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★ 日本では、教育体系が忙しいというせいもありましょうか、あるいはまた、流行が読書の世界にまで入り込んでいるということがあるかもしれませんけれども、筋書や要約に追われて、一句を自分で発見するという肝心の訓練が、――これは社会科学の本だけでない、本一般についてもいえることですが――、なおざりにされているかと思います。
★ 社会科学の本でも、一般の本でも、まず断片を自分の眼で読み取ることが必要です。最初に断片、それからだんだんにその本の全体を深く理解し、再解釈してゆくにも、ある断片がものをいって、それをテコにして再解釈が可能になる。
★ ところが、断片を自分の眼で読むことは一つの賭けです。その賭けを、もともと日本の社会がしにくくしていて、教育がそれをいっそう助長する。自分の眼で本を読まないように本を読む訓練をする。そういうことが否定できないと思うのです。社会科学を離れて一般の本がそう。定まった結論なり「感想」に向かって本を読む。そういう方法、モード、習慣が、社会科学の本にまで持ち込まれて、ここでいっそう、というのは、この領域では芸術作品の場合と違って、眼が直接にものをいうことは少なくなりますから、そこでいよいよ自分の眼のほうを疑っちゃうということになって、断片を読むということができない。どうしても断片をはっきりと読むことを、最初の出発点にしなきゃならないかと思います。
★ もちろん断片だけじゃあ困るんで、体系を知る。体系的に読むということも必要です。そうしなきゃ社会科学にはならないわけですが、しかし体系的に考えることは、自分のなかでの体系感覚の育成というものと結び付けながらやらなければならない。その体系感覚が育ってゆくためにも、まず断片をこの眼でとらえることが必要だと、私は、思うのであります。
<内田義彦『社会認識の歩み』(岩波新書1971)>
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