Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

無神論者

2011-06-08 00:49:34 | 日記


★ コンゴの奥地にテレ湖という湖があって、そこにモケレ・ムベンベという恐竜がいるらしい。ピグミーの間で言い伝えられているし、コンゴの指導的生物学者が実際に目撃もしている。コンゴ版ネッシーなら誰でも見たいとは思う。だが、普通は思うだけで、やらない。厳しい入国制限のあるアフリカの社会主義国だし、入国許可を得るための手間と費用、そしてジャングルで待ち受けている危険の数々を考えると、普通は断念する。スポンサーがついて大探検隊でも組織できれば別だろうが、計画から実行まで、全財産をはたいて個人でやろうなどと考えるのは、オハンロンくらいのものだ。

★ オハンロンという人は無神論者だ。本書を読んでいると、死を――あるいは自分が消滅することを――とても恐れていることがわかる。そんな人がなぜ、とあらためて思うが、一方では、だからこそとも思う。ときどき、まだ自分が存在していることを強烈に確認する必要があるのかもしれない。知らぬ間の死、眠りながらの大往生などは、たぶんオハンロンの最も嫌うところだ。最後の最後まで「まだ生きている、まだ生きている」と確認しながら死にたい――いや、できれば死にたくない――口だろう。それには危険な探検に出て、四六時中苦しみつづけるほどいい方法はあるまい。

<土屋政雄“訳者あとがき”―レドモンド・オハンロン『コンゴ・ジャーニー』>








埃の色

2011-06-08 00:03:57 | 日記


★ 彼はほほえむ。すると、彼の顔の皺くちゃの皮膚の全体が笑い始める。妙な具合に。もちろん眼が笑うのだが、額も笑うのである(彼の容姿の全体が、彼のアトリエの灰色をしている)。おそらく共感によってだろう、彼は埃の色になったのだ。彼の歯が笑う――並びの悪い、これもやはり灰色の歯――その間を、風が通り抜ける。

<ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』>








2011-06-08 00:01:24 | 日記


★ 美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。だから、この芸術は、悲惨主義と呼ばれるものからは遠い。ジャコメッティの芸術は、私には、どんな物にさえあるこの秘密の傷を発見しようとしているように思われる、その傷が、それらの人や物を、光輝かせるように。

<ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』>







物たちへの敬意;顔の研究-F

2011-06-06 14:43:34 | 日記


★ 物たちに対する、何という敬意。どんな物にもその美しさがある。なぜなら、それは、存在すべき「唯一のもの」だから。それには、取り換えのきかないものがある。

★ ジャコメッティの芸術は、したがって、物たちの間に、ある社会的絆――人間とその分泌物――を樹立するような社会的芸術ではない。それはむしろ、高等な浮浪者たちの芸術、彼らを結びつけうるものが、すべての人、すべての物の孤独の承認であるほどに純粋な、浮浪者たちの芸術であるだろう。「私は独りだ」と物は言っているかにみえる、「したがって、あなたにはどうすることもできないある必然に捕らわれている。私は私がそうであるところのものでしかないのだから、私は破壊されえない。私がそうであるところのものである、保留なしにそうであるがゆえに、私の孤独はあなたの孤独を知るのである」。

<ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』(現代企画室1999)>






★ 彼女は最終列車に乗りそこねて駅の待合室で夜明かしすることがよくあるらしいが、そういう時ともすれば浮浪者然とした男が寄って来て「ねえさん、独りな?」と声をかけるそうである。「きっと精薄か何かに見えるのね」と彼女は嘆いてみせるが、彼女にはそういう独自なパーソナリティがある。

<渡辺京二“石牟礼道子の世界”―石牟礼道子『苦海浄土』解説(講談社文庫2004)>






ぜんぜんかんちがいしている人

2011-06-06 11:22:08 | 日記


しつこいが、昨日とりあげた茂木健一郎のツィートを再検討する。

なぜなら現在、こういう“柔軟な(やわらかい)”言い方が、多くの共感を得そうだから;


kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(7)国がだらしないとか、政治家がダメだとか、そういう言説を信用しない。「しっかりと保護してくれるはずだ」というパターナリズムに対する期待の裏返しに過ぎないからである。国だって政治家だって、しょせんは人間。あなたや私と同じように、不完全なのだ。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(8)子どもは、最初は親に頼るが、そのうち大きくなって、自分で生きるようになる。それから、親の面倒を見るようになる。日本人はいい加減に、パターナリズムの幻想から覚めて、自分の足で立つようになったらどうだろう。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(9)親が小さく見えた時、人はきっと大きく成長している。国が小さな、頼りなく、情けない存在に見えた時初めて、私たちは精神的に一人立ちできるんじゃないかな。国なんて、所詮そんなもんだよ。だって、不完全で弱い人間が集まってできている幻想に過ぎないんだから。
6月4日



いったいここで、何が言われているのか?

