Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

漂泊と帰郷;“真理への郷愁”

2013-11-14 15:41:12 | 日記

★ 「故郷」とは、その親しく安らかな顔とは別に、先の犀星の詩にもあるように、絶対に帰りたくない、別の顔を持っている。そこに秘められているのは自分の暗い過去だけではない。そこでは公然と、先祖崇拝と、因習の権威と共同体の束縛が規範として君臨しているだけではない。定住ということ自体が土地所有に、所有者と非所有者の差別に、さらには他所から来た者の排除と差別に結びつく。もしその所有権が国家レベルにまで拡大されれば、領土の拡張や防衛は、住民に犠牲的な奉仕を要求するだろう。

★ たとえば、局面は変わるが、「シオニズム」からイスラエル国家の建設をめぐる、いわゆるパレスチナ紛争を見てみよう。本来、迫害からのアジールを求めた「帰郷運動」だったシオニズムが、固有の領土を占有したイスラエル国家の建設を強引に推し進める時、他方、自分たちの郷土を追われたパレスチナ人たちが郷土の奪還をはかって、インティファーダに走る時、両者は連鎖反応となって、止まるところを知らない。ユダヤ教対イスラム教という宗教的衝突は、おそらく表面的な対立でしかないだろう。軍事力によることはもちろん、政治的なかけ引き、妥協による解決も、根本的な解決にはなりえないだろう。おそらく、土地所有と結びついた「故郷主義」が、「善悪の彼岸」に、優先して主張される所では、報復の連鎖が反復する物語の主題なのであろう。

★ だが、オデュッセウスの漂泊と帰郷の物語だけで、人類史をカバーするわけにはいかない。レヴィナスは、オデュッセウスに代えて、故郷の地を離れ、予め息子にも帰郷することを禁じたアブラハムの出立を対置し、故郷に帰ろうともしない「離散」ユダヤ人の覚悟を表わした。その意味で彼は、ハイデガーに対しても、シオニズムに対しても、その「故郷主義」を、共通のものとして非難していることになる。

★ 故郷とは、アドルノにとって少なくとも哲学的には、重要な意味を持つものではない。しかし、強いてそれを特定しようとすれば、それは空間よりは時間の中に、フロイトの考え方、本来の自然としての「幼年時代」、つまり先に『キルケゴール論』の末尾で編まれた「イノセントなエロス」の想起のうちにあったと言えるだろうか。

★ ディアスポラの人にとって「美しい仮象」である帰郷への夢が、実在のレベルで現実化され、土地所有(領土要求)と「法の力」(合理的暴力)の独占体としての国家単位の政治目標となる時、「故郷をめぐる闘争」は、その国家が社会主義であれ民主主義であれ、あるいはシオニズムであれ、民族主義であれ、果てしない泥沼の中で循環することになろう。

★ おそらく、「故郷主義」が「善悪の彼岸」に優先して言いたてられるところでは、カントが期待したような「永遠の平和」は、永遠に訪れないだろう。故郷概念を脱神話化して、言語的にも、それを聖化する卑俗な俗語のレベルから救い出す時に、「哲学とは真理への郷愁である」という、先に引いたノヴァーリスの言葉は、はじめてその真率な光を放つことになろう。

<徳永恂『現代思想の断層』(岩波新書2009)>