Don't Let Me Down

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“日本文学”と“日本国”のはじまり

2013-11-27 12:59:48 | 日記

まず“日本国”というのは、神代の昔(いつ?)から存在したのではないのである。
ゆえに、それ(日本国)にも、“はじまり”があることになる。

そして、“日本文学”に“はじまり”があることに疑問をいだくひとは、日本国にはじまりがあることに疑問を抱く人よりも少ないだろう。

以上の文章は、わかりにくい、だろうか?(笑)
けれども、以上のこと(“日本文学”と“日本国”のはじまり)に、すこしでも興味をもつひとは、加藤周一『日本文学史序説』の“はじめ”の部分を熟読する必要がある;

★ 文献よりさかのぼれるかぎりでの日本文学の歴史は、7・8世紀にはじまる。

★ 統一国家の成立は、首都の建設と、国史の編纂を意味していた。

★ 7世紀に飛鳥地方に住んでいた王権は、8世紀のはじめには、長安に倣って平城京をつくった。全国で唯一の都会で、大きさは長安のおよそ四分の一、人口は20万に達したことがあるという。(……)平城(奈良)は、商業の発達の結果市場として成立した都会ではなく、律令制権力の城下町であった。

★ その同じ権力が、遷都(710)の後10年間に、『古事記』(712)、『日本書紀』(720)を完成したのである。『古事記』は、日本語文脈を混えた変体の漢文により、『書紀』は、中国の史書・文集に倣った漢文で書かれ、いずれも皇室の祖先を神格化した部分と、歴代の天皇の系統と治世の内容を叙述した部分から成り、編年体の体裁を整えている。その成立の事情はあきらかでない。編纂の準備は、7世紀の後半にはじまっていたらしい。またその原資料――いわゆる『帝紀』と『旧辞』は、今日失われて存しないが、前者は皇室の系譜を、後者は宮廷でのさまざまな語り伝えを記録して、6世紀には成立していたらしいといわれる。

★ 津田左右吉の研究以来、あきらかなことは、律令制権力が自己の正統性を証明するために、『記』、『紀』の神代の部分と、そこから切れめなく続いたとされる人代の初期の話を、意図的に構成したということである。構成の素材には宮廷・民間の口諳の伝説があったにちがいない。しかしそれをまとめた、――またまとめる過程で修飾した『記』、『紀』の話の全体は、王権の正統性をあきらかにするというはっきりした立場から秩序づけられたのである。

★ 7・8世紀の支配層が、世襲の王権の正統性を、歴史的に説明する必要を感じたのは、6世紀以来の朝鮮の王国の交渉、7・8世紀の中国との朝貢関係において、外交上そうすることが有利だったからであろう。東アジアの先進国の習慣が、後進の倭国にも及んだのであり、石母田正は、その点について、もっと具体的な事情を述べている。石母田は『書紀』、『隋書』、『宋史』などに散見する記述から、唐の皇帝が日本の使節を引見して行う公式の質問には、「日本国之地理及国初之神名」に係るものが含まれていたと考え、遣隋使についても、同様のことを想像し、そういう事情が「記紀の神代史が作成されてくるひとつの契機」になったろう、と結論している。

★ 中国との朝貢関係を前提としてみると、『記』、『紀』の少なくとも神代の部分は、日本側の意志を越えて、対外的に書かれざるをえなかったという技術的な理由さえあるかもしれない。『古事記』完成の後10年を出でず、なぜ『書紀』が編纂されたのか。『古事記』は、成立の事情・資料・文章などの点で、おそらく対外的な目的には充分に適せず、公式の国史として、漢文で書きなおすことが重要だと考えられたのであろう。

《加藤周一『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫1999);原著-筑摩書房1975、1980>


* 上記引用文は、『日本文学史序説』のほんの最初の部分からの引用である。すなわち、“日本文学史”も“日本国の歴史”も、まだまだ“つづき”があるのである!