Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Passing past darkly

2009-04-29 14:07:29 | 日記
いま煙草を買いに出たら、よい天気だった。
ぼくのマンションの周辺の桜並木は、つい先日の開花、散り敷く花びらの影もなく、その葉の陰が地面にまだら模様をつくっている。

ぼくは、これまでも、この地面のまだらを写真に撮ろうとしてきた。
しかし、いつもそれは、写らない。

“Passing past darkly”という言葉が浮かんだ。
それが小説のタイトルだったか、文章の一部だったか、歌の文句だったかも、わからない。

どう訳せばいいだろうか。
“darkly”には、“暗く、黒ずんで”以外に、“神秘的に”とか“陰険に”という意味もある。

しかしぼくが、この単語に感じるのは、“わるい意味”ではない。

つまり、さっきの木々の葉が、地面におとす影と陽射しの戯れのようなもの。

そのまだら模様。
それが、“past”である。
あるいは、それは、ぼくの“脳内”を思わせる。

“過去”とは、なんだろうか。
いつもひとは、過去を、今思うのである。

時間とか、記憶といった“テーマ系”がある。
“幻の10年”という有名なバンドの曲もあった、自殺したカルト系ミュージシャンが、死の直前に歌った“decade”という曲もあった。

しかしぼくの人生は、“10年”ではない。
その6倍もの時間が錯綜している、重層している。

たとえば、“西暦”を思い浮かべるべきだろうか。
1946、1960、1968、1989、1995、2001、2003、2009……

この“年”さえ、それを選ぶひとによって任意である。
その年が、世界的・国内的に重要な事件の年であったり、個人的に重要な年であることもある。
あるいは、その両者が錯綜した年もあった。

たとえば1989年は世界史的な転換の年だったが、その年、ぼくも転職して最後のサラリーマン生活の13年に入った、その年の暮れにひとりの叔父が死んだ。

2001年は、近年でだれもが言及する年であるが、その年、11月の末にぼくは母を亡くした。
下記ブログで、“勲章をもらった叔父”のことを書いて、またそのころを思い出した。

“Passing past darkly”

生きているひとより、死んでしまっているひとを愛しては、いけない(笑)

“きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない”

有名な小説の書き出しである。
だからぼくも、こう書くべきかもしれない。

“2001年11月29日にママンが死んだ。だがぼくはその死に立ち会っていない。ぼくは死んでいる母をみて、まだ生きていると誤解したのだ。もしかすると、まだ生きているかもしれないが、私にはわからない”

“Passing past darkly”

だが、だからぼくにとって、“past darkly”というのは、ただ単に“暗い”ものでは、ない。
だが、“神秘的”でも、ない。

昨日買った“本”。

マイルスとゴダールと中上健次。

《69年から74年までに流れた空気を、ある超克を生きるほかないその空気を、共有などとは言うまい、三者が三様の形を取ってそれぞれ生きてしまった事実》

《……という<ずれ>が横たわるにせよ、この三人が<似ている>と思えるのは、つまるところ私にとってかれらが、各々のジャンルにおける最終的な名前だからか?》

(青山真治『ホテル・クロニクルズ』2005)


“69年から74年”だって?

その時代に生まれてなかった人々が、たくさんいる(笑)
ぼくは“知っている”、ある超克を生きるほかないその空気を。

“マイルスとゴダールと中上健次”=“各々のジャンルにおける最終的な名前?”

