Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

国民投票

2011-06-13 23:08:33 | 日記


<伊反原発派、勝利の見通し 福島事故後、初の国民投票>東京新聞 2011年6月13日 22時09分

 【ローマ共同】原発再開の是非を問い、12、13の両日行われたイタリアの国民投票は13日午後3時(日本時間同10時)から即日開票された。3月の福島第1原発事故後、原発をめぐる国民投票が行われるのは世界で初めて。ANSA通信によると、投票成立に必要な50%超の投票率について、マローニ内相は「超すとみられる」と明言。福島の事故を受け国内では反原発世論が高まっており、成立すれば反原発派の勝利が確実視されている。

 ベルルスコーニ首相は13日、投票終了前の記者会見で「イタリアは原発にさよならを言わなければならないだろう」と述べた。内務省は投票集計を管理している。

 欧州では既にドイツ、スイスが将来の原発停止を決めており、主要国(G8)の一員で欧州の大国イタリアでも反原発派が勝利すれば、日本を含めた世界的な脱原発の動きが進む可能性がある。

 イタリアは旧ソ連のチェルノブイリ原発事故を受けて1987年の国民投票で原発廃止を決め、全国4カ所にあった原発は90年までに稼働を停止。しかしベルルスコーニ政権はエネルギー需要の8割以上を輸入に頼ることから、新規建設を含む原発再開を表明。





<イタリア、脱原発を選択=福島事故後で初、9割超が反対―国民投票>時事通信 6月13日(月)23時14分配信

 【ジュネーブ時事】原子力発電所を持たないイタリアで13日、過去に全廃した原発の復活の是非を問う国民投票が即日開票され、成立条件である50%超を大幅に上回る投票率に達し、復活拒否が決まった。反対票は94%を超え、国民の圧倒的多数が脱原発を支持した。

 福島第1原発事故後に国民の審判で原発反対を選択したのは同国が初めて。政府が目指す将来の原発新設計画は白紙撤回される。

 イタリアのANSA通信によると、ベルルスコーニ首相は同日、「イタリアは原発を放棄し、再生可能エネルギーに依存する判断を下すだろう」と発言。政府の計画が国民に事実上、否決されたとの認識を示した。

 イタリア内務省によると、最終的な投票率は57.0%。国民投票の成立に必要な50%超を大きく上回り、国民の関心の高さが浮き彫りになった。






原発事故3カ月

2011-06-12 14:51:21 | 日記


“毎日jp”で<原発事故3カ月>という記事を見た。

この事故の事実関係が錯綜し、“わずか3ヶ月”であっても、ぼくの頭も混乱している。

比較的よくまとまっていると思われるので、貼り付ける;


<収束見えず(1)「レベル7」まで1カ月>

 東京電力福島第1原発の事故からまもなく3カ月。収束に向けた懸命の復旧作業は、大量の高濃度放射性汚染水や、爆発で飛散した放射性のがれきに阻まれ難航している。複数の原子炉が世界最悪の「レベル7」の深刻な状態に陥るという前代未聞の事態に政府や東電はどう対応したのか。混乱の3カ月を振り返る。
 ◇過小評価、すべてが後手
 「チェルノブイリ事故に匹敵する、あるいは超えるかもしれない事故になったことを重く受け止めている」
 震災から1カ月以上たった4月12日午前、東京・内幸町の東京電力本店。松本純一原子力・立地本部長代理は会見で述べた。この日政府は1~3号機の事故を、原子力施設事故の深刻度を示す国際評価尺度(INES)で最も深刻なレベル7(暫定)に相当すると発表。レベル7は、史上最悪と言われた86年のチェルノブイリ原発事故(旧ソ連)しか前例がない。
 日本ではそれまで、JCO臨界事故(99年、作業員2人が死亡)が「レベル4=施設外への大きなリスクを伴わない事故」で最悪だった。福島第1の事故で外界に放出された放射性物質は同日現在で37万~63万テラベクレル(ベクレルは放射線を出す能力の単位、テラは1兆)と推定され、「数万テラベクレル相当の放出がある場合」と定義されるレベル7の要件を満たしていた(その後63万~77万テラベクレルに上方修正)。
 1カ月後の決定に「遅すぎる」と批判の声が上がった。世界の核関連活動を監視する米シンクタンク、科学・国際安全保障研究所(ISIS)は、地震直後から立て続けに起きた水素爆発を受け、3月15日の時点で「状況は相当悪化した」として、「レベル7に達する可能性もある」と指摘していた。福島県内の原乳やホウレンソウ、東京都の水道水から規制値を超える放射性物質が検出され、放射能汚染への不安が列島に広がった。
 一方、3月12日時点の政府の認識はレベル4。18日にレベル5に引き上げたが、レベル7の判断までさらに3週間を要した。内閣府原子力安全委員会の委員は「放射性物質の拡散予測結果がまとまった3月23日の時点で、レベル7に該当する可能性が高いと分かっていた」と発言。だがその認識を外部に伝えず、政府内の連携不足も露呈した。
 事態を過小評価したために、有効な対策が打てず時間を浪費し、深刻化を招いた--。海外メディアの追及に枝野幸男官房長官は「政府は大量放出を前提に対応してきた」と弁明した。
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 □レベル7
 国際原子力機関(IAEA)が定めた世界共通の事故尺度「国際評価尺度」は0~7の8段階で、レベル7は最も深刻な事故であることを示す。「極めて少量」の放射性物質放出を伴う事故はレベル3、従業員の致死量の被ばくを伴う事故はレベル4(JCO臨界事故はレベル4)。米スリーマイル島原発事故はレベル5。レベル7は福島第1の今回の事故と、チェルノブイリ原発事故だけ。


<収束見えず(2)「炉心溶融」まで2カ月>

 地震から2カ月あまり経過した5月15日。東電は、1号機の核燃料の大半がどろどろに溶けて原子炉圧力容器の底にたまる「メルトダウン(炉心溶融)」状態にあるとの見方を初めて明らかにした。2、3号機についても24日、同様の状態と認めた。
 地震発生初期の運転操作記録などを基に、1~3号機の炉心の状態を事故解析プログラムで推定した。津波で冷却機能を失った結果、1号機は3月11日午後7時ごろ▽2号機は14日午後8時ごろ▽3号機は13日午前9時ごろ--に燃料棒の損傷が始まった、という。
 それまで東電は、燃料の一部損傷は認めていたが、大半は健全との想定で対策を講じていた。その代表例が、格納容器を水で満たす「冠水」(水棺)だ。
 非常用の炉心冷却システムが機能不全に陥った1~3号機では、外部から注水して燃料を冷やす方法が続けられた。だが蒸発分を差し引いても、圧力容器の水位が思うように上昇しない。冠水は、燃料棒が水の上に露出し続ける事態を防ぐため、圧力容器ごと水に沈めて冷やす窮余の策だった。
 しかし現実には、燃料はもはや棒の形状を保っておらず、容器の底にたまっていた。冠水は不要どころか、注いだ水が格納容器から漏れ出し、大量の放射性汚染水になった。東電は5月17日になって冠水断念を表明した。
 3月下旬には米国の専門家らが「原子炉が冷却機能を失って3時間半後には大半の燃料が溶融した」とのシミュレーション結果を国際原子力機関(IAEA)に提出している。国内の専門家もメルトダウンの可能性を繰り返し指摘していた。
 事故直後に起きていた現象を確認するまで2カ月。松本本部長代理は「当初は注水作業に全力を挙げていたので(余裕がなかった)」と弁明。「解析に必要なデータがそろったのは5月に入ってからだった」とも説明した。初期対応のまずさは、後々まで響いた。
 奈良林直・北海道大教授(原子炉工学)は「結果論だが、11日の夜が勝負だった」と指摘する。津波などで原発内が混乱し、原子炉を冷やす作業が結果的に遅れた。
 「今回、事故の教訓を一番引き出せるのは、3月11日になぜ(作業の)空白ができたのか、さらに12、13日までの3日間をしっかり調べて明らかにすることだ」