<国>と<わたしたち>の関係である。

このツィートの“結論”=《日本人は自分の足で立つべきだ》に、ぼくは賛成である。

しかしそのとき問われるのは、《国とわたしたちの関係》である。

つまり、ここで茂木健一郎が言っている《国》の定義は正しいか?

茂木氏はこう言っている;

A:国だって政治家だって、しょせんは人間。あなたや私と同じように、不完全なのだ。
B:国なんて、所詮そんなもんだよ。だって、不完全で弱い人間が集まってできている幻想に過ぎないんだから。


この“定義”は、ただしいか?

茂木氏は、国家は《幻想だ》と言う。

しかし同時に、国家は《不完全で弱い人間が集まってできている》と言う。


《不完全で弱い人間》というのは、幻想ではない。

それとも茂木氏にとっては、《不完全で弱い人間》というのも《幻想》なのか?

ここが重要なんです。

決定的に重要だ。

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の妻>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の子供>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の母>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の父>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の友人>なのか?

《不完全で弱い人間》というとき、その《人間》は、<私の同僚(同級生)>なのか?

ようするに、《不完全で弱い人間》は、<具体的な個人>なのか?

ぼくにとって、《不完全で弱い人間》は、“ぜったいに”、<具体的な個人>である。

《幻想》ではない。


ならば、その具体的な個人としての《弱い人間》が、《集まっているできている国家》は、幻想ではない。

だから、国家が《幻想》であるならば、国家というものが、《不完全で弱い人間の集まりではない》という論理的帰結がもたらされる。


ぼくは(ぼくも)、国家は幻想である、という立場である。

しかしその論拠は、上記のように、茂木健一郎とは、まったく逆である。

(国家は、《不完全で弱い人間の集まり》という具体的個人の集まりで“ない”から幻想である)

すなわち、ぼくが正しければ、茂木健一郎はまちがっている。

以上は、茂木氏が専門の“論理的思考にのって”展開した。

しかしいまぼくが目指しているのは、こういう“論理(脳科学的思考!)ゲーム”を超える<思考>である。






コンゴの占い師

2011-06-05 14:04:27 | 日記


★ 占い師はラリーから貝殻と札を受け取った。札を丁寧にわきに置き、貝殻を自分の貝殻に混ぜた。スナップをきかせた柔らかな手首の一捻り。マット上に転がる貝殻のパターンをじっと見つめながら、置き去りにされた子供のように体を前後に揺すりはじめた。

★ 「あなたは考えることが多すぎ」そう言う占い師の声は尻上りに高くなり、やがて耳障りなほどの甲高さになった。「心配事が多すぎて、一人では担いきれない」あっちの奥さんに、こっちの奥さん。問題だね。大きな問題だ。あんたの人生は挫折の連続だけど、そのたびに立ち直り、また歩いてきた」

★ ラリーが目を大きく見開いた。「そのとおりだ」と言った。「まず母が死んで、次に父。自分が病気になって、夫婦関係が崩壊。妻は出ていき、いま、カリフォルニアでアフリカ系の男と暮らしている。(・・・・・・)電話の声が、ハロー、パパと言った。娘です。今日は21歳の誕生日で、やっとパパへの電話を許されました・・・・・・。娘がいるなんて知らなかったよ。一度も会ったことがない。おれのただ一人の子。なのに、一度も遊んだことがない。育つところも見ていない。21年前、ガールフレンドと喧嘩した。酷いことを言い合って分かれた。おれはオックスフォードに行って、それきりだ。腹に子供がいるなんて、一言も聞いていなかった」

★ 三人は黙って床を見つめていた。タカラガイが一個、カメの甲羅に似た背を下にして私のブーツの横に転がり、腹側の細長い開口部をあっけらかんと見せていた。(・・・・・・)それにしても、この貝はどうやってコンゴくんだりまで来たのだろう。(・・・・・)たぶん13世紀、ダウ船でエジプトに運ばれ、アラブ商人の手から手へ渡りながらアフリカ北海岸を移動し、ラクダの背の鞍嚢に入ってサハラ砂漠を南下した。小さな王国をいくつも経て、ようやく中央アフリカにたどり着いた。いや、それともヨーロッパの奴隷船だったろうか。頭の中で数字が蚊のように飛び回りはじめた。1520年、ポルトガル人は奴隷一人につき6370個のタカラガイを払った。「ロクセンサンビャクナナジュウ」と蚊が羽音を立てた。「ロクセンサンビャクナナジュウ、ロクセンサンビャクナナジュウ・・・・・」

