Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

20世紀の30年戦争;“現代”のはじまり

2013-11-05 15:41:38 | 日記

★ 第一次大戦の勃発直後から、参戦各国の多くで敵国語追放の動きがいっせいにわき起こった。ロンドンでは、民衆がドイツ風の名前をもつ商店をおそって看板を打ち壊し、ドイツやオーストリアでも、英語名の店をやり玉にあげたり、レストランのメニューからフランス語を追放させたりした。ベルリンの有名な喫茶店はたまたまロンドンの繁華街ピカデリーを店名にしていたが、開戦後あわてて「ファーターラント(ドイツ語で祖国)」と改名したし、「サンライト」という石鹸会社は社名こそ変えなかったが、「社員は全員ドイツ人です」という断りの新聞広告を出して「誤解」の払拭に努めた。

★ 店名や商品名にしてこうであれば、敵国人と疑われた人間への監視の目はさらにきびしかった。ドイツではスウェーデン語を英語とまちがえられた観光客がリンチにあったり、敵のスパイと思われて警察に突き出される例が多発した。ミュンヘンにいたドイツ人作家エルンスト・トラーも、かぶっていた帽子にフランスのリヨンの製造工場名が書いてあったことからフランス人と疑われ、群集につけ回されて、通りがかりの警察官に身分証明書を見せてドイツ人であることを確認してもらい危うく難を逃れた、という体験を記している。

★ 開戦後の外国人排斥や敵国語追放は、一時的パニックとして片づけられるかもしれない。だが、戦争を理由に首都や王室の名前までが改められることはそうあることではない。かつてヴィクトリア女王は、王室はナショナルな事柄から距離をおかなくてはならない、と語ったことがあった。実際、ヨーロッパ諸国の王室や高位の貴族は、何らかの形で姻戚関係にあるインターナショナルな存在で、ドイツ皇帝のヴィルヘルム二世、イギリスのジョージ五世、ロシアのニコライ二世は縁続きであった。しかし、第一次世界大戦とともに、王室もまたナショナルな存在、名称を含めて国民に密着した存在となることを求められたのである。

★ この巻は第一次世界大戦から第二次世界大戦の始まりまでの時期、第一次大戦と両大戦間期の欧米世界をあつかう。この時代を見る視点の一つとして本巻で設定されたのが、こうしたナショナルな凝集力の具体像である国民国家である。国民国家は、ある領域内の住民を統合するため、統一的行政組織のもとに、同一の言語、共通の歴史文化のイメージを創り出して住民に教えこみ、かれらを同質的な公民に「造り替える」装置であり、その起源は18世紀末のフランス革命に始まる。

★ その後の19世紀のなかで、西欧諸国以外の地域では、むしろ住民の同質性を前提にして、あるいは同質性があると仮定して、国民国家をつくるという考えがあらわれてきた。その場合に前提にされた同質性の根拠こそ「民族」にほかならない。言語、文化を共有する集団を民族ととらえてひとくくりにし、ひとつの国家にまとめるべきだと主張されたのである。19世紀のナショナリズム運動は、ほとんどがこうした考えのもとに生まれた。こうして国民国家は西欧以外では民族国家に読み替えられた。だが、ドイツ、イタリアの国民国家をのぞけば、第一次大戦前の欧米世界では、なお伝統的な多民族帝国、広大な植民地帝国が支配的であった。

★ 第一次世界大戦を経てはじめて、民族自決権は広く認められ、「一民族一国家」のスローガンのもとに多民族帝国は新興民族国家群に解体された。ヨーロッパ地域だけでなく、アジアやアフリカでも、国民国家をめざす民族独立運動は本格的に胎動を開始した。史上はじめて、少なくとも原理的には対等な国民国家同士が共存する時代が開幕した。

★ とはいえ、こうした国民国家相互の関係をどう調整するか、国民国家内部の国民統合をどのような仕組みで達成し、近代化の基盤をどう構築していくかについて、参照すべき「マニュアル」は存在しなかった。いや、正確に言えば、マニュアルはなかったわけではないが、新しい状況には役に立たなかった。(……)西欧諸国の自由主義的、19世紀的モデルは、西欧以外の国民国家にとってもはや適合的なモデルではなかった。敗戦国や新興国独立国は近代国家の枠組みが不備なまま、国民国家を短期間で実現しようとしたからである。しかも大戦の経験は、めざす国民国家を総力戦に耐える、自己完結的な国家にしなければならないという考えを強めた。

★ 第一次世界大戦が終って古い列強体制は否定されたが、新しい国際政治・経済協力体制は脆弱で、それすら大恐慌によってまったくの混沌状態に陥った。各国民国家は生き残りをはかるために、一国単位でそれぞれの方向を模索しなければならなかった。しかもこの模索自体が国家間の競争に拍車をかけ、国際的な不安定をさらに増幅させ、時代にあらたな緊張と紛争を引き起こした。その意味で第一次世界大戦の始まりから第二次世界大戦の終わりまでの30年間は、移行期特有の構造的危機をはらんだ20世紀の「30年戦争」期と性格づけられる時代になった。(……)最初の30年戦争が近世から近代への転換を印したように、20世紀の30年戦争は近代から現代への転換を画した

<木村・柴・長沼『世界大戦と現代文化の開幕』はじめに(中央公論社・世界の歴史26―1997)>