こう書いている青山真治氏は、1964年生まれ、1969年には子供だったはずである。

しかし、彼がこの“時代”を(想像力のなかで)追体験するのは、よい。
それを自分の作品に、結実させるなら、なおよい。

“69年から74年”を体験したのに、なにも体験しなかったものも、たくさんいるのだ。

もちろん、時代と人の名は、有名人だけに結びつけられるのではない。

名と時代とその空気は、いまぼくのなかにある。

この陽射し、若葉のなかにある。

“Passing past darkly”


《きみに、情熱を教えよう》


ぼくの叔父さんが勲章をもらった

2009-04-29 11:58:11 | 日記
アサヒコムを見たら、次ぎのようなニュースがあった;

<もったいなくない マータイさん旭日大綬章 春の叙勲>2009年4月29日5時0分
政府は29日付で、春の叙勲受章者4068人と外国人叙勲の受章者70人を発表した。民間受章者は41%(1666人)、女性は8%(343人)で、いずれも昨年並みだった。受章者は省庁からの推薦がほとんどで、一般推薦による受章者は5人だった。
 旭日章は顕著な功績を上げた人、瑞宝章は公共的職務に長年従事した人が対象となる。旭日大綬章は、電通の社長、会長などを歴任した成田豊さん(79)、元連合会長の鷲尾悦也さん(70)ら7人が受章。瑞宝大綬章は元北大学長の丹保憲仁さん(76)と元駐ロシア大使の渡辺幸治さん(75)に贈られる。旭日中綬章には小説家の阿刀田高さん(74)ら、旭日小綬章には人形浄瑠璃文楽太夫の竹本綱大夫さん(77)、女優の2代目水谷八重子さん(70)らが選ばれた。
 外国人叙勲の受章者には、ノーベル平和賞受賞者で日本語の「もったいない」を世界に広めたケニアの環境保護活動家ワンガリ・マータイさん(69)が旭日大綬章に、第2次大戦の硫黄島での激戦を日米双方の視点から描いた映画監督クリント・イーストウッドさん(78)は旭日中綬章に選ばれた。
(以上引用)

ぼくは一般的には以下の疑問を提起したい;
① 国家が特定の人に勲章を与えるということ自体に、疑問がある
② その選考の基準(根拠)に疑問がある
③ この記事にあるように、“受章者は省庁からの推薦がほとんど”ならば、そのことに疑問がある
④ “民間受章者は41%(1666人)、女性は8%(343人)”であるならば、その比率の根拠に疑問がある
⑤ “旭日章は顕著な功績を上げた人、瑞宝章は公共的職務に長年従事した人”となっているが、“顕著な功績を上げた人”と“公共的職務に長年従事した人”というのは、何を意味し、その区別の根拠は何であるかに疑問がある。
⑥ 今回受章した、それぞれのひとの“業績”に疑問がある


つまり今回受賞した人々が、どんな“よいこと”をしたかを、ぼくはほとんど知らない。
見出しになっている“マータイさん”でさえ知らない。
“電通の社長、会長などを歴任した成田豊さん(79)、元連合会長の鷲尾悦也さん(70)、元北大学長の丹保憲仁さん(76)と元駐ロシア大使の渡辺幸治さん(75)”も知らない。

たぶん“電通”のひとなら、自民党等の選挙演出の功績が認められたのだろうと思うばかりである。
これはぼくの“無知”であるから、恥じるべきかもしれない。

ただし、上記記事の“名前”のなかにぼくのよく知っているひともいた。
クリント・イーストウッド氏である(笑)
ぼくは俳優としての彼は嫌いじゃなかったが、最近はテレビで彼の古い映画を見るだけでウンザリである、彼の監督作品も、最初は見ていたが、ウンザリである。
しかしこの人も、直接知っているわけではない。


ああ、直接知っているひとがいたのである(爆)

この人の写真が、上記アサヒコム記事にでかでかと出ているではないか。
ぼくより髪が(なぜか)まだあるが、ぼくはこのひとに似ているのである。

このひとの“受賞の喜び”まで記事になっている(サンケイ)、ちょっと引用;