★ ラリーが激しく両手を突き上げ、その手で頭を抱えた。頭皮を剥ごうとしているように見えた。驚いたヤモリが横の壁を素早く走り、また止まった。足の指がツタの巻きひげのように細かった。ラリーは顔をしかめ、苦く笑った。「なのに、いま、おれはこのくそいまいましいコンゴなんかにいる」

★ 占い師は貝殻と二枚の札を拾い、袋に戻すと立ち上がった。私たちも立ち上がった。「あんたは勇気があるよ」占い師はラリーにそう言って、プラスチックの短冊でできたカーテンを左右に分けた。外の部屋とはこのカーテンで仕切られている。「あんたは自力で強くなった。勇気があるね。立派な男だ」そして、ラリーの腕に触れ、微笑みかけた。一瞬、疲れた目がぱっと輝き、占い師が若い娘に変身した。

<レイモンド・オハンロン『コンゴ・ジャニー』(新潮社2008)>





さらに、

マーク君が、ゴリラについて語る;
★ 「(・・・・・・)ここに来るのは、普段はゴリラばかりなんですよ。ゴリラの赤ん坊。森で狩をする連中が母ゴリラを殺すんです。肉にして、燻製にして、赤ん坊は村に連れて帰って、おもちゃ代わりに子供にくれてやる。だから、蹴られたり投げられたり、結局、殺されてしまいます。ごくまれに助かる運のいいのがいて、水・森林資源省の武装監視隊の手でここに送られてきます。(略)でも、だいたいだめですね。鉈で切りつけられていたり、背中に鉛の弾を受けていたり。下痢で脱水症状を起こしているのもいるし、餓えて土を掬っちゃ腹いっぱい詰め込んでるのもいます。十二指腸虫に、カビに、ありとあらゆる寄生虫・・・・・・。心理的にも繊細です。ゴリラって感受性が強くて、感情豊かなんですよ。目の前で母親が殺されるのを見たんじゃ、心理的ショックが大きくて、病気で死ななくても悲しみで死んでしまいます。生きる意志が萎えたら、餌も食べません。この2年間で27頭の赤ちゃんゴリラを預かりましたけど、まだ生きているのはほんの4頭ですよ」


ゴリラの“マニェ”に会う;
★ ゴリラの体の重さと固さ、胸の剛毛の強烈な臭いにどうしていいかわからず、私はとりあえず「いい子だね」と言ってみた。そして、両手を持ち上げ、眼前に盛り上がる筋肉を力いっぱい押した。だが、そんな抵抗は役に立たない。マニェは苦もなく体を寄せてくると、黒光りする皺だらけの顔を私の顔に近づけ、口を開けた。上顎の二本の犬歯が厭でも見えた。マーリンスパイクほども大きい。さらに、ピンクの洞窟と舌、臼歯に、唾に、牛の息にも負けない甘い臭い。マニェはそのまま私の耳を噛んだ。右の耳を噛み、律儀に左の耳を噛んだ。噛みながら唸りつづけ、その唸りは高さとテンポが微妙に変化して、まるで非常な早口で悲しい独り言を言っているように聞こえた。

<レイモンド・オハンロン『コンゴ・ジャニー』>






2011-06-05 12:13:45 | 日記


昨日の茂木健一郎連続ツィートです、下から上へ読んでね;

