★ 雨ふりの夜で、私は後寄りの座席で本を読みふけり、甲高く吠える年老いた電車は、人影のない紙吹雪だらけの乗り換え駅から次の駅へと走っていた。私のほかには、節々の軋む木製の大きな車体があり、一番前で制御器の真鍮のハンドルをがちゃがちゃと操って、ブレーキをゆるめたり、必要に応じて警笛を鳴らしたりしている運転手がいるだけだ。
★ いや、もう一人、私の知らぬ間に、どこかで乗りこんできた男が通路の一番うしろにいた。
★ 四十もの座席にだれも座っていない、夜ふけのがらんとした電車では、どこに座ったらいいのか決めかねるとでもいうように。しかしやがて男が腰を下ろす音が聞こえ、それが私のすぐうしろの席だということは、男の匂いが野を越えてくる干潟の匂いのように押し寄せてきたので分った。それは着ているものの匂いと、大急ぎで呷った多量の酒の匂いだった。
★ 雨は激しくなっていた。大きな赤い電車は深夜の牧草地の拡がりを横切って突っ走り、窓を叩く雨のせいで野原の景色は見えなかった。カルヴァ・シティを通り抜けるときも映画の撮影所は見えず、だだっぴろい車体は振動して、床板は足の下できいんと鳴り、無人の座席はきいきい軋み、電車の警笛は金切り声を張り上げた。
★ 恐ろしい息がうしろから襲いかかり、声だけの男が叫んだ。「死ぬとき・・・・・・!」
警笛に妨害されて、男はもう一度言い直した。
「死ぬときは・・・・・・」
再び警笛。
「死ぬときは」とうしろの声が言った。「ひとりぼっちだ」
★ 「ああ、死ぬときは!」
電車はブレーキを軋ませて止まった。
どうした、と私は心の中で呟いた、最後まで言っちまえよ!
「ひとりぼっちだ!」と恐ろしい囁き声で男は言い、離れて行った。
うしろのドアの開く音が聞こえた。私はとうとう振り向いた。
車内に人の姿はなかった。男とその悩みは下りてしまった。
<レイ・ブラッドベリ『死ぬときはひとりぼっち』(文藝春秋2005)>
★ 誰もがひとりだ。星の渦巻く深淵で神の発した言葉が震えながら木霊となるように、交わす声は死に絶えた。船長が月へ。ストーンが流星群とともに。スティムスンがあっちへ。アプルゲイトが冥王星へ。スミスが、アンダーウッドが、生涯かけて思考の模様を織りつづけた万華鏡のなかの色とりどりのかけらたちが、ちりぢりに飛んでいく。
★ おれは?このホリスは?おれにもなにかできるだろうか?無為に送った最低の人生を償うようなことが、最後になにかできるだろうか?ひとつでいいから、意味のあることがしたい。長年溜めこんできた浅ましさを、自分では気づきもしなかった浅ましさを、拭い去るために。だが、ここにいるのは自分ひとりだ。意味のあることをしても、ひとりきりではしかたがない。意味がない。そうして、明日の夜には地球の大気圏に突入する。
★ ホリスはすさまじい速さで落ちていった。弾丸のように、小石のように、鉄塊のように。他人事みたいになにも感じず、悲しみも喜びもなく。なにもかもなくした今、ひとつだけ意味のあることがしたいと、その願いのみを抱いて。自分にしかわからなくても、なにか意味のあることがしたいと。
★ 田舎道を行く幼い男の子が空を見上げて叫んだ。「ママ、見て!ほら、流れ星!」
黄昏のイリノイの空を、白く尾を引く星が流れる。
「願い事を」と母親が言う。「消えないうちに」
<レイ・ブラッドベリ“万華鏡”(河出文庫・20世紀SF ① 1940年代)>
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