Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

強行採決

2013-11-26 15:38:49 | 日記

◆ 津田大介 @tsuda
特定秘密保護法案、自公が審議を打ち切り、賛成多数で強行採決。

◆ 津田大介 @tsuda
公明党、まったくストッパーとかになってねえじゃないか。

◆ 津田大介 @tsuda
このままどこまで日本は行ってしまうのかね……。

◆ 蓮池透@1955Toru
どうして、NHKは国会中継を途中でやめるの?強行採決は、中継せず。
Retweeted by 國分功一郎 retweeted at 11:28:02

◆ アサザ基金 飯島博@asazaiijima
NHKの国会中継終了直後に採決。予定通りということか。民放もニュース速報無し。国民を秘密で管理する。もう始まっている感じだ。 Retweeted by 國分功一郎

◆ 國分功一郎@lethal_notion
特定機密保護法、NHKの国会中継が終わった直後に委員会で採決したらしい。自分たちの後ろめたさ、そんなに直接表現して恥ずかしくないのか。
posted at 11:36:11

◆ 國分功一郎@lethal_notion
この後、政治家や芸能人等のスキャンダルを流し、世の中の目をそちらに向けさせる手段を利用することが予想される。考えられるのは猪瀬の辞任で、猪瀬のスキャンダルが(当然もっと前に分かっていたはずなのに)この時期に手をつけられたことに注意せねばならない。
posted at 11:39:00

◆ 國分功一郎@lethal_notion
報道の方々には、瑣末なスキャンダル報道に堕せず、いま政府がやろうとしていることの中心をきちんと報道していただきたい。
posted at 11:40:01

◆ IWJウェブ速報@IWJ_sokuhou
【速報】衆議院国家特別委員会は特定秘密保護法案を強行採決。与党側の質疑打ち切り動議後、自民・公明・みんなの賛成で可決した。日本維新の会は退席した。同法案は今日の本会議で可決される見通し。@iwakamiyasumi
Retweeted by 國分功一郎 retweeted at 11:40:14

◆ 國分功一郎@lethal_notion
《与党側は、この日の特別委の審議が全国にテレビ中継されていることを考慮。「首相がいる場で採決を強行する姿を国民に見せてはまずい」(自民党関係者)》。
こんなことまでキチンと考えてるんだから、他の手段ももちろん打ってるだろう。
http://mainichi.jp/select/news/2031126k0000e010146000c.html…
posted at 12:11:28

◆ 國分功一郎@lethal_notion
「集団的自衛権」などという口実で自衛隊が米世界戦略のためにいいように利用されて誰かが死ぬまで、もうこの流れは変わらないのだろうか。その時に死ぬのは、違憲だ何だとずっと文句を言われながらも災害があれば頑張ってくれた自衛官の人達じゃないか。
posted at 12:17:30

◆ 國分功一郎@lethal_notion
イラク戦以降、アメリカ国民は戦争嫌いになってる。それがシリア危機で証明された。次に軍事作戦を行いたい時、アメリカが自衛隊を利用しようと考えるのは理の当然。機密保護法はその布石。自衛官の友達とか、結構みんないると思う。彼らがアメリカに利用されるなんてくやしくないのか。
posted at 12:23:37





“年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず”

2013-11-26 01:14:36 | 日記

★ 《この世の生の時間は一瞬に過ぎないということ、死の状態は、それがいかなる性質のものであるにせよ、永遠であるということ、これは疑う余地がない……。》(パスカル『パンセ』)

★ 《人類は消滅するであろうなどとわれわれが断言するのを、何ものといえども許しません。人おのおのは死にますが、人類は死ぬべきものでないことをわれわれは知っています。》(ボーヴォワール)

★ 近代人は死の問題を、意識の底に封印している。
  それはみずからの死の問題と人類の死の問題とが、近代的自我にとっては解析不可能な問題であると同時に、それゆえにこの問題にかかわっていては、市民生活を生きてゆくことはできないからだ。われわれの生の時間は限りがあること。人類の全歴史もまた、限りがあること。そのあとにつづく死の時間は無限であること。そのかなたには、たぶん、なにもないこと。

★ パスカルが神の存在を、確率論的に1/2であるとしながら、なおかつ神の存在に賭けることができたのは、彼の有名な計算のまえに、前論理的な直感において、あらかじめ神を信じていたからだとわたしは思う。そして多くの成熟した近代社会の自我は、このようにパスカルの賭けを賭けることができない。それはかれらの前論理的な直感がもはや、パスカルのそれとおなじものではないからだ。

★ そこには絶望しかないようにみえるけれども、われわれにはあとひとつだけ、なすべきことが残されている。それはわれわれが、なぜそのように問題をたてるのかということを、それじたいとして知の対象とすることである。ひとつの論理のたてられ方を、そのものとしてみずからの知による探究の主題として眼前におくことである。

★ <ニヒリズムの元凶>としての時間が、否定しがたい「客観性」として存立してくるのはなぜか。すべての未来に死があるという事実が、なぜ現在の生をむなしいものとするのか。時間関心がこのように抽象的に無限化されてゆくのはなぜか。生活の「意味」がいつでも時間のかなたへと送りこまれてゆくのはなぜか。ひとびとの生が、その生きられる時空のうちに完結して充足しうる構造を喪うのはなぜか。要するにこの<虚無>の存立の機制自体を、知の照明の対象として主題化し追求すること。われわれの「明晰」の罠を、「非明晰」へとのがれるのではなく、「明晰」をそのものとして対象化する<明晰>のほうへ、のりこえること。

★ 生きられるひとつの虚無を、知によってのりこえることはできない。けれども知は、この虚無を支えている生のかたちがどのようなものであるかを明晰に対自化することによって、生による自己解放の道を照らしだすことまではできる。そこで知は生のなかでの、みずからの果すべき役割を果しおえて、もっと広い世界のなかへとわたしたちを解き放つのだ。

<真木悠介『時間の比較社会学』(岩波現代文庫2003);原著-岩波書店1981>