kenichiromogi 茂木健一郎
以上、「パターナリズム」(「父権主義」)についての連続ツイートでした。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(9)親が小さく見えた時、人はきっと大きく成長している。国が小さな、頼りなく、情けない存在に見えた時初めて、私たちは精神的に一人立ちできるんじゃないかな。国なんて、所詮そんなもんだよ。だって、不完全で弱い人間が集まってできている幻想に過ぎないんだから。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(8)子どもは、最初は親に頼るが、そのうち大きくなって、自分で生きるようになる。それから、親の面倒を見るようになる。日本人はいい加減に、パターナリズムの幻想から覚めて、自分の足で立つようになったらどうだろう。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(7)国がだらしないとか、政治家がダメだとか、そういう言説を信用しない。「しっかりと保護してくれるはずだ」というパターナリズムに対する期待の裏返しに過ぎないからである。国だって政治家だって、しょせんは人間。あなたや私と同じように、不完全なのだ。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(6)情報を隠蔽していた、というのもパターナリズムの裏返しである。隠蔽していたも何も、最初からたとえば英語圏にはその情報があったりする。言葉の壁を考慮しても、自分で情報を集めようとすれば、それはとっくに存在しているものだったりするのだ。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(5)「パターナリズム」が、日本で飛び交う言葉の背後に見え隠れする。大新聞が社説で「国はもっとしっかり」などと書くのも、その一例である。国はどうせ大したことをやってくれないんだから、自分たちでさっさとやるよ、という気持ちが、そこには感じられない。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(4)どうも、日本人は、国というものを何でもやってくれる親だと思っているところがある。だから、裏切られると怒る。わめく。なんでやってくれないんだ、と追及する。しかし、それは裏返すと、国が面倒を見てくれるはずだ、という期待があるということである。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(3)子どもは、親が何でもやってくれるものと思っている。その期待が裏切られると、地団駄踏んで泣いたりする。どうして買ってくれないんだよ〜! そのうち、親もまた人間であり、完璧ではなく、いろいろ欠点もあるのだということが見えてくる。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(2)TEDでは、組織や、肩書きがあればいい、などとは誰も思っていない。大切なのは、「広げるに値するアイデア」だけ。政府に期待だとか、補助金がどうのとか、そんなことを一人も言っていないのは、きわめて爽快であった。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(1)「広げるに値するアイデア」を議論する場として注目されているTED (http://www.ted.com/)に参加した時のこと。3日目くらいに気付いた。誰も、連邦政府に言及しないし、大組織の話もしない。みんな勝手にやっている。
6月4日

(以上引用)



これに対する内田樹の反応(下から上へ);

levinassien 内田樹
ですから、日本を冒しているのは「パターナリズム」ではなくて、実はinfantilism なんです。
6月4日

levinassien 内田樹
日本の「父」はアメリカです。安全保障も、領土問題も、国際条約も、隣国との外交も、すべて「父」の許諾なしには決定できないという事実を「そのまま」受け容れた人たちが政治家になり官僚になり文化人になりメディアの発信者になっている。
6月4日

levinassien 内田樹
それは「日本は主権国家ではない」という事実を「屈辱」として感じていた世代が社会の第一線から消えて、その事実を「自然」だと感じる世代がエスタブリッシュメントの中枢を占めるようになってから、意識の前景から消えたのだと思います。
6月4日

levinassien 内田樹
おはようございます。今日は神戸は洗濯日和です。シーツ洗っちゃお。昼から合気道のお稽古、明日の支度をしてから、夜は元町でフレンチなのであります。茂木さんがパターナリズムについて書いてますね。でも、日本人のパターナリズムが強化されたのは、やはりこの30年くらいじゃないかと思います。
6月4日

(以上引用)


“infantilism”を電子辞書ジーニアス英和でひいてみる;

“infantilism“ではのってない。

“infant”がある;
☆ 幼児、小児、乳児
☆ 児童、学童
☆ 未成年
☆ 動物の子
☆ 初心者、新米


だから“infant”の“ism”なんよ。



茂木健一郎=1962年生まれ
内田樹=1950年うまれ


ここで問題となっているのは、“パターナリズムpaternalism(父権主義)”らしい。

茂木が“父権主義”を言ったのに対して、内田が“幼児化”を対置した。

しかし、このような論議に、なにか<意味>があるんですか?


幼児は、<父>を批判して(否定して)大人になる。

ぼくにも、幼児たった頃は、ほぼ60年前にあった。

しかし、ぼくには、父はいなかった

父を前提として語るひとの論議は、ぼくには、無意味である。



世界が狭いひとたちの“気の利いたおしゃべり”には、うんざりだ。

結局、このひとたちも、<父権主義=権威主義=保守主義>にすぎない。


ぼくはもっとダイレクトに世界を読みたい。







日本国の“一定のメド”

2011-06-05 11:29:02 | 日記


“一定のメド”という表現は、ほんとうに日本語らしい日本語だと思った。

それなら、“日本国の一定のメド”とは、何時(いつ)なのか?

《苔のむすまで》

おそまつ。


でもそれなら、もうすでに“すべてに”苔はむしてしまった。






<参考:国歌>

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで