落語をやってみろ」と師匠に言われた志らく青年は、自信満々で「後生鰻」を語り始める。大学の先輩でもある放送作家の高田文夫氏に認められたネタだ。
しかし話し始めて十秒ぐらいで「もう、いいや」と言われる。そしてギャグ満載の「道灌」をつくってこいと言われる。
「道灌」とは前座ネタで、昔から存在する古典的な基本ネタだ。
吹奏楽で言えば、「バンドのための民話」とか「インヴィクタ」にあたる作品と言える。
太田道灌(江戸城や川越城をつくった武将ね)の「山吹伝説」にもとにした噺だ。
道灌が、父をたずね越生に出かけた際、山中で雨にあい雨具を借りようと一軒のあばら屋をたずねる。
「蓑(みの:わらで作ったカッパ)をかしてくださらんか」という道灌に、中からあらわれた15歳くらいの娘が、「恥ずかしながら」といって一輪の山吹を差し出す。
道灌は意味がわからない。貸す気がないなら、そう言えばいいのにと思いながら、帰った後、家来にこの出来事を話すと、それは殿、こういうことでございます、古歌の「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」にかけているのです、と説明される。
道灌は「どういうことだ」とたずねる。
「山吹には実がなりません。実の一つだに無き、つまり蓑一つ無くて貸せない」と歌にかけて断ったということですよ、と教えられる。
なるほど、そうだったのか、それにしてもわしは歌に疎い、風流を学ぼうと思い、そののち道灌は歌の道にも通じるようになったという、逸話がある。
この話をある時ご隠居が八五郎に教え、八五郎は聞きかじりで同じことを誰かに話そうとしてぼろぼろになるという噺だ。
長い噺ではないし、寄席に何回か行けば一度くらい耳にするだろう。
ただし前座さんがやるのがほとんどなので、面白く聞けた機会はない。
ずいぶん前に、今をときめく談春で聴いたことがあるが、それでもたいしたことなかった。
ちょうど、上手な「バンドのための民話」を聴く機会があまりないのと同じだ。
でも「バンドのための民話」も「インヴィクタ」も「バラの謝肉祭」も作品としては名曲なのだ。
ちなみに、今年の埼玉栄高校さんだったら、自由曲が「バラの謝肉祭」でも全国金賞は間違いないと思う。
で、志らく師匠の本からの引用です。
~ 私は当時持っていた才能のすべてを注いで爆笑編の「道濯」をこしらえ、師匠の前で「後生鰻」の二の舞は御免とばかりに熱演しました。師匠は最後まで聴いてくれて、私はたしかな手応えをつかんだのですが、聴き終えてからしばらくして師匠は言ったのです。
「お前は三平さんみたいになりたいのか。それとも俺のようになりたいのか」
「はい、師匠みたいになりたいのです」
「じゃあ、前座の間は俺が教えたとおりにやれ」
そう言うと師匠は「道濯」を語り始めました。淡々と。オリジナルのギャグは言わず、談志という個性も殺して。でも壮絶な「道濯」でした。
驚きました。客席で聴いていて気がつかなかった落語の世界がそこにありました。
見事なまでにそこにメロディとリズムがあったのです。まるで音楽のような心地良さ。
自分が落研でやってきた落語はまがいもので、プロになるにはこのメロディとリズムを吸収しないといけないのだと思いました。
メロディとは演者の個性。歌謡曲でいうところのひばり節であり、三橋美智也節。落語の名人は例外なくこのメロディを持っています。メロディのない人、薄い人は人気は出ません。聴いていても魅力に乏しく、もう一度その人の噺を聴こうと思えないからです。
リズム、これは落語そのものにある流れのようなもの。落語は何べん聴いても飽きないというのは、このリズムが心地良いからかもしれません。
前座が入門して最初に「道濯」のような、登場人物も多くなく会話が主の噺を覚えるというのは、このリズムを習得する必要があるからなのです。「道濯」でこのリズムを覚え損ねると、あとはどんなに大ネタを覚えたって駄目。ちゃんとした落語を語ることはできません。天狗連(てんぐれん:素人の落語愛好家のこと)や役者がやたらに大ネタを演じたりしますが、耳の肥えた落語ファンが彼らの落語を聴いていられないのは、このリズムをまったく無視して演じているからです。
師匠は「道濯」を演じながら、このリズムを徹底的に身体に叩き込めと私に言いたかったのだと思います。
立川志らく『雨ン中の、らくだ』(太田出版)より ~
ここでいう「リズム」には、純粋な拍感だけではなく、演者の声やたたずまいも含めた、落語を語る身体性という意味がこめられている(と思う)。
「メロディー」は、基本の上に成立する個性や独創を表す。
落語と授業が似ているなと思うのは、未熟な授業(と感じるとき)には、その内容以前に、生徒の前で何かを話すという身体性ができてないと思えることが多いからだ。
音楽も同じではないだろうか。
まず、楽器をならすという行為を、音を奏でるとはどういうことかを、身体にしみつけさせることが大事なのだ。けっきょく基本をしっかりやろうという話に収斂してしまうのだが。