 □メルトダウン
 原子炉内の冷却水が減って燃料棒が露出した結果、過熱により溶けて破損する状態を「炉心溶融」と呼ぶ。炉心すべてが溶け、原子炉圧力容器の底にたまる状態をメルトダウンと呼ぶが、専門家による明確な定義はない。圧力容器の底が破れて格納容器内に落ちると、より深刻な水蒸気爆発を起こす恐れがある。


<収束見えず(3)「冠水」徒労で大量汚染水>

 事故収束に向けた大きな障害の一つが、放射性物質に汚染された大量の水だ。原子炉建屋とタービン建屋の地下や建屋外のトンネルに滞留している汚染水は、5月末現在で10万5100立方メートル(1~4号機と集中廃棄物処理施設)。標準的な50メートルプール(長さ50メートル、幅20メートル、深さ1・5メートル)約70個分に及ぶ。なぜこのような事態に陥ったのか。
 福島第1原発のような沸騰水型軽水炉では、原子炉内で核分裂反応を起こして水を沸騰させ、約280度の蒸気でタービンを回転させ、発電する。蒸気は復水器で冷やされて水に戻った後、再び原子炉へ送られる。トラブルで原子炉内の水がなくなれば、熱を発し続ける燃料棒は過熱し、溶け始める。大半の燃料が溶けて「棒」の形を維持できず圧力容器の底にたまる現象が、いわゆる「メルトダウン(炉心溶融)」だ。
 これを防ぐために、原子炉には非常時でも水を供給して燃料棒を冷やす仕組み(緊急炉心冷却装置=ECCS)が備えられている。ところが今回、津波で電源が失われ、ECCSが作動しなかった。そこで、強制的に外部から大量の水を注ぎ込み、原子炉を冷やすことになった。
 だが、空だきを続けるやかんに手探りで水をかけるような作業は容易ではない。さらに、圧力容器の底や格納容器に開いているとみられる穴から水がもれ、汚染水は増え続ける一方だ。1日の注水量は計500立方メートル。熱による蒸発もあるため全部が汚染水になるわけではないが、浄化処理が必要な汚染水は年末までに約25万立方メートルに達すると東電は予測する。
 4月には、高濃度汚染水の貯蔵場所を確保するため、比較的低レベルの汚染水1万400立方メートルを海へ放出した。この際、事前の説明がなかったことから、漁業関係者や周辺自治体から批判を浴びる事態になった。
 原子炉を安定させるには、少なくとも、300度近い原子炉内の温度を100度未満まで下げる必要がある。東電は当初、格納容器を水で満たす「冠水」(水棺)という方法を選んだが、その後、格納容器に穴があることが分かり、5月中旬、断念に追い込まれた。
 汚染水を増やさず冷却する方法として編み出されたのが「循環注水冷却システム」だ。汚染水をくみ上げ、放射性物質を除去した後、原子炉内に戻して冷やす。これなら、格納容器から水が漏れ出しても、再びくみ上げて再利用できる。
 この浄化作業は、6月中旬にもスタートする。各号機の汚染水をいったん、集中廃棄物処理施設へ移送。米キュリオン社製のセシウム吸着装置と、仏アレバ社製の攪拌(かくはん)・沈殿装置で浄化し、再び原子炉へ戻す計画だ。
 懸念は、浄化システムが予定通り稼働できなかった場合だ。汚染水が増え続けて行き場を失い、梅雨の降雨も加わって外にあふれ出す恐れがある。
 東電が6月2日、保安院に提出した汚染水の保管・処理計画には、最悪の場合6月中旬にも、汚染水が漏れ出す恐れがあるとの予測が盛り込まれた。4月には2号機、5月には3号機から高濃度の汚染水計770立方メートルが期せずして海中に流出しており、同じ失敗は許されない。また、浄化作業で生まれる大量の放射性物質をどう処理するかも今後の課題だ。
 最終的に、格納容器の穴をふさぐ必要もある。東電は漏れている場所を把握し密閉できる工法を模索している。だが、仮に漏えい箇所が特定できても、周辺は高い放射線量と考えられ、作業員による修復には困難が予想される。


<収束見えず(4)不信呼ぶ情報公開>

 ◇「実は注水を中断していなかった」
 猫の目のように変わる事実関係、発表者によって食い違う説明、データの公表遅れ--。事故後3カ月間の情報公開は「悪い見本」のオンパレードだった。
 事実関係が二転三転し、責任をめぐって国会を巻き込む騒動になった1号機への「海水注入問題」が決着を見たきっかけは、吉田昌郎(まさお)・福島第1原発所長の「実は注水を中断していなかった」という一言だった。この事実は本店さえ知らされておらず、東電内部のガバナンス(統治)の未熟さを浮き彫りにした。
 吉田所長は、事実を明かした理由について「新聞や国会等で議論になって話題になっているので、もう一回よく考えてみた。IAEAの調査団も来ているし、事故の評価・解析は正しい事実に基づいて行われるべきだ」と本店に対して話したという。しかし、5月20日に本店が「海水注入が55分間中断した」と発表してから、真実が明らかになる26日までの約1週間、多くの時間が空費された。統合対策室事務局長の細野豪志・首相補佐官は同日の会見で「正確に国民に情報を伝えられず大変残念だ」と苦り切った。
 ◇「通常と異なる過程で建屋の上方が開放された。言葉として爆発だった」
 現場、東電本店、政府、首相官邸。連携不足は国民にとって、公開される情報そのものへの不信にもつながっている。
 1号機で水素爆発が起きた3月12日。原子炉建屋上部が吹き飛ぶ様子を民放テレビが繰り返し放映する中、官邸が事実を把握したのは発生の2時間10分後。当の東電は「通常と異なる過程で原子炉建屋の上方が開放された。言葉として爆発だった」と、要領を得ない説明を繰り返した。
 事故の深刻さを裏付けるデータの公表をめぐっても、計算間違いや勘違いによる訂正がたびたび発生。避難指示に直結する、放射性物質の拡散予測システム「SPEEDI」の結果公表に時間がかかったのをはじめ、原発周辺の大気中の放射線量など重要な未公表データが2カ月以上たって公表される例も相次ぐ。
 政府は4月25日、原発事故に関する情報公開の新しい試みとして「統合会見」を始めた。それまで▽官邸▽経済産業省原子力安全・保安院▽東電本店▽内閣府原子力安全委員会が個別に行っていた情報発信を「政治主導」でまとめる狙いがあった。
 開催は原則として平日夕方。10種類以上の資料が提供され、最長で5時間を超えた日もある。初日、「原則としてすべての情報を公開する。私を信じてほしい」「テーマごとに一元化した情報を発信し、正確性を期したい」と胸を張った細野補佐官自身が「管轄外なので」と言葉を濁す場面も多く、菅内閣への不信任案が採決された6月2日は中止になるなど政局にも左右される。準備に多くの時間を費やす保安院などからは「かえって非効率になった気がする」と不満の声も漏れる。
 菅直人首相は5月26日、仏ドービルで開かれたG8サミット(主要国首脳会議)で「最大限の透明性をもってすべての情報を国際社会に提供する」と約束した。だが、情報そのものの正確さに疑問符がつく現状は、第三者機関「事故調査・検証委員会」(畑村洋太郎委員長)の真相解明に影響しかねない。
 田島泰彦・上智大教授(メディア法)は「国民の安全のために知らせるべきことを知らせる、そのことに責任を負うという考え方や組織的枠組みが共有されていない。都合の悪い情報は流さないメカニズムが二重三重に働いているのではないか」と批判する。統合会見についても「(関係者間で発言が食い違うなど)ほころびを隠す管理のための発想。事態が深刻化する可能性を念頭に、ありのままの情報を提供すべきだ」と話す。
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 □原子力安全規制
 原子力施設の設置計画や運転を安全の視点からチェックする機関は、経済産業省原子力安全・保安院と内閣府の原子力安全委員会(常勤委員5人)。両者が「原子力安全の番人」としてダブルチェック機能を担うが、保安院は原子力政策を推進する経産省の一部局で、その独立性が問題視されている。安全委員会は政府から依頼された案件に助言する「諮問機関」のため、活動に限界がある。


