Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ただひとつの生命の形

2010-08-25 09:42:37 | 日記


★ 意識の真実はイマージュではない、正義の観念への漠然たる憧れではない。意識は、そこに含まれた現実的なもの、直接的なもの、明証的なものを伴う、一つの感情である。

★ それは存在の、自発的な、それ以上完全化しえない、変質させえない、そして何よりも不動な、認識である。純粋状態における知、分析や精神の行う分割などに還元することができない知である。意識のいくつかの形態があるのではない。ただ一つの形態があるだけなのだ。

★ 断じて言語がこの明証性を再建することはできまい、なぜなら言語は解釈であり、疎外であり、行動であるからだ。われわれが見抜かねばならぬものは、言語や行為の裏に、人間の事業(わざ)の裏に隠されている。到達点を知るためには、われわれは出発点に戻らねばならぬ。生の(なまの)現実と、純粋な現実の再獲得とのあいだには、言(ことば)の長い旅がある。



★ このもう一人の女、顔はやさしく、子供っぽく、眼はうるんで深みがあり、額は秀でて澄んでいる、この生きた女を、ぼくはぼくの世界の中に残しておくべきなのだろうか?彼女は目の前にいて、ぼくに話しかける、そしてぼくはその言うことに耳を傾ける。

★ ・・・・・・眉毛、まつ毛。弓なりの、しっかりした肩、男の肩でもなく、子供の肩でもない、女の肩だ。腹、ちょっと脂肪がつき、脆い感じで、ここを負傷すれば致命的、そして深くうがたれた、激しい、エロティックな臍、それは無邪気ではなく、まさに知の眼であるように思われる、時間と空間とを越えて、大いなる神秘の起源と結ばれている知の。・・・・・・純毛に覆われた恥骨。幅広く逞しい腿、それはたとえ何も踏まえずに横になって憩っているときでさえ、一つの世界を支えているように見えるほどだ。・・・・・・



★ なぜいつまでも、感情のうちに、個々別々の力、ときには矛盾し合いさえする力があるという見方にこだわるのか?いくつかの感情があるのではない。ただ一つの、生命の形があるだけ、それが多種多様な力にしたがってわれわれに顕示されるのだ。この形をこそ、われわれは再発見せねばならない。この形、無の反対物、眼の輝きの湾、光と火との河、それは絶え間なく、弱さなしに、こうして、人を導き、引っ張ってゆくのだ、死にいたるまで。

<ル・クレジオ“無限に中ぐらいのもの”―『物質的恍惚』(岩波文庫2010、原著1967)>





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