Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ぼろぼろ

2010-04-24 08:14:35 | 日記


いまこの国で“政治”の話をするのはとても気が滅入ることである(笑);

◆それにしても、である。政権党は政策の迷走に次ぐ迷走で野党第1党を助け、野党第1党は実力者の離脱に次ぐ離脱で政権党を助ける。麗しい互助精神に気が滅入る(今日読売編集手帳)

▼ ふらつく民主、立ち枯れる自民。2大政党のダメ比べほど国民に不幸なことはない。雨後のタケノコのような新党の多くも、さまよう失望票の受け皿にはなれまい。政権交代から7カ月を経てなお続く政治の冬。しゃんとするまでの過渡期、ならいいのだが(天声人語)


上記“引用”が、“なんの話”であるかは、ぼくより“みなさん”の方が詳しいであろう。

なんせ、ぼくはとっくに“ニッポンのセイジ”とやらに関心を失っているからである。

“マスゾエ”  ゲッ。
“イシハラ シンタロー”  オエッ。

ならばわが日本国のサンギョーはいかに?

日本ケイザイ新聞というシンブンが、今日の<社説>に掲げているのは、“3Dテレビの世界競争で負けぬために”である。

<3D>???

そんなスンバラシー“テクノロジー”があったんですか?!

“デジタル”だけじゃダメなんね。

ぼくが「アバター」を3Dで見損なったのは、“象徴的”であった。

ああ、セイジもギョウカイも、この程度なのね。

そもそも、なにをしようと、それをしているひとが、“そのテード”なら、“そのテード”の社会しかないワケである。

この場合、“それをしているひと”を“日本国民”と呼ぶ。
すなわちオロカなのは、セイジカやカンリョーやメディアやガッコのセンセイだけではないのである。

ワルイヤツは、ホンシツテキにオロカでも、ちゃんと“トクすることはしている”のであった。

オロカなモノ(ジョーホーを含む)を買うために、<奴隷労働>(疎外された労働ともいう)を続けるひとや、奴隷労働をしているひとのカネで養ってもらっているヒト、というのは、もっとオロカではないのだろうか!

昨日仕事のミーティングの関係で昼休みが1時間ずれて、1時過ぎに大衆食堂でランチとなったら、なんと、<そこのテレビ>に、田村 淳というひとが写っていた。
番組は<NHK>の模様であった。

ぼくはこの<有名人>の名は知っていたが、“見たことがなかった”のである。
それで“きわめて関心を持って見た”のである。
なんせ、“食堂”なんで、音声がよくきこえない。
が、このひとの顔(表情)は“大画面”なので、よく“鑑賞”できた。
まったく<知性>がないではないか!
なんか、気が弱そうな(自分がオトコであることに確信がなさそな)表情なのである。

“ああ、カワイソー”とでも、感じるべきか?

このひとも、還暦をすぎるまで、タケシやタモリやサンマやミノモンタのヨーに、ばか笑いのために、身を削り、からっぽのニンゲンになって、くたばるのだローか。

ゆるせないのは、この番組で、この田村 淳とかいうオトコが、小学生にナンタラコウタラと“講義”しているシーンである。
こんなバカに教育されたら、またバカが増えるだけである。

以上ぼくは、“田村 淳”の個人コーゲキをしているのでは、ない。

これは、現在の<メディア国家=日本>のありのままの姿なのである。

すなわち、バカがバカを産む、無限連鎖である。

このぼくが、“多少バカ”でも、許されてしまうのである。

やれデジタルだアイパッドだ3Dだと、テクノロジーをいくら売りつけても、いくらそれを買いまくっても、バカは死ぬまでなおらない。

問題は、テクノロジー=メディアではなく、<中身>だからである。


さて、きょうの<ぼく>は、『テヘランでロリータを読む』を読む。

あと2冊。
柄谷行人『トランスクリティーク』は、217Pから。
内田隆三『国土論』は、278Pから。







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