<収束見えず(5)復旧長期化、作業環境の改善難航>

 東京電力は4月17日、収束に向けた工程表を公表した。7月中旬をゴールとする「ステップ1」は、6月上旬でちょうど中間地点となる。原子炉の冷却を目指し、放射線量を着実に減少させるという目標はどの程度達成されているのか。
 原子炉を最小限の注水で冷やすという目標は、高濃度の放射性汚染水をこれ以上増やさないため。1、2号機の注水量が毎時5立方メートル、3号機は11・5立方メートル。わずかずつだが減少傾向にある。
 5月17日の見直しで盛り込まれた「作業環境の改善」は難航している。1号機では6月4日、原子炉建屋内で事故後最高値の4000ミリシーベルトという高い線量が測定された。2号機は原子炉建屋の損傷が少なかった分、空気がこもって高温多湿となり、人による作業の見通しが立たない。一方、地震直後に3、4号機の中央制御室で働いていた社員2人の累積被ばく量が600ミリシーベルト以上の可能性が浮上。事故対応のため緊急に引き上げた年間上限(250ミリシーベルト)を初めて超えた。作業の長期化が避けられない中、被ばく管理のずさんさが影響しそうだ。
 水素爆発を防ぐための窒素注入は、1号機では続行中だが、2、3号機は建屋内での作業が難しく注入準備ができない状況。汚染水の再利用も、今月中旬に予定する浄化処理システム稼働を待って1号機で始まる見通しだが、2、3号機は未定だ。
 使用済み核燃料プールの冷却は比較的順調だ。「熱交換器を備えた循環冷却装置の設置」がステップ2から前倒しされ、2号機では5月31日に稼働。水温が2日間で約30度下がった。1、3、4号機でも設置工事中で、6月下旬から7月にかけて完成を目指す。
 復旧作業の妨げとなっているがれき撤去は、無人重機などを使って進む。これまでコンテナ300個分を回収した。
 工程表はステップ1終了後、ステップ2に移行。遅くとも来年1月までに、放射線量を大幅に抑え、原子炉を冷温停止状態に持ち込むことが目標だ。東電、政府とも「ゴールの時期は守る」と強調しているが、発表から1カ月で1~3号機の炉心溶融が判明、冠水作業を断念するなど不測の事態も起きており、今後も予断を許さない状況が続く。
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 ◆各号機の汚染水の推定量◆
1号機        1万6200立方メートル
2号機        2万4600立方メートル
3号機        2万8100立方メートル
4号機        2万2900立方メートル
集中廃棄物処理施設  1万3300立方メートル
計         10万5100立方メートル
 (5月末現在、東電集計)
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 □冷温停止
 健全な原子炉では、原子炉内の水温が100度未満を維持し、燃料が安定して冷やされている制御可能な状態。福島第1の事故では東電が「9カ月後の冷温停止を目指す」としているが、燃料が本来の形状を維持していないなど異常事態になっており、政府が事故時の定義を検討している。


<収束見えず(6)東電は社内議論怠った>

 ◇元福島第1原発所長(日本原子力産業協会理事長)服部拓也氏(66)
 事故収束には、政府、東電、現地対策本部の3者が一体となって取り組まなければならないが、当初から懸念されているコミュニケーション不足や信頼関係の欠如が解決されたとは言いがたい。政府内も官邸、経済産業省、内閣府原子力安全委員会などがバラバラ。政府は「原子力との戦争」に臨んでいるとの自覚を持ち、一体となって取り組めるよう努めるべきだ。
 コミュニケーション不足が最も顕著に表れたのが、1号機への海水注入をめぐる問題だ。当初は「55分間海水注入が中断された」と発表され、結果的に現場の所長が注入を継続していたことを明らかにした。3者の間で「伝言ゲーム」が繰り広げられたことが混乱につながったのではないか。所長の判断は当然であり、もし私が所長でも同じ判断をしただろう。
 もちろん、東電に大きな責任があることは変わらない。全電源喪失がどれほどの異常事態なのかという認識が社内で共有されていれば、水素爆発を回避できた可能性もある。東電幹部に「原子力の問題は社内の専門家に任せておけばいい」との安直な雰囲気があったのではないか。日常の作業に追われ、安全の根本について社内で議論することも怠っていた。情報公開の姿勢も極めてずさんだった。
 国や電力会社、メーカーなどのいわゆる「原子力ムラ」の体質が事故の一因になった面もある。ムラは長年固定メンバーで構成され、津波などのリスクを警告する外部の意見を黙殺してきたことは否定できない。
 工程表では、来年1月までに冷温停止を目指すとの目標を示したが、実現のために循環注水冷却システムの確立を急がなければならない。長期的には炉心や使用済み核燃料プールの燃料を取り出して保管する必要もあり、10年単位の視野で取り組む覚悟も必要になるだろう。
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 ■人物略歴
 70年、東大大学院修了。同年東京電力入社。原子力計画部長などを経て00~02年、福島第1原発所長。副社長などを歴任し、07年から現職


<収束見えず(7止)収束待たず被災者補償を>

 ◇福島県大熊町長・渡辺利綱氏(63)
 3月11日を境に、町は180度変わった。全町民が避難を求められる日が来るとは想像もしなかった。
 事故直後、国からは「念のための一時避難」という説明を受けた。5日もたてば家に帰れるだろうと、多くの人が着の身着のまま逃げた。それから3カ月。原発の安全性を過信していたと痛感している。
 多くの地方自治体が財政難や過疎化に悩む中、大熊町は恵まれてきた。原発立地による経済的な恩恵を町民に還元することを政策の柱とし、町民からも「住みやすい町」と評価されていた。約1万1500人の人口に占める14歳以下の割合は県内で最も高く、世代のバランスが良い町だった。
 それが今は福島県会津若松市に4200人、同県いわき市に1000人が避難。ほかにも4700人が北海道から沖縄まで、全国各地(の避難先)でお世話になっている。今後はどれだけの人が町に戻って来てくれるのかが、大きな課題だ。
 原発の「安全神話」は崩れた。1~4号機の廃炉も決まった。大熊町は原発立地町としてマイナスのイメージを強く持たれてしまったが、それを払拭(ふっしょく)するために、原子力の蓄積を復興に生かすことができないか考えている。将来的には、核技術を使った産業や放射線医学、新エネルギーに関する企業や研究所などを誘致したい。
 私自身、今回の震災で生活も考え方も変わった。避難生活を体験し、人の情を知った。負けてはいられない。この逆境をバネに復興するのが、支援を下さった方々への恩返しだと思っている。
 東電や政府には、とにかく一刻も早く事故を収束していただくよう望んでいる。被災者への補償も、事故収束を待たず、スピード感を持ってきめ細かく対応してもらいたい。
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 ■人物略歴
 宮城県農業短大を卒業後、家業の農家を継ぐ。91年11月、町議選で初当選。07年9月から町長(1期目)






旅の本

2011-06-11 19:36:38 | 日記


★ 1977年7月17日(日曜日)
朝から素晴らしい天気である。
今日、小生60歳の誕生日である。
その予定にして来たこととはいえ、思えば妙なところで誕生日を迎えたものである。
ここは北スペイン、カンタブリア海に面したアストゥリア地方のアンドリンという村である。
<堀田善衛『スペイン430日』(ちくま文庫1989)>


★ 現代の秘境、たとえばヒマラヤの高峰や、南極大陸や、あるいは、月の裏面さえも、ナイル河の水源の秘密ほど人の心をかきたてはしなかった。
<アラン・ムアヘッド『白ナイル』(筑摩叢書1970)>