《 原稿用紙に鉛筆書きのスタイルはずっと変わらない。「日ごろは無理をせず体を気遣い、徹夜はしない。いつも悠然としていたい」と朗らかに笑う。
 古今東西の文学に造詣が深いが、「美しい日本語」に対する愛着は人一倍強い。「言葉は明快で分かりやすく」が持論だ。文化庁の文化審議会会長なども歴任。「国語力を高めるのには、自分から進んで読書をする子供を育てることが大切」と訴え続けてきた。
 「若者のモノの言い方が単純になっているのが気がかり。日本語はもっとデリケートに使ってほしいですね」
 言論表現の自由をうたう「日本ペンクラブ」の会長に2年前に就任。海外との交流に力を入れ、日本文学への理解を求めてきた。来年秋には国際ペン大会を四半世紀ぶりに東京で開く。「欧米主導の組織の中でアジアの立場を主張し、ぜひ成功させたい」と言葉に力を込めた。
(以上引用)


ははははは、ハッ。

あ~あ。

みなさん、だまされちゃいけません。

このひとは、“いつも悠然としていたい”らしいです。

ぼくはこのひとが“悠然としていない”のを、子供の頃から見ていました。
しかし、そのことは“罪”では、ありません。
この人が、悠然とするために“努力した”ことも知っています。

この人は、自分の原稿の字が最初読みにくかった(ようするに字が下手)だったので、読みやすい字を書くよう努力したのです。
それにしても、まだパソコンをお使いではないのでしょうか。
ぼくの方は、あいかわらず人に読める字が書けないので(つまり努力しなかったので)、パソコンを使用しています。

このひとも「美しい日本語」に対する愛着が強く、“日本語はもっとデリケートに使ってほしい”のであり、“自分から進んで読書をする子供を育てることが大切”なんだそうです。
ぼくと同じ考えではありませんか!

やっぱ“わが家”の血なんでしょうか。
ところで、あなたのお子さんは、“自らすすんで読書”しているのでしょうか(爆)
最近お会いしてないので、トンとわかりません。

“読書”といえば、もう半世紀ちかく前、ぼくがお貸しした“異色作家短篇集”(ハヤカワ)を、あなたはなかなか返してくれなかった。
きっとあなたは、アレで勉強して、“作家”になったんでしょうね(笑)
ぼくの“ヒッチコック・マガジン”やハヤカワSFシリーズも見ていたね。

もちろん、ぼくはこんな過去のけち臭い“貸し”(あなたが完全に忘れている)を、言い立てるほど下品ではありません。

しかし、ひとこと言っておきたい。

あなたには“恩義”を感じるべきひとがいた。
あなたは、そのひとが死んだとき、その火葬に立ち会うことを(旅行の計画があるからと)躊躇した(結局参加したが)、ぼくは、あの時言ったはずだ、“そんなにお忙しいなら、いらしていただかなくて、結構です”と。


<注記>

上記ブログ記述で、今回受章された人が、親戚もしくは知人におられるかたが、不快な思いをされたなら、お許し願いたい。

ぼくは“国家による叙勲”自体を認めないが、今回叙勲された方々のなかに、立派な方がおられないということではない。

そういう方々の“喜び”に水を差したいわけではない。

上記ブログ後半の記述は、あくまで、ぼくの個人的な“つぶやき”である。

“個人的なつぶやき”をブログに書くべきではない、という立場も納得できる。

しかし、このブログは、“それを書く”ことによって、成り立っている。



<追記>

このニュースのGoogleでの分類は、“エンタメ”である。

なぜ“国家による叙勲”が、エンターテイメントである(エンタメでしかない)のであろうか?


