Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

トランスクリティーク

2010-02-16 00:07:02 | 日記


★ 私がトランスクリティークと呼ぶものは、倫理性と政治経済学の領域の間、カント的批判とマルクス的批判の間のtranscoding、つまり、カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む企てである。私がなそうとしたのは、カントとマルクスに共通する「批判(批評)」の意味を取り戻すことである。いうまでもなく、「批判」とは相手を非難することではなく、吟味であり、むしろ自己吟味である。

★ 彼(マルクス)は若い時に次のように書いた。《宗教批判の最後は、人間は人間とって最高の存在である、という教義である。つまり、人間が卑しめられ、奴隷の身分に落とされ、見捨てられ、蔑まれる存在としてあるような関係をすべて転覆せよ、という無条件の命令である》(『ヘーゲル法哲学批判序説』)。マルクスにとってコミュニズムは、カント的な「至上命令」、つまり、実践的(道徳的)な問題である。この点において、マルクスは終生変わっていない、のちに、それが実現されるべき歴史的物質的な条件を重視したとしても。

★ だが、多くのマルクス主義者は、こうした道徳性を馬鹿にし、歴史的必然や「科学的社会主義」を標榜したあげくに、まさに奴隷的な社会を「構成」してしまった。それは「理性の越権行為」以外のなにものでもない。もしコミュニズムへの不信が蔓延したとしたら、その「一切の不信の源泉」はこの種の独断論的マルクス主義者にあったといわねばならない。(略)しかし、その結果、コミュニズムを嘲笑することが「時代の好尚」となった今日において、別の、同様に「甚だしく独断論的」な思考が栄えている。また、知識人が「道徳への不信」を表明している間に、世界的に、文字通りさまざまな「宗教」が隆盛し始めた。われわれはそれを嗤うことはできない。

★ かくして、私は90年代に入って、特に考えが変わったわけではないが、スタンスが根本的に変わってきた。私は、理論は、たんに現状の批判的解明にとどまるのではなく、現実を変える何か積極的なものを提出しなければならない、と考えるようになった。同時に、そのことがいかに困難であるかをあらためて思い知った。(略)もちろん、グローバルな世界資本主義の進行のもとで、「現状を揚棄する現実の運動」が世界各地で不可避的に生じている。しかし、理論を軽視してはならない。理論、というより、トランスクリティカルな認識がなければ、過去の過誤を別のかたちで反復することになるだけだから。

★ 新たな実践はそれまでの理論を総体として検証することなくしてありえないのである。そして、その理論は必ずしも政治的なものに限らない。

★ 本書において、私はカントやマルクスについてちっぽけなあら捜しなど一切しなかった。あたうるかぎり彼らを「可能性の中心」において読もうとした。しかし、実は、ある意味でこれ以上に彼らを批判した本もないと思っている。


★ カントの哲学は超越論的――超越的と区別される――と呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。だが、哲学とはその始まり以来、そのような反省的態度ではなかっただろうか。そして、哲学とは、そのような反省によって誤謬や仮象を斥けることではなかっただろうか。では、どこにおいてカントが違っているのか。カント以前においては、仮象は感覚にもとづくものであり、それを正すのが理性であると考えられていた。しかるに、カントが問題にしたのは、理性自身の欲動によって生まれ、したがって、たんなる反省によってはとりのぞけないような仮象、すなわち、超越論的仮象である。だからカントの反省は、フロイトが哲学的反省に関して指摘したような表層的なものではありえない。フロイトの考えでは、「無意識」は、分析者と被分析者の関係、とりわけ、後者の抵抗においてのみ存在する。他者のない一人だけの内省では、このような無意識は開示されないのである。だが、むしろ主観性の哲学者と批判されてきたにもかかわらず、カントの反省には、「他者」が介在している。

<柄谷行人;『トランスクリティーク-カントとマルクス』(岩波・柄谷行人集3:2004)“序文~イントロダクション“>






最新の画像もっと見る

コメントを投稿