★ 寒い
寒い(笑)
★ 論争
君はぼくをこう批判したが、君の批判はここがおかしい。
と、
いろいろ自説を強化する論拠をのべる。
そのためにいろんな偉い学者の言説を引用する。
そういうことに、なにか意味があるのだろうか?
★ 真理と正義と倫理
“私は正しい”ということに、情熱を傾けるひとは、まだ元気なのである。
しかし“元気なひと”には、元気でないひとのことが、わからない。
★ 文章
とても悪いくせだが、ぼくの場合、そのひとの文章への好みは、論理展開には、ない。
もちろん論理展開が、めちゃくちゃ“だから”好きということではないが。
つまり、自分の論理展開に“こだわる”感性そのものが、きらいなのだ。<注>
★ 結局
ひとは、論理的に納得したいのだろうか。
けっきょく、この論理展開というのも、そのひとの好みなのだ。
つまり、ほとんどだれも<事実>とか、まして<真理>など求めていない。
ぼく自身も例外ではない。
ならば、なにを求めているのだろうか。
わからない。
ある幸福な状態なのだ。
それは、たぶんあらゆる<幸福の定義>とは、ちがったもの。
比喩的に言えば、陽だまりで、ぼーっとしているようなこと。
つまり“陽だまりでぼーっとしていても訪れない”ことなのだ。
★ パターン
生活も思考もパターンにおちってしまう。
趣味も、好みも、食欲も、消費衝動もパターンにおちる。
“わたしって悪い子なんだけど、ほんとは良い子なんだ”とか、
“わたしって良い子なんだが、ほんとは悪い子なんだ”とか、
言ってしまう(笑)
このパターンを、“安心”とか“安全”とか“経験”とか“成果”とか“大人”とか“諦観”とか“悟り”とか“信仰”とか“苦悩”とか言ってしまうひととは、たんに気があわない。
★ ヒューマニズム
ヒューマニズムとか、人間中心主義とか言っても、それを言う人の<人間>がちがうのだ。
つまり、そのひとが、これまでの人生でどういう人間に会い、その<ニンゲン>をどう認識したかで、ちがう。
なんども言っているように、<ニンゲンに会う>というのは、現実に会うということのみではない。
映画でも音楽でもアートでも会ったのだ。
その出会いは、限られているし、偶然でもあるのだから、自分の人間観が普遍的であるなどとは、けっして言えない。
けれども<普遍性>を志向する(思考する)科学や哲学というものがあるのだから、そういうものを<参考にする>のはわるくない。
けれども、そういう普遍性ではない特殊性(主観性)に徹底するひとというのもいるのだ。
それも面白い。
あるいは自分は普遍性をめざしていると思っても特殊性に突っこんだり、その逆であることもないともいえない。
★ ホテル
前にホテルが好きだ、と書いた。
<ホテル・フル・セックス>(爆)
ぼくは最近、“ホテル街”を歩いている(仕事場の近くだから)
しかし<そのホテル>に入ったことはない。
たぶん、死ぬまで入らない。
★ 課題
“ホモセクシュアル”について“研究”したい。
つまり<ホモ>の男には興味深いひとが多い(たとえばウィトゲンシュタイン、たとえばパゾリーニ)
もちろん“フーコーやジュネやバルトやプルースト”でも良い。
先日フランスから帰省した女性にそう言ったら(彼女は若いときジュネが好きでフランスに行ったらしい)、
《あなたは、どーなの?》と聞かれた。
彼女は“妻の友人”なのだ(爆)
ぼくはこういう“ストレート・クエスチョン”が好きだな。
その瞬間、空気が変わるような気がした(つまり幸福な瞬間)
ぼくはどう答えたか?
ひ・み・つ。
<注>;ここで使った<論理展開>という言葉について
これは、政治的・社会的・哲学的・論理学的・科学的・社会科学的な<論理展開>のみを意味しない。
“コンビニのお弁当のどれがうまいか”というようなブログにも適応している。
これからも更新頑張ってください。
<出会い>ってことに、こだわっていらっしゃるのでしょうか。
ぼくもある意味では、そうです。
よい出会いがあるといいですね。