★ 私はイスタンブールの岸壁に立っていた。
海が匂う。
暗い海の方から吹いてくる冬の風が岸壁の路面を這いまわって脚をとらえ、つむじを巻くようにしてゆっくりと体を吹き上げてくる。
風には夜の街の匂いがあった。
<藤原新也『全東洋街道』(集英社文庫1982)>


★ パンテオンのまえにゆるやかな坂になっている大通りがあるが、それがスーフロ大通りで、坂をおりたところがリュクサンブール公園、右へ折れるとサン・ミッシェル大通りである。これもゆるやかな坂になっているが、書店、料理店、香水店、キャフェなどが並び、赤、金、黒などが輝き、女子学生たちのまなざしはすばやくて痛烈であり、大学生たちはしばしば刺すような眼をしてコーヒー茶碗のふちで倦んでいる。
<開高健『眼ある花々』(中公文庫1975)>


★ トルコ中部アナトリア高原のカッパドキア地方。一世紀末頃から少しずつキリスト教の修道士や隠者たちがその奇岩の洞窟に住み始めた、と写真には説明がついていたが、いまは無人のまま岩に穿たれた洞窟の入口が髑髏の口のようだ。どんな人たちがこの奇怪な岩に棲みつき、不毛そのものの地を生きて死んだのだろう。何を考え、何を祈り、何を待ったのだろう。ヘレニズム世界の崩壊の地鳴りの中で。
<日野啓三『遥かなるものの呼ぶ声』(中公文庫2001)>


★ 薄暮のダッカ駅周辺をさまよい歩いていた。
天から降り地からも噴き湧いてくるような、褐色の人の群れと、リキシャ(自転車で引く人力車)の洪水にはじかれ、おびえながら。
<辺見庸『もの食う人びと』(角川文庫1997)>


★ 風がはげしく船体に吹きつけ、波しぶきが波止場のうえに霧になって散った。風は狭い波止場の路地をぬけ、作業員の身体をかすめ、女たちの洋服をはためかして、うねった尻の線を裸のように浮かびあがらせた。
<辻邦生『海そして変容』(河出文庫1984)>


★ 「住居なき者さえ棲まうことのできる時間」が、背後にどんな住まいも残してこなかった旅人には、館となる。三週間というもの、波の音に充たされたこの館の広間の数々が、北方に向かって並び連なっていった。それらの広間の壁に鴎や町々が、花たちが、家具や彫像が立ち現われ、その窓からは、昼も夜も、光が射し込んできた。
<ヴァルター・ベンヤミン“北方の海”(ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション3 1997)>


★ 私はアフリカに農園を持っていた。ンゴング丘陵のふもとに。この高地の百マイル北を赤道が横切り、農園は海抜六千フィートを越える位置にあった。昼間は太陽の近くまで登ったような気がするが、明けがたと夕暮れは涼しくやすらかで、そして夜は冷えびえとしていた。
<アイザック・ディネーセン『アフリカの日々』(晶文社1981)>


★ 寒い日だった。ガイドブックを頼りに地下鉄のハイゲート駅まで行ったのだが、広大な墓地の入り口が分らなかった。通りかかった地元の人に「マルクスの墓はどこですか?」と尋ねても首をかしげているので、有名な哲学者だと言葉を継ぐと、「ああ、あのユーゴスラビアかどこかの・・・・・・」という答えが返って来た。かの有名なマルクスも、ここでは数多い亡命者たちの一人に過ぎないということのようだった。
<徐京植『ディアスポラ紀行』(岩波新書2005)>


★ こうして彼は、新幹線“こだま”で日本に帰った。東京駅で降りると、何より先に公衆電話を探した。
<矢作俊彦『ららら科学の子』(文春文庫2006)>


★ <吉野>に入ったのは夜だった。吉野の山は、闇の中に浮いてあった。吉野の宿をさがして、車を走らせる。道路わきの闇に、丈高い草が密生している。その丈高い草がセイタカアワダチソウなる、根に他の植物を枯らす毒を持つ草だと気づいたのは、吉野の町中をウロウロと車を走らせてしばらく過ってからだった。車のライトを向けると、黄色の、今を盛りとつけた花は、あわあわと影を作ってゆれる。私は車から降りる。その花粉アレルギーをひき起こすという花に鼻をつけ、においをかぎ、花を手でもみしだく。物語の土地<吉野>でその草の花を手にしている。
<中上健次「吉野」― 『紀州』(小学館文庫1999)>


★ 私はロゾー川の谷間を進んでゆく。山々はもうすぐそばに迫っている。丘の斜面の間隔が、しだいに狭くなってゆく。風景は異様なまでの清澄さだ。鉱物的、金属的な風景である。水たまりのような影を地面に落として立っている、深緑色の珍しい木々。それから、より鮮やかな緑を帯び、力強く輝いている、小振りの椰子やアロエやサボテンなど、棘のある葉を持つ灌木。
<ル・クレジオ『ロドリゲス島への旅』(朝日出版社1988)>


★ ときおり、男の部屋で女が一夜を過ごせることがある。夜明けまえ、市内三つのミナレットで祈りが始まり、二人を目覚めさせる。南カイロと女の家のあいだには、インディゴ市場がある。男と女はそこを通る。一つのミナレットの呼びかけに、別のミナレットが応え、美しい信仰の歌が矢のように空気中を飛び交う。だが、歩いていく二人には、自分たちのことを噂し合っているように聞こえる。炭と麻の匂いが漂いはじめ、冷たい朝の空気の奥行きが増した。聖なる町を二人の罪人が歩いていく。
<オンダーチェ『イギリス人の患者』 (新潮文庫1999)>


★ この古いホテルでは、バスルームが部屋とほとんど同じくらい大きい。バスルームの中もやはりむしむしと暑かったが、幸い床が大理石でできていた。脚がライオンの足になっている浴槽の中でシャワーを浴び、体が乾くまでわざと拭かないようにし、少しでも涼気が感じられるよう、裸足のまんま、わたしはスーツケースに手荷物を詰めはじめた。
<スタニスワフ・レム『枯草熱』(国書刊行会2005)>


★ 朝の光が濃い影をつくっていた。影の先がいましがた降り立ったばかりの駅を囲う鉄柵にかかっていた。体と共に影が微かに動くのを見て、胸をつかれたように顔を上げた。鉄柵の脇に緑の葉を繁らせ白いつぼみをつけた木があった。
<中上健次:『地の果て 至上の時』>








バルセロナ

2011-06-11 14:44:51 | 日記


昨日このブログでとりあげた、村上春樹発言の全文が今日出ている、その最初を引用;

☆ カタルーニャ国際賞の授賞式で、スピーチする作家の村上春樹さん=スペインのバルセロナで2011年6月9日、ロイター
 9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文は次の通り。(原文のまま)

 「非現実的な夢想家として」
 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。
 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
(以上引用、以下略)



この文章を読んだ、アンチ村上春樹派は、またいい気なことを言っていると歯軋りしたかもしれない。

ぼくもある意味では、“そう”である。

ぼくも、最近、“有名人”が、みな嫌いになりつつある(笑)

しかし、ここでぼくが書きたいのは、村上春樹とか有名人とかのことではなく、《もう少し深刻な話》でもない。


“バルセロナ”である。

それも、ガウディのことでもなく、《キスの話》の方である。

ぼくも、1988年に、初めての海外旅行としてバルセロナに行ったのである。

そこで、《たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めた》というようなことは、ない。
ぼくは、作家ではないので、《たくさんの女性の読者》もいないのであった。

けれども!