我輩は猫じゃない

2009-04-29 07:34:56 | 日記

あいかわらず引用一発;

《◆〈少し人間より強いものが出て来ていじめてやらなくてはこの先どこまで増長するか分からない〉と。枯れ葉をお札に化けさせるような現代版の錬金術でつまずく国があったり、核とミサイルを独裁の道具に利用する国があったり、猫の心配もあながち的はずれではなかったろう》(今日、読売・編集手帳)


まず、“引用”である。

つまり、編集手帳とか天声人語は、昔の“文豪”とか“名歌”からやたらに引用している。
今日の天声人語は、福沢諭吉である。

しかし、こういう“引用”は、オリジナルな言葉を理解した上で、引用されているのだろうか。
自分が“引用”している対象への、真の敬意をもって引用しているのだろうか。

“真の敬意”というのは、“あがめたてまつる”ことでも“ダシにする”ことでもない。
むしろ“批判する”ことが、敬意である場合もある。

《猫の心配もあながち的はずれではなかったろう》
どころではない。

漱石は、(たぶん)、この編集手帳のような文章を書き続けるものの“増長”を、すでに直感していたのである。

《名前のない猫は知るまいが、人間もいくらかは賢くなっている。〈少し人間より強いもの〉の好きにさせるわけにはいかない》(今日、読売・編集手帳)

“名前のない猫は知るまいが、人間もいくらかは賢くなっている”

そうだろうか?

そうだろうか?そうだろうか?そうだろうか?


《▼思えば諭吉だけでなく、5千円札の一葉も千円札の英世も、金には縁遠い家に生まれた。だが、知っての通りの賢人ぞろいだ。政府の言う景気対策のための「賢い使い方」なるものを、国会論戦を眺めつつ雲上で吟味し合っているに違いない》(今日天声人語)

そうだろうか?

そうだろうか?そうだろうか?そうだろうか?


朝日のあたる家

2009-04-29 07:03:48 | 日記

このシーズンのこの時間、ぼくの部屋には朝日が差し込んでまぶしい。

自分に関心がないことをブログに書くというのは、矛盾である。
けれども、自分に関心がないことに、“世間”がおおさわぎしているとき、なぜぼくと“世間”とにはそれほどの“距離”があるのか(それほどの距離ができてしまったか)を考えるのは、無駄ではないかもしれない。
あるいは、自分に“関心がない”ことが、実は“関心をもつべきこと”を含んでいるかもしれない。

勘のよい読者は、すでにぼくがなにを書こうとしているかを、察しってしまったかもしれない(笑)

なにか漢字変換するのがむずかしい“タレント”の全裸騒動が、すでに忘れられる時、今朝のヤフー・ニュース・ランキングは次なる話題に集中している。

しかもこの“事件”については、天木直人ブログまで、“これは今世紀最大の言論封殺事件ではないか”という記事をあげて、以下のように書いた;

《北野誠事件は、単なる芸能ゴシップ問題ではない。権力と言論の自由、そして検察官僚の天下りが絡んだ、法と正義の危機の問題でもある。》

はぁー、“そういうこと”もあるのである。

ぼくには、天木氏がいうような、事実があるかどうかはわからない(天木氏ブログを読んでください)、つまり“ある”可能性もある。


ただ、ぼくにいえるのは、ぼくがどうしても、クサナギとかキタノとかいう人に、興味が“もてない”ということである。

“どうだっていいじゃん”と思う。
つまり、SMAPとか、キタノ(誠だろうが武)だろうが、ぼくには“つまらない”ひとなのである。

この世界には、生きているひとだけでたくさんのひとがいるわけである。
死んだ人を含めると、膨大である(笑)

なぜ、そういう人々のなかから、キタノとかSMAPというひとに、“特に関心をもつ”必要があるのだろうか。

今日のメディアは、ご丁寧に、北野誠というひとの“謝罪会見”の一問一答まで載せている。
ぼくも読んだが(笑)なにひとつ“おもしろい”ことは言っていない。

ぼくは、こういう無意味な言葉を読みたくはない。
あえて言えば、こういう言葉は、“ぼくの生き方の参考に”ならない。

“だから”、いつもいつもぼくが、不思議なのは、こういうタレントだか芸能人だか知らない“人種”の言葉を聞きたがる、“多数の人々”の方である。

ああ“多数の人々”。


昔の“知識人”が書いた言葉を思い出す;

《きみに、情熱を教えよう》