Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ゆるみきった風土にあがった狼煙(のろし)

2013-11-24 13:44:23 | 日記

★ ヘブライの政治的な力は、ソロモン王の死後おとろえ、王国はふたつに割れた。すなわちサマリアに首都をおく北方のイスラエルと、イェルサレムを首都とする南の小さなユダ王国である。やがて(……)紀元前722にイスラエルがアッシリア人に征服されたとき、その指導的な家族は追放され、またユダ王国も、紀元前587年、バビロニアの征服者ネブカドネザルの手で、同じ目にあわされた。

★ イスラエルからの追放者たちは、その独自性を失い、中東の人口一般の中に消えてしまった。したがって北の王国では、素朴な農民の世界でだけヤハウェの宗教が生きのびた。この信者たちは、のちにサマリア人と呼ばれた。

★ ユダからの追放者のたどった運命はまったくちがっていた。イェルサレム攻略のすこし前に、ヤハウェ崇拝を浄化しようとして、ひじょうな努力が払われていた。この改革の途中で、聖典が、ほとんど今日知られているかたちでの旧約聖書の諸編にまとめられた。そこで、ユダの国の指導者家族がヤハウェの神殿を遠くはなれてバビロンに追放の身となったとき、彼らは少なくとも聖典を持っていたから、それを読んで学ぶことができた。そこで、信者たちが毎週集まって教師の聖典説明を聞くことが、神殿における儀式の代わりを果たし、この時代以後もうユダヤ教と呼んで差支えない宗教の、中心的な礼拝行為となったのである。

★ このようにして、宗教が一地域のものでなくなった。ユダヤ人たちは、外見上はまわりの民族とほとんど同じようにふるまい、さまざまな言語を話し、衣装や行為の点でも一律でなかったが、それでいてヤハウェには忠実でありつづけた。要するに、宗教が、人間文化の他の側面から切りはなされたのである。イェルサレムの神殿での豪華な礼拝に執着したり、信者に対して同一地区に住んでほぼ統一的な習慣に従うよう強制するのではなく、ユダヤ人の信仰は、少数の信者が集まって聖書を研究し思索する場所でなら、どこでも栄えることができるようになったのである。

★ 追放生活はまた、ユダヤの宗教の情緒的な色調に、重大な変化を加えた。未来において悪が正される、という予見を強調することは、常に預言につきものの一大特徴だった。しかし、バビロン追放を経験したおかげで、未来はさらに重要な意味を持つにいたった。ユダヤ人はこう自問せざるを得なかった。なぜ神は悪がはびこるのをお許しになるのか。なぜ神は忠実なしもべをかくも苛酷に罰せられるのか。

★ この問いかけから、ふたつの理論が生まれてきた。エズラやネヘミアのように、現在の苦難は明らかに人間の過去のいたらなさを神が怒り給うているのだから、聖書に明示された神の意志にさらに忠実に従うようつとめねばならぬ、と強調する者たちがいた。

★ それに対し他の者たち、特に偉大な詩人イザヤは、次のような思想を展開した。神は民衆の忍耐力と強さを試そうとして、試練を与えておられるのだ。その結果、それに堪えた者たちが、世界が終末にのぞみあらゆる不正が一掃される偉大な「最後の審判の日」に報いられることを意図されているのだ、と。

★ 聖典の文章には、さまざまな点で矛盾しあうところが多いように思われたし、聖典の教えに尽くされていない人間個人の問題はたくさんあったから、ラビたちは、聖典の法を日常生活に適用する際に、ひじょうな工夫をこらした。そうしているうちに、彼らは、およそ人間が発し得るほとんどすべての疑問に答え、日常生活に意義と価値を与える行為の掟を、徐々につくり上げることができた。

★ 古代中東の大都会の人々は、祖先の信仰の根を失い、都会生活にとってふさわしい新しい道徳の掟も真の信念もつかめないままに生きているというのが大勢だった。したがって、そのようなゆるみ切った文化風土にあって、ヘブライ的な信仰と道徳律は、のろしにも似ていた。だから他の信仰が壊滅していた大都会ではユダヤ教が栄え、時代のあらゆる苦難と不安のさなかにあって、信者たちの心を強く把えつつあった。

<マクニール『世界史』(中公文庫2008);原著第4版1999>