けれども、バルセロナの女性たちの解放性?は素晴らしかった。
つまりぼくのような無名の旅行者にも、“おしみない”笑顔を提供した。

ぼくと同じツアー参加者だった、E君も証言してくれるだろう(笑)

カメラを向けると、彼女たちは、ほんとうにうれしそうに“ぼく”を見つめた。
遠足?で来ている女子学生の集団は、ぼくらを彼女等に“まじえて”記念写真を撮らせた。

これらの、証拠写真が、“フィルム”写真であって、ここに貼り付けられないのが、残念である。

ぼくは“笑顔”と表記してきたが、観光バスの窓から、街角の女性をスナップすると、“彼女”は、しっかりとした瞳で、ぼくのカメラを見つめるのであった!


バルセロナにもういちど行きたい!(爆)

それとも、ここ(Japan)でなければ、どこへでも!





*画像は、バルセロナではなく、アルハンブラでした、念のため(笑)








丸山健二

2011-06-11 11:08:43 | 日記


丸山健二がツイッターをはじめたことを知った。

いまはじめて見た。

最初を読んで、良いと思った。
まだ全部読んでないが、はりつける。

ちょっと年上だが、丸山健二は、同世代であった(死んだ中上健次とともに)

順番は下から上へ;


maruyamakenji 丸山健二
 人をとことん駄目にしてしまう原因は、試練の数の少なさだ。あるいは、試練に挑もうとしない逃避癖だ。そして、その場凌ぎの癒しや、臭い感動のあれこれがほとんど利益目当てで氾濫する社会に取り込まれ、本物の慰安や本物の感激の味をすっかり忘れ、いや、一度も味わうことなく生きてきたせいだ。
3時間前

maruyamakenji 丸山健二
 自己の実力や能力というものを、それまでの経験や体験によってのみ推し量ってはならない。つまり、おのれをそう簡単に見くびってはならない。どん底の境遇に投げ込まれたことがなかったせいで、ただそれだけの理由で、安閑として暮らしてきた自分を弱いと勝手に決めつけているだけのことなのだ。
22時間前

maruyamakenji 丸山健二
 予想外の悲劇に見舞われたことで孤立感が深まり、他者の力に頼らざるを得ない状況に屈辱を覚えているうちに、それまではあれほど前向きだったおのれにすっかり自信が持てなくなり、もしかするとわが人生は哀れな結末に終わるのではないかという不安に苛まれる段になって初めて底力が発揮される。
6月9日

maruyamakenji 丸山健二
 神仏という名の、あり得べからざる存在に精神を麻痺させられてはならない。生命を超えた生命を持つと言われているかれらが人間を造ったのではない。人間の弱さと狡さがかれらを生み出したのだ。さもなければ、人類や他の生き物たちがこれほどまでに延々といたぶられつづけるわけがないではないか。
6月8日

maruyamakenji 丸山健二
 とことん嘆き悲しんでも、どんなに失望落胆しても、ときには死を選択したくなっても、最終的には自力のみが物を言う。他力は所詮他力でしかなく、踏み台にはなり得ても、しかし、再生復活へ向けての決断と決行は自力に頼るしかない。守護神は自身以外に存在しないことを肝に銘じておくべきだろう。
6月7日

maruyamakenji 丸山健二
 今、被災地の現場に来ている。女川町の真っ只中にわが身を置いている。天災の凄まじさにただただ圧倒されるばかりだ。しかし、最も恐ろしいと思ったことはこの悲惨な光景にたちまち自分の目が慣らされてしまうことだ。当事者でないことがこれほどまでに残酷な自分を生み出すとは思わなかった。
6月6日

maruyamakenji 丸山健二
 怒っている場合ではない、非難している場合ではないという、そんな意見に誤魔化されてはならない。怒るときにしっかりと怒っておかないことには、いつかまた必ずや襲いかかってくる悲劇に対処するための効果的な手段を生み出せないのだ。心底からの怒りこそが正義に裏打ちされた未来を差し招く。
6月6日

maruyamakenji 丸山健二
 八百長まみれの相撲を国技同然に扱う日本は、ある意味、国民性を見事に象徴していると言える。根回しという表現でもって和らげてはいるものの、そのやり口の実態はまさしく八百長以外の何ものでもなく、それはこの国のありとあらゆる分野において蔓延している、伝統的なペテン。そして、疲弊の元。
6月5日

maruyamakenji 丸山健二
 やみくもに国家を肯定し、一から十まで認めるという無思慮な姿勢は、幼稚なゆえに危険な偏愛であって、本当の愛国精神ではない。さまざまな不正や矛盾に対して義憤を覚えるということに端を発しているのが、まさにそれなのだ。ちなみに、「愛国主義は悪党ども最後の拠り所」という言葉をご存じか?
6月4日


maruyamakenji 丸山健二
 少年のような心を持った大人という表現を自慢として用いたがる、あまりに恥知らずな男の何と多いことか。そんな連中にかぎって、大人の男として振る舞わなくてはならない非常時にも相変わらず子どもをやっているのだ。その無責任さをまったく自覚することなく、父親面や責任者面を少しも改めない。
6月3日

maruyamakenji 丸山健二
 これ以上ひとつになるニッポンをやめようではないか。ひとつにまとまり過ぎた結果が、このざまなのだから。これからは、いい意味で、より積極的にばらばらになるほうがいい。この際、傲岸不遜の誹りを受ける覚悟で、どこまでも主我的な個人として生き、強者にからめ捕られる人生と手を切るべきだ。
6月2日

maruyamakenji 丸山健二
 人間らしい本質的な人間としての未来がこの国民の頭上に輝く可能性はあるのだろうか。そうした理想に一歩でも近づきたければ、各人が他者に頼ることなく自分自身を改革してゆくしかないのだ。つまり、強者にすがりつく生き方を根本から改め、おのれがおのれを助けることを学ばなくてはならない。
6月1日

maruyamakenji 丸山健二
 今でこそ何だが、初期や中期の自民党時代においては、暴力団の組長の襲名披露や葬儀などには大臣クラスの政治家の名前を堂々と記した花輪がずらりと並んでいたものだ。それを承知していながらマスコミはほとんど取り上げたことがなかった。企業も陰でそうした組織に助力を仰いでいた。さて、今は。
5月31日

maruyamakenji 丸山健二
 お国のためにぜひとも専門的な知識と知恵を拝借したいという声が政府から掛けられるたびに、待ってましたとばかりに喜々として集まる、お馴染みの民間人の面々。かれらにいったい何がやれるというのだろうか。その名声とやらにふさわしい活躍をし、見事な答えを出したことが一度でもあるだろうか。
5月30日

maruyamakenji 丸山健二
 さほど役に立つとは思えぬ知識のあれこれをぎっしりと頭に詰め込み、一流とされる大学を卒業し、憧れの高級官僚になり、同僚との仁義なき熾烈な闘争に明け暮れ、大企業や政治家の顔色を窺いながら美味い汁を吸い、国民を平気であざむき、天下りを繰り返して余生を充実させる、そんな人生って何だ。
5月29日

maruyamakenji 丸山健二
 いかに理想的な国家であろうと、結局は抑圧と隷従の関係で成り立っている。そして国民の九割九分か、それ以上の人々が被抑圧者としての生涯を終えてゆくのだ。かなり努力し、精いっぱい生きているつもりなのに、どうもぱっとした人生にならないことを、才能の欠如や不運のせいにしてはならない。
5月28日

maruyamakenji 丸山健二
 原発の恐ろしさは、自然災害の煽りを食らって事故を招くことだけではない。テロリストたちにはまさにもってこいの標的となる。よく訓練された数人と消音器付きの短機関銃と高性能爆薬さえあれば、ほとんど無防備に近いわが国の原発などものの数十分で破壊し、甚大な被害を与えることが可能だろう。
5月27日

maruyamakenji 丸山健二
 慣れは、改良や改善の最大の敵だ。欲深く、腹黒く、人を物扱いしてひと儲けをたくらみ、人を踏みつけていい思いをしようと連中は、そのことをよく承知し、悪用する。そして、いつのまにやらかれらの天下が再生されている。憤怒のすべてが正義と関係あるわけではないが、正義の必須条件ではある。
5月26日

