いま煙草を買いに出たら、よい天気だった。
ぼくのマンションの周辺の桜並木は、つい先日の開花、散り敷く花びらの影もなく、その葉の陰が地面にまだら模様をつくっている。
ぼくは、これまでも、この地面のまだらを写真に撮ろうとしてきた。
しかし、いつもそれは、写らない。
“Passing past darkly”という言葉が浮かんだ。
それが小説のタイトルだったか、文章の一部だったか、歌の文句だったかも、わからない。
どう訳せばいいだろうか。
“darkly”には、“暗く、黒ずんで”以外に、“神秘的に”とか“陰険に”という意味もある。
しかしぼくが、この単語に感じるのは、“わるい意味”ではない。
つまり、さっきの木々の葉が、地面におとす影と陽射しの戯れのようなもの。
そのまだら模様。
それが、“past”である。
あるいは、それは、ぼくの“脳内”を思わせる。
“過去”とは、なんだろうか。
いつもひとは、過去を、今思うのである。
時間とか、記憶といった“テーマ系”がある。
“幻の10年”という有名なバンドの曲もあった、自殺したカルト系ミュージシャンが、死の直前に歌った“decade”という曲もあった。
しかしぼくの人生は、“10年”ではない。
その6倍もの時間が錯綜している、重層している。
たとえば、“西暦”を思い浮かべるべきだろうか。
1946、1960、1968、1989、1995、2001、2003、2009……
この“年”さえ、それを選ぶひとによって任意である。
その年が、世界的・国内的に重要な事件の年であったり、個人的に重要な年であることもある。
あるいは、その両者が錯綜した年もあった。
たとえば1989年は世界史的な転換の年だったが、その年、ぼくも転職して最後のサラリーマン生活の13年に入った、その年の暮れにひとりの叔父が死んだ。
2001年は、近年でだれもが言及する年であるが、その年、11月の末にぼくは母を亡くした。
下記ブログで、“勲章をもらった叔父”のことを書いて、またそのころを思い出した。
“Passing past darkly”
生きているひとより、死んでしまっているひとを愛しては、いけない(笑)
“きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない”
有名な小説の書き出しである。
だからぼくも、こう書くべきかもしれない。
“2001年11月29日にママンが死んだ。だがぼくはその死に立ち会っていない。ぼくは死んでいる母をみて、まだ生きていると誤解したのだ。もしかすると、まだ生きているかもしれないが、私にはわからない”
“Passing past darkly”
だが、だからぼくにとって、“past darkly”というのは、ただ単に“暗い”ものでは、ない。
だが、“神秘的”でも、ない。
昨日買った“本”。
マイルスとゴダールと中上健次。
《69年から74年までに流れた空気を、ある超克を生きるほかないその空気を、共有などとは言うまい、三者が三様の形を取ってそれぞれ生きてしまった事実》
《……という<ずれ>が横たわるにせよ、この三人が<似ている>と思えるのは、つまるところ私にとってかれらが、各々のジャンルにおける最終的な名前だからか?》
(青山真治『ホテル・クロニクルズ』2005)
“69年から74年”だって?
その時代に生まれてなかった人々が、たくさんいる(笑)
ぼくは“知っている”、ある超克を生きるほかないその空気を。
“マイルスとゴダールと中上健次”=“各々のジャンルにおける最終的な名前?”
こう書いている青山真治氏は、1964年生まれ、1969年には子供だったはずである。
しかし、彼がこの“時代”を(想像力のなかで)追体験するのは、よい。
それを自分の作品に、結実させるなら、なおよい。
“69年から74年”を体験したのに、なにも体験しなかったものも、たくさんいるのだ。
もちろん、時代と人の名は、有名人だけに結びつけられるのではない。
名と時代とその空気は、いまぼくのなかにある。
この陽射し、若葉のなかにある。
“Passing past darkly”
《きみに、情熱を教えよう》
ぼくのマンションの周辺の桜並木は、つい先日の開花、散り敷く花びらの影もなく、その葉の陰が地面にまだら模様をつくっている。
ぼくは、これまでも、この地面のまだらを写真に撮ろうとしてきた。
しかし、いつもそれは、写らない。
“Passing past darkly”という言葉が浮かんだ。
それが小説のタイトルだったか、文章の一部だったか、歌の文句だったかも、わからない。
どう訳せばいいだろうか。
“darkly”には、“暗く、黒ずんで”以外に、“神秘的に”とか“陰険に”という意味もある。
しかしぼくが、この単語に感じるのは、“わるい意味”ではない。
つまり、さっきの木々の葉が、地面におとす影と陽射しの戯れのようなもの。
そのまだら模様。
それが、“past”である。
あるいは、それは、ぼくの“脳内”を思わせる。
“過去”とは、なんだろうか。
いつもひとは、過去を、今思うのである。
時間とか、記憶といった“テーマ系”がある。
“幻の10年”という有名なバンドの曲もあった、自殺したカルト系ミュージシャンが、死の直前に歌った“decade”という曲もあった。
しかしぼくの人生は、“10年”ではない。
その6倍もの時間が錯綜している、重層している。
たとえば、“西暦”を思い浮かべるべきだろうか。
1946、1960、1968、1989、1995、2001、2003、2009……
この“年”さえ、それを選ぶひとによって任意である。
その年が、世界的・国内的に重要な事件の年であったり、個人的に重要な年であることもある。
あるいは、その両者が錯綜した年もあった。
たとえば1989年は世界史的な転換の年だったが、その年、ぼくも転職して最後のサラリーマン生活の13年に入った、その年の暮れにひとりの叔父が死んだ。
2001年は、近年でだれもが言及する年であるが、その年、11月の末にぼくは母を亡くした。
下記ブログで、“勲章をもらった叔父”のことを書いて、またそのころを思い出した。
“Passing past darkly”
生きているひとより、死んでしまっているひとを愛しては、いけない(笑)
“きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない”
有名な小説の書き出しである。
だからぼくも、こう書くべきかもしれない。
“2001年11月29日にママンが死んだ。だがぼくはその死に立ち会っていない。ぼくは死んでいる母をみて、まだ生きていると誤解したのだ。もしかすると、まだ生きているかもしれないが、私にはわからない”
“Passing past darkly”
だが、だからぼくにとって、“past darkly”というのは、ただ単に“暗い”ものでは、ない。
だが、“神秘的”でも、ない。
昨日買った“本”。
マイルスとゴダールと中上健次。
《69年から74年までに流れた空気を、ある超克を生きるほかないその空気を、共有などとは言うまい、三者が三様の形を取ってそれぞれ生きてしまった事実》
《……という<ずれ>が横たわるにせよ、この三人が<似ている>と思えるのは、つまるところ私にとってかれらが、各々のジャンルにおける最終的な名前だからか?》
(青山真治『ホテル・クロニクルズ』2005)
“69年から74年”だって?
その時代に生まれてなかった人々が、たくさんいる(笑)
ぼくは“知っている”、ある超克を生きるほかないその空気を。
“マイルスとゴダールと中上健次”=“各々のジャンルにおける最終的な名前?”
こう書いている青山真治氏は、1964年生まれ、1969年には子供だったはずである。
しかし、彼がこの“時代”を(想像力のなかで)追体験するのは、よい。
それを自分の作品に、結実させるなら、なおよい。
“69年から74年”を体験したのに、なにも体験しなかったものも、たくさんいるのだ。
もちろん、時代と人の名は、有名人だけに結びつけられるのではない。
名と時代とその空気は、いまぼくのなかにある。
この陽射し、若葉のなかにある。
“Passing past darkly”
《きみに、情熱を教えよう》