「何か落語をやってみろ」と師匠に言われた志らく青年は、自信満々で「後生鰻」を語り始める。大学の先輩でもある放送作家の高田文夫氏に認められたネタだ。
しかし話し始めて十秒ぐらいで「もう、いいや」と言われる。そしてギャグ満載の「道灌」をつくってこいと言われる。
「道灌」とは前座ネタで、昔から存在する古典的な基本ネタだ。
吹奏楽で言えば、「バンドのための民話」とか「インヴィクタ」にあたる作品と言える。
太田道灌(江戸城や川越城をつくった武将ね)の「山吹伝説」にもとにした噺だ。
道灌が、父をたずね越生に出かけた際、山中で雨にあい雨具を借りようと一軒のあばら屋をたずねる。
「蓑(みの:わらで作ったカッパ)をかしてくださらんか」という道灌に、中からあらわれた15歳くらいの娘が、「恥ずかしながら」といって一輪の山吹を差し出す。
道灌は意味がわからない。貸す気がないなら、そう言えばいいのにと思いながら、帰った後、家来にこの出来事を話すと、それは殿、こういうことでございます、古歌の「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだに無きぞ悲しき」にかけているのです、と説明される。
道灌は「どういうことだ」とたずねる。
「山吹には実がなりません。実の一つだに無き、つまり蓑一つ無くて貸せない」と歌にかけて断ったということですよ、と教えられる。
なるほど、そうだったのか、それにしてもわしは歌に疎い、風流を学ぼうと思い、そののち道灌は歌の道にも通じるようになったという、逸話がある。
この話をある時ご隠居が八五郎に教え、八五郎は聞きかじりで同じことを誰かに話そうとしてぼろぼろになるという噺だ。
長い噺ではないし、寄席に何回か行けば一度くらい耳にするだろう。
ただし前座さんがやるのがほとんどなので、面白く聞けた機会はない。
ずいぶん前に、今をときめく談春で聴いたことがあるが、それでもたいしたことなかった。
ちょうど、上手な「バンドのための民話」を聴く機会があまりないのと同じだ。
でも「バンドのための民話」も「インヴィクタ」も「バラの謝肉祭」も作品としては名曲なのだ。
ちなみに、今年の埼玉栄高校さんだったら、自由曲が「バラの謝肉祭」でも全国金賞は間違いないと思う。
で、志らく師匠の本からの引用です。
~ 私は当時持っていた才能のすべてを注いで爆笑編の「道濯」をこしらえ、師匠の前で「後生鰻」の二の舞は御免とばかりに熱演しました。師匠は最後まで聴いてくれて、私はたしかな手応えをつかんだのですが、聴き終えてからしばらくして師匠は言ったのです。
「お前は三平さんみたいになりたいのか。それとも俺のようになりたいのか」
「はい、師匠みたいになりたいのです」
「じゃあ、前座の間は俺が教えたとおりにやれ」
そう言うと師匠は「道濯」を語り始めました。淡々と。オリジナルのギャグは言わず、談志という個性も殺して。でも壮絶な「道濯」でした。
驚きました。客席で聴いていて気がつかなかった落語の世界がそこにありました。
見事なまでにそこにメロディとリズムがあったのです。まるで音楽のような心地良さ。
自分が落研でやってきた落語はまがいもので、プロになるにはこのメロディとリズムを吸収しないといけないのだと思いました。
メロディとは演者の個性。歌謡曲でいうところのひばり節であり、三橋美智也節。落語の名人は例外なくこのメロディを持っています。メロディのない人、薄い人は人気は出ません。聴いていても魅力に乏しく、もう一度その人の噺を聴こうと思えないからです。
リズム、これは落語そのものにある流れのようなもの。落語は何べん聴いても飽きないというのは、このリズムが心地良いからかもしれません。
前座が入門して最初に「道濯」のような、登場人物も多くなく会話が主の噺を覚えるというのは、このリズムを習得する必要があるからなのです。「道濯」でこのリズムを覚え損ねると、あとはどんなに大ネタを覚えたって駄目。ちゃんとした落語を語ることはできません。天狗連(てんぐれん:素人の落語愛好家のこと)や役者がやたらに大ネタを演じたりしますが、耳の肥えた落語ファンが彼らの落語を聴いていられないのは、このリズムをまったく無視して演じているからです。
師匠は「道濯」を演じながら、このリズムを徹底的に身体に叩き込めと私に言いたかったのだと思います。
立川志らく『雨ン中の、らくだ』(太田出版)より ~
ここでいう「リズム」には、純粋な拍感だけではなく、演者の声やたたずまいも含めた、落語を語る身体性という意味がこめられている(と思う)。
「メロディー」は、基本の上に成立する個性や独創を表す。
落語と授業が似ているなと思うのは、未熟な授業(と感じるとき)には、その内容以前に、生徒の前で何かを話すという身体性ができてないと思えることが多いからだ。
音楽も同じではないだろうか。
まず、楽器をならすという行為を、音を奏でるとはどういうことかを、身体にしみつけさせることが大事なのだ。けっきょく基本をしっかりやろうという話に収斂してしまうのだが。