maruyamakenji 丸山健二
 何回でも叫ぶ。「怒れ、ニッポン!」国民に怒って欲しくない輩は、頭を低くしたポーズをとりながら、怒りが持続力を失う時期を読み、それを待っている。諦めのため息を漏らす回数が増えてゆく頃合いを見計らっている。そして相手の顔色を窺いながら、手練手管を駆使して復活を果たすつもりなのだ。
5月25日

maruyamakenji 丸山健二
 真の教養とは、また、真の学識とは何かを問うとき、問題にすべきは権力や権威や名誉や金銭に断じて屈しない強靱な精神を育み、それをきちんと維持しているかどうかだ。そうしている者こそが本物の教養人であり、本物の学識者であり、本物の文化人であって、それ以外は世に害をなす寄生虫なのだ。
5月24日

maruyamakenji 丸山健二
 あくどい強者に騙された弱者といったポーズを気取るのはやめるがいい。あいつらをそこまでつけ上がらせ、のぼせ上がらせたのは、誰あらぬあなた自身なのだ。あいつらも卑劣ならば、あなたも負けず劣らず卑劣なのだ。そんなあなたがいくら怒っても、金目当ての憤怒としか受け止められないだろう。
5月23日

maruyamakenji 丸山健二
 あんなにこすっからい、地位を利用してあこぎな儲けを企む性根がはっきりと顔に出ている政治家をどうして選んだりするのか。その目は節穴なのか。そうではない。政治家を支えている人々もまた思わぬ余祿を当てにし、ちっぽけな欲が満たされることに期待して「汚れた一票」を平気で投じているのだ。
5月22日

maruyamakenji 丸山健二
 都会人は、おのれの内面を、とりわけ本能に限りなく近い感情を言葉や態度で巧みに隠す術を身につけている。それなしでは世渡りが不可能になるからだ。しかし、人口の少ない田舎においてそんな小細工は必要ない。感情も欲望もむき出しにすることができ、そこにいとも簡単に付け込まれてしまう。
5月21日

maruyamakenji 丸山健二
 地方の人々はどうしてああも簡単に原発などという危険極まりない怪物を受け容れてしまうのかという都会人たちの素朴な疑問は、田舎で暮らしたことのない者にはおそらく永遠の謎であろう。知性とか理性とかを全面に押し出してはとても生きられない、厳しい状況が幾世代も重ねられてきたせいなのだ。
5月20日

maruyamakenji 丸山健二
 暗い影を落としそうな、つまり、公害をもたらしそうな危険極まりない企業が地方にその拠点を構えたがるのは、ひたすら従う生き方のみで世渡りをしてきた癖の抜けきらない、目先の欲に釣られやすい、金銭的にも精神的にも貧しい住民の数の多さと、余っている土地が多いことに目を付けるからだ。
5月19日

maruyamakenji 丸山健二
 原発を受け容れた地元民は、ただ単に大企業のご威光とお上の権力と学者の権威にたぶらかされただけのお人好しなのか。まやかしの説明を真に受けてしまっただけの善人なのか。かれらに打算の心がまったくなかったと言えるのか。純粋な被害者として世間の同情を一身に集めるだけの立場にあるのか。
5月18日

maruyamakenji 丸山健二
 暴れたら手がつけられぬほど凶暴で、甚大で致命的な被害を及ぼす野獣なんぞを飼い、これは二重三重の頑丈な檻に閉じ込めてあるからまったく心配ないと言い張ってきた連中が、野に放たれたそいつが大怪獣と化して暴れまわっているのに、次はもっとしっかりした檻にするから大丈夫だとぬけぬけ言う。
5月17日

maruyamakenji 丸山健二
 せめて原発の是非について国民投票を! その町が賛成したからといって、その県が同意したからといって、原発の建設を認めるのはおかしい。いざというときの被害は日本中に、いや、世界中に深刻な影響を与えてしまうのだから。賛成に一票を投じた者も自分の町に建設が決まったときにはどうする?
5月16日

maruyamakenji 丸山健二
 原発はもうやめるべきだ。現在使用中の原発もやめるべきだ。それにしても、地熱による発電というかなり有効な道が残されていたにもかかわらず、どうしてこれほどまでに危険な原発の方向へと舵を切ったのか。原発が一基増えるたびに電気料金が値上げされてゆくことと深い関係があるのではないか。
5月15日

maruyamakenji 丸山健二
 泣いてごまかす日本人。泣かれたら許す日本人。このあまりに情けない、あまりに幼稚な国民性をどうにかしないかぎり、日の当たる場所に巣くっている悪党どもは永遠に栄えるであろう。そしてかれらを無意識に支えている大衆もまた永久に虐げられたままの人生を送る羽目に陥ってしまうであろう。
5月14日

maruyamakenji 丸山健二
 なぜ為政者たちはまともな人間ではないのか。それは権力の始まりからしてまともではないからだ。威張りくさることができる上に、楽をして驚くほど甘い汁が吸えるというふざけた立場に魅せられて集まってきた、泥棒同然のろくでもない性根の集団に、我々は国をまるごと預けてしまっているのだ。
5月13日

maruyamakenji 丸山健二
 芯から腐りきっている、あこぎな上にもあこぎな悪というものは、マンガや映画やテレビドラマや娯楽小説のなかに登場する、どこからどう見てもそれとわかるような存在ではない。また、社会の底辺にうごめくアウトローたちとも一線を画している。連中は社会の表側に、しかも堂々たる地位を占めている。
5月12日

maruyamakenji 丸山健二
 元通りの生活に戻したからといって、それでめでたしというわけにはゆかない。生き方そのものを変える方向で再スタートを切らなくては、大試練の意味がなかったことになってしまう。お上の言いなりになる事大主義を完全に退治し、独力の判断と決断と洞察力を身につけることが必要不可欠なのだ。
5月11日

maruyamakenji 丸山健二
 日本人は過剰に適応する。支配する側がそこまで要求していないにもかかわらず、それ以上に応えようとする。そのせいで先進国の仲間にどうにか加わることができたのだが、しかし、上の連中はその結果をおのれの実力によるものだという甚だしい勘違いをしている。不思議なことに、下もそう信じている。
5月10日

maruyamakenji 丸山健二
 ボランティアの真の精神が憐憫の情に源を発していることは周知の事実だ。しかし、もしも、とことん悲嘆にくれている罹災者たちにすり寄って、悲劇の感動ごっこを満喫しようという残酷な芝居に興じて酔い痴れているのだとしたら、かれらは自分自身の人生に感動を求めようとしない卑劣漢だ。
5月9日

maruyamakenji 丸山健二
 国家はひとつの悪だ。それも巨悪だ。その悪に比べたらやくざの悪など実にちっぽけなものでしかない。そして国家は抽象的存在ではなく、どこまでも具象的な実在である。要するに、ほんのひと握りの連中によって支配されているということだ。民主国家の神話なんぞにけっしてだまされてはならない。
5月8日

maruyamakenji 丸山健二
 それらしく見えればいい、それらしく振る舞えばいいという価値観が、それらしいだけの軽薄な輩をそれそのものに仕立て上げてしまっている。この国のありとあらゆる分野において、そのおかしな論理が罷り通り、ために、実力のない奴がその地位についている。国の底力がつかない所以がそこにある。
5月7日

maruyamakenji 丸山健二
 国民のためを心底から思って動いている政治家がただのひとりでもいると思うのか。かれらが高い理想と志のもとにあの地位をめざしたと思うのか。かれらを支持した選挙民がお人好しの間抜けだと思うのか。ちっぽけな欲に後押しされて一票を投じた結果が、強欲に蝕まれた輩に大きな権限を与えたのだ。
5月6日

