Don't Let Me Down

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フーコーの闘争

2013-11-30 02:07:03 | 日記

★ フーコーに<統治>の問題設定があることは、1977-78年度のコレージュ・ド・フランス講義『安全・領土・人口』と、翌78-79年度講義『生政治の誕生』の刊行によって、広く知られるようになった。

★ <統治>とは、自己が自己と他者にはたらきかけ、自己と他者を導く営みのことだった。以後フーコーは、1984年6月にAIDS関連症候群で死去するまで、この統治なる概念を軸に研究を進めつつ、過去の作業を捉え返す。1979-80年度講義『生者の統治』の冒頭では、<権力-知>から<真理による統治>への移行が宣言されており、終章で触れるように、<パレーシア>をめぐる80年代の議論では、勇気を持って真理を追究することが、自己と他者の統治と関わるとされる。後期フーコーを全体として貫くテーマは<統治>ではないのか。これが本書の作業仮説である。

★ 生政治論は福祉国家と新自由主義への批判的な視点を導入する。たしかに、その図式は強力だ。だがフーコーの統治論の目的は、現代社会の仕組みをつまびらかにすることだけではない。いまここでの己の行動=振る舞いの仕方、統治のあり方を、この現実から出発して、どのように変えることができるのか?フーコーの問いはこの周りを回っている。逆に言えば、生政治論を現代社会論として受け止めるだけでは、現在の社会体制をどのような立場から批判するにせよ、そこから出てくる答えは「よりよい」あるいは「よりましな」統治術を提案する以上のものにならず、しかも「言わずもがな」のレベルにとどまるのではないか。

★ さらに言えば、そうしたテクノクラート的、改良主義的な見方こそが「罠」ではなかったか。フーコーが監獄情報グループの活動を行っていた際に述べたように「改革は官僚の仕事」なのであり、知識人にそんなことをいまさら言われなくとも「人々はよくわかっている」のだ。

★ ハート=ネグリは『コモンウェルス』(2009)で、上述したエヴァルドやエスポジットが、生政治を管理統制という観点からのみ捉えていると批判し、他方で、抵抗実践を極限的で希少なものとして提示する、アガンベン的な立場を退ける。加えて、個人に何らかの本質を指定する立場もとらない。そして<権力>の対にあるのは<抵抗>ではなく<主体のオルタナティブな生成>であり、それは「権力に抵抗するだけでなく、権力からの自律を探究する」ことだと論じる。本書が明らかにする統治の枠組みは、権力と抵抗という、二元論的な構図から距離を置く点で、ネグリの主張と部分的に重なる。だが抵抗という言葉からも離れて、統治という一元的な観点から、後期フーコーの問題設定を明らかにする点では異なる。

★ 後期フーコー思想における統治論の展開により、抵抗と権力は統治概念のもとで一元的に把握される。このとき、権力と主体の二概念を基礎づけるのが、「自己と他者の統治」を担う<統治する主体>だ。この主体は、自己の導きと他者の導きが交差する、権力関係の戦略的場に身を置く。そして、自らを導き、他者を導き、他者から導かれる存在として、己を主体化する。構造主義登場後のフランス思想には「構造か主体か」という係争点がある。統治論は、この議論に「構造も主体も」の立場から切り込むものでもある。

★ 闘争とは己の想像力を豊かにし、新しいものを作り出す。このとき自己は、己と他者と新たな関係を結び、自己に別の導きを与える。統治論を紡ぎ出した「フーコーの闘争」とは、闘争における想像力、創造性、永続性、偏在性への信のことであり、われわれに、その「闘争」の主体になるよう誘う。

<箱田徹『フーコーの闘争 <統治する主体>の誕生』序章(慶應義塾大学出版会2013)>




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