maruyamakenji 丸山健二
 政治家どもの顔をとっくりと見るがいい。よくよく目を凝らして見るがいい。あれが国家を仕切れるほどの顔か。欲深いだけの間抜け面。幼稚なパフォーマンスが精いっぱいの、企業から金をくすね、税金をちょろまかし、あるいは、その地位に甘んじているばかりの無能力者の集団。選んだのは誰だ。
5月5日

maruyamakenji 丸山健二
 日本人には、世界的に見て希有なほど豊かな情緒が具わっている。しかし、その精神はお粗末なかぎりだ。精神とは、要するに自分だけの判断で決定する力を身につけていることだ。個としての、または孤としての力の有無こそが精神の基盤であり、それ抜きの感情だけではとても人間とは言えない。
5月4日

maruyamakenji 丸山健二
 飴と笞に弱いのは人の常だが、ここぞというところでそれを突っぱねられない者は知識人でも教養人でも文化人でもない。いや、人間でもなく、動物に堕してしまった人間もどきにすぎない。人には二種類ある。飴にも笞にも絶対に屈しない、真っ当な人間と、それ以外だ。
5月3日

maruyamakenji 丸山健二
 あの電力会社の会長や社長やその他の幹部たちの神妙な態度と顔つきの裏側に張りついている冷酷さと傲慢さは、さまざまな名目を悪用してさまざまな人々に金をつかませて国家をわが物にしたという自負と自信が支えになっているからだ。だから、口先だけの謝辞にとどめ、土下座にしても田舎芝居なのだ。
5月2日

maruyamakenji 丸山健二
 ひとつの大企業のボスがあこぎに稼ぎまくった贅沢に過ぎる資金をばら蒔くことで、政治家も役人も学者も報道陣も文化人も芸能人もがっちりと抑え込み、自分の言いなりに操れる木偶人形として利用し、国家の私物化を押し進めている。手の指で数えられるそいつらこそが元凶中の元凶なのだ。
5月1日

maruyamakenji 丸山健二
 どこのどいつがこの国を牛耳っているのか、この国を食い物にしているのかということが、今回の原発事故によって鮮明になった。これを契機に、国家が不特定多数のものであるという錯覚を捨てなければならない。国家はあくまで特定少数のものであり、その他はかれらの奴隷にすぎないのだ。
4月30日

maruyamakenji 丸山健二
 金と出世のために学者としての魂を平気で売り飛ばした、似非学者、御用学者、腐れ学者のオンパレードがテレビを連日賑わしている。この際、かれらの顔と、かれらしか用いないテレビの体質を胸に焼き付けておくがいい。そして、同種同根のコメンテーターや文化人や芸能人、その他の知名人たちも。
4月29日

maruyamakenji 丸山健二
 正義の怒りにつながらない悲しみは、ただの泣き寝入りでしかない。泣き寝入りは、一個の独立した人間の取るべき態度では断じてなく、この世に存在することの尊厳をみずから放棄した、羊のようにおとなしいだけの腰抜けの愚者の選択肢だ。 怒れ、ニッポン!
4月27日





読むこと、書くこと

2011-06-10 15:16:54 | 日記


★ 私は、なぜ、何のために、誰のために書いてきたのか。「ために」書いたとして、ほんとうにそれは「ために」なったのか。この本自体がいま私に厳しい問いをつきつける。

★ 考え続けること、書き続けることで、私たちは、壁の亀裂をさがし、そこから外に、できるなら誰かとともに、読む人びとともに、外に出ようとしている。たとえ壁は、牢獄の見える壁ではなく、空気のようにやわらかく私たちを包囲しているにすぎないとしても、空気のようであればあるほど、それは私たちの存在の毛穴にいたるまで浸透し、思考と身体を包囲している。

★ 私はジュネとともに多くの夢を見ることができたが、そのようにして私はジュネをただ裏切っているにすぎないのではないか。もちろんジュネへの忠実などありえないし、ジュネ自身の足跡が、私たちのあり方を許したことなどない。

★ ただ私たちは、狂信は問題外としても、あいまいな信をぶらさげてさえ生きているわけには行かない。何を、なぜ信じるのかはっきりさせるべきだし、はっきりしないなら信ずるのをやめるべきだ。これが続く限り、私たちはついに生にも、自由にもたどりつかないうちに、ただ惨憺たる状態を保存し、そしてある日確実に地上から消えていくだけだ。

★ ジュネが示したのは、これとはまったく逆の生き方なのだ。

<宇野邦一『ジャン・ジュネ 身振りと内在平面』後記(似文社2004)>



★ ジュネにとってパレスチナ(そしてブラック・パンサー)のあり方は、次々中断し、交代し、また反復されるエピソードや思索の不連続性そのものによって表現するしかないような何かである。一つ一つの挿話の切れめには、確かに意味の空白が生じるが、その空白こそが物語の対象なのだ。その空白で、不連続に見えるさまざまな断片が出会い、屈折した曲線を描く。

★ ジュネがパレスチナに発見したのは、西欧的な支配とはまったく異なる性的原理であり、異なる自己の形成なのだ。

★ もちろんこの闘いにさえも潜んでいた国家や支配の兆候から、ジュネは決して目を背けない。この本は一つの闘いの讃歌であると同時に葬送曲でもあるのだ。<革命>が決して生き延びないことをジュネは知っていた。

★ 現実の闘いと書くことの実践が、こんなふうに結合したのはおそらく前代未聞のことだ。

<宇野邦一“最後の本”=ジュネ『恋する虜』書評 ―『ジャン・ジュネ 身振りと内在平面』>





★ ・・・・・・現実とはとりわけ、私が決して定かに把握できないことの中にあり・・・・・・

<ジャン・ジュネ『恋する虜』>







“言い続ける”ことの貴重さ

2011-06-10 10:33:22 | 日記


村上春樹の発言が出ている。
ぼくが見たのは、時事通信と共同通信による。

いずれも短いコメントであるが、《日本人は核にノーと言い続けるべきだった》というメッセージは適切だと思えた。

ぼくは、ある時期、村上春樹の愛読者であり、近年、まったく逆の立場である。
そのことはDoblog以来何度も書いた。<注>

今度のこの発言についても“賛否両論”がでるのかもしれない。

そもそもこの<発言>自体が、ここで報道されている通りの“短い”ものであるかどうかも、わからない。

でもぼくにとっても、“この問題”に対する発言は、これで充分であると思える。

この<問題>は、こう言えばいいだけの問題である。



引用する;

<「核にノーと言い続けるべきだった」=カタルーニャ国際賞受賞の村上春樹氏>

 【パリ時事】スペイン北東部カタルーニャ自治州が文化や人文科学の分野で活躍した人に贈る第23回カタルーニャ国際賞が9日、作家の村上春樹氏に授与された。現地からの報道によると、村上氏はバルセロナで行われた授賞式のスピーチで福島第1原発の事故に触れ、「日本人は核にノーと言い続けるべきだった」と述べた。
 エウロパ通信によれば、村上氏はこの中で、福島の事故について「日本にとって2回目の核の悲劇だが、今回は誰かが原爆を落としたのではない」と指摘。「われわれは自分の手で間違いを犯し、国を破壊したのだ」と語った。(2011/06/10-09:16)



<核への「ノー」貫くべきだった 村上春樹氏がスピーチ>

 【バルセロナ共同】スペイン北東部のカタルーニャ自治州政府は9日、バルセロナの自治州政府庁舎で、今年のカタルーニャ国際賞を作家の村上春樹さんに授与した。村上さんはスピーチで、東日本大震災と福島第1原発事故に触れ、原爆の惨禍を経験した日本人は「核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」と述べた。
 「非現実的な夢想家として」と題したスピーチで、村上さんは福島第1原発事故を「(日本にとり)2度目の大きな核の被害」と表現。戦後日本の核に対する拒否感をゆがめたのは「効率」を優先する考えだとした
カタルーニャ国際賞は、人文科学分野で活躍した人物に送られる。




<注>

1992年に中上健次が死んだあと、いったいどの日本作家が、それ以上に“新しい”小説を書いたのか。

村上春樹も1980年代で終わっていた。

阿部和重?冗談ではない(笑)、青山真治のほうがましだ。

保坂和志?堀江敏幸? 読んだが、いやになった(笑)

むしろ『ロビンソン漂流記』や『ハックルベリィ・フィンの冒険』や『ツバメ号とアマゾン号』を読みたい。








<追記>

現在のぼくに関心があるのは、この“現在の日本”で、突出して多くの読者を持つ作家の発言が、その“多くの読者”に共有されるかどうかである。

過去に『ノルウェイの森』を大ベストセラーにし、現在『1Q84』を大ベストセラーにした作家の、この発言が、その本を読んだ“多数”によって支持されるか否か?

それは、作家の<責任>であると同時に、読者の<責任>である。

また、ある作家の発言を、支持するか否かは、その発言自体への理解であると同時に、その人が書いたものへの理解(読み)にかかわる。
その作家の存在(生き方)への理解にかかわり、それを読む“私”の生き方にかかわる。

ぼくはなにも“大層な”ことを言っていない。
しかしすくなくとも、“小説”は、たんなる暇つぶしの慰安ではなく、役に立たない“癒し”でもないはずである。


小説とか文学とかというジャンルではない。
ぼくは、文学や哲学や社会科学や自然科学とよばれ区画されるすべての言葉が、無効になることを恐れている。

そのとき、“すべて”は、宗教になる。

もし本に書かれた言葉が無効であり、生身で話された言葉が(言葉だけが)有効なら、ぼくはそれでも、よい。

ぼくは確信があって、本を読んでいるのではない。

ただ、ぼくの人生では、生身の言葉以上に本の言葉が重要だったのは、たんなる偶然である(それがぼくの資質=偏向=病気なら、それはそうでしかない)

だからむしろ、ぼくは、生身の言葉に、本という場所以外で出会うことを、ほんとうは望んできた。

しかし、たとえば、“原発に反対する”とか“核にノーを言う”という<言葉>は、本の中の言葉、テレビの中の言葉、新聞の中の言葉、ソーシャルネットの中の言葉であって、いつ生身の言葉になるのだろうか?

ぼくはツイッターで“つぶやく”有名人が、それらの自らの言葉を、新聞・雑誌にも書き、マイナーなテレビで発信し、講演・講義でも発言し、それらを結局<本>にするという、“あたりまえのこと”自体に大いなる不信を募らせている。

彼らの<生身の言葉>は、どこにあるのか?

どこにあるのか?


たとえば、<公共性>というような、難解な概念を持ち出すのか?

結局、<社会(関係-システム>)なのか?

古臭い<国家>が、またまたこの空虚=無意味をごまかすために称揚されるだけなのか(国旗国歌法)

ぼくらの生身が、生きる場所とは、この“旗や歌”で象徴される(象徴するものは他にもいるが;笑)、リアルを徹底的に排除するヴァーチャル空間でしかないのだろうか?

言葉は、この空虚(ヴァーチャル)を、補填(穴埋め)・強化するために存在するのだろうか?

それとも、それは、外の空気を吹き込ませることができるのだろうか。

傷口を満たすことができるのだろうか?

希望や自由も、言葉であった。
(希望や自由も、言葉である)






DEATH IS A LONELY BUSINESS

2011-06-09 17:16:24 | 日記


★ 雨ふりの夜で、私は後寄りの座席で本を読みふけり、甲高く吠える年老いた電車は、人影のない紙吹雪だらけの乗り換え駅から次の駅へと走っていた。私のほかには、節々の軋む木製の大きな車体があり、一番前で制御器の真鍮のハンドルをがちゃがちゃと操って、ブレーキをゆるめたり、必要に応じて警笛を鳴らしたりしている運転手がいるだけだ。

★ いや、もう一人、私の知らぬ間に、どこかで乗りこんできた男が通路の一番うしろにいた。

★ 四十もの座席にだれも座っていない、夜ふけのがらんとした電車では、どこに座ったらいいのか決めかねるとでもいうように。しかしやがて男が腰を下ろす音が聞こえ、それが私のすぐうしろの席だということは、男の匂いが野を越えてくる干潟の匂いのように押し寄せてきたので分った。それは着ているものの匂いと、大急ぎで呷った多量の酒の匂いだった。

★ 雨は激しくなっていた。大きな赤い電車は深夜の牧草地の拡がりを横切って突っ走り、窓を叩く雨のせいで野原の景色は見えなかった。カルヴァ・シティを通り抜けるときも映画の撮影所は見えず、だだっぴろい車体は振動して、床板は足の下できいんと鳴り、無人の座席はきいきい軋み、電車の警笛は金切り声を張り上げた。

★ 恐ろしい息がうしろから襲いかかり、声だけの男が叫んだ。「死ぬとき・・・・・・!」
警笛に妨害されて、男はもう一度言い直した。
「死ぬときは・・・・・・」
再び警笛。
「死ぬときは」とうしろの声が言った。「ひとりぼっちだ」

★ 「ああ、死ぬときは!」
電車はブレーキを軋ませて止まった。
どうした、と私は心の中で呟いた、最後まで言っちまえよ!
「ひとりぼっちだ!」と恐ろしい囁き声で男は言い、離れて行った。
うしろのドアの開く音が聞こえた。私はとうとう振り向いた。
車内に人の姿はなかった。男とその悩みは下りてしまった。

<レイ・ブラッドベリ『死ぬときはひとりぼっち』(文藝春秋2005)>





★ 誰もがひとりだ。星の渦巻く深淵で神の発した言葉が震えながら木霊となるように、交わす声は死に絶えた。船長が月へ。ストーンが流星群とともに。スティムスンがあっちへ。アプルゲイトが冥王星へ。スミスが、アンダーウッドが、生涯かけて思考の模様を織りつづけた万華鏡のなかの色とりどりのかけらたちが、ちりぢりに飛んでいく。

★ おれは?このホリスは?おれにもなにかできるだろうか?無為に送った最低の人生を償うようなことが、最後になにかできるだろうか?ひとつでいいから、意味のあることがしたい。長年溜めこんできた浅ましさを、自分では気づきもしなかった浅ましさを、拭い去るために。だが、ここにいるのは自分ひとりだ。意味のあることをしても、ひとりきりではしかたがない。意味がない。そうして、明日の夜には地球の大気圏に突入する。

★ ホリスはすさまじい速さで落ちていった。弾丸のように、小石のように、鉄塊のように。他人事みたいになにも感じず、悲しみも喜びもなく。なにもかもなくした今、ひとつだけ意味のあることがしたいと、その願いのみを抱いて。自分にしかわからなくても、なにか意味のあることがしたいと。

★ 田舎道を行く幼い男の子が空を見上げて叫んだ。「ママ、見て!ほら、流れ星!」
黄昏のイリノイの空を、白く尾を引く星が流れる。
「願い事を」と母親が言う。「消えないうちに」

<レイ・ブラッドベリ“万華鏡”(河出文庫・20世紀SF ① 1940年代)>







なぜ書くか

2011-06-09 01:27:19 | 日記


★ なぜものを書き始めたか、わからない。深い理由はわからないのだ。たぶんこうだった。最初に書くことの力を意識したのは、ドイツの女友達に絵葉書を送ったときだ。彼女は当時アメリカにいた。何を書いていいかわからないまま、私が書こうとしている表面は、ざらざらした白で、少し雪のように見え、この紙の表面は、監獄には当然存在しない雪を思い浮かべさせた。そこで何か語るかわりに、私は彼女に紙の質について書いたのだ。これがきっかけになって私は書きはじめた。それが動機だったわけではないが、とにかくこれで初めて私は自由を味わったのだ。

<ジュネ“マドレーヌ・ゴベイユとの対話”― 宇野邦一『ジュネの奇蹟』より>