Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

昔のブログ(Doblog)より

2009-04-13 23:42:25 | 日記

<明日は荒れ模様> 2005/01/14

アル(アルシンド):お勤めごくろうさま!

warmgun:なんも仕事しないのに疲れた。行って帰ってくるだけで。中村屋の肉まん買ったぜ。

アル:ほかほか食べよう、明日は荒れ模様だし。

warmgun:寒さがみにしみるなー。

アル:なんかまた弱気?

warmgun:世間の風が・・・・・・

アル:世間とほとんど無接触なくせに。

warmgun:そーぞーりょくのセケンよ。NHK問題も会長辞めて幕引きよね。なにがあっても誤魔化される。なーんも関心ないガキとなーんも問題にしない大人の世の中。洪水がきてんのにさ。

アル:そーゆーのペシミズムっていうんじゃん?個人的な初老性うつ病のくせに。なにがあっても笑ってると元気になるそうな。

warmgun:おまえのことか?熊には人間の悲哀はわからん。

アル:きみが気に入りそうなキャッチ思いついた。”強者はけなし、弱者をいたわろう!”

warmgun:たしかに今の日本ほど強者がけなされない国はないな。有名になったら勝ち。勝ったらよっぽどのことがないかぎり、ずっと安泰。

アル:むかし”悪いやつほどよく眠る”って映画あったね。まあ悪と善とは相対的だというような考えが流行なんね。ぼくも嘘つきだからみんなの嘘も許しましょうとね。

warmugun:正義はきっと勝つ。寒いな。唇寒し。

アル:きみの妻もブログ始めた。暗いことばっかいってると’訪問者数’抜かれるぜ。


<このブログへのコメント>

[ アルシンド ] [2005/01/14 22:09]
今、warmgunブログのアクセス44、妻ブログ40。
今日の勝負はいかに!

ぼくひまなの。



<センチメンタルな旅:あなた自身を発信せよ> 2005/01/08

昨日横浜美術館に”マルセル・デュシャンと20世紀美術”展を見に行った。

それならばデュシャンについて彼の周辺のアーティストやシュルレアリスムについて、彼に影響を受けた人々について書くべきだろうか。
ぼくが実物に触れた感想を?

あるいは常設展示されていた伊藤彬の墨と木炭による”イメージの中の山水”という作品の前でおもわずたたずんでしまったことを。モノクロの質感で表現されたこの作品は’山水’というより、ぼくたちの’無意識’の現れのように思えたと。
そしてそのイメージと直前にみた’日曜大工’的デュシャンの作品とそのタイトルのレトリック的遊びの’差異’について。

この展覧会は開幕したばかりだが、平日でもあり場内は空いていた。
そしてなによりも、この美術館のある’空間’。
’みなとみらい’ははじめてだった。近年出現した空間の同じ空気。空虚な。

昨日の’みなとみらい’行きはぼくには独自の意味があった。
ぼくが最後に勤めていた会社が東急東横線にあった。
退職以来ほぼ2年、ぼくはこの電車にのっていない。
渋谷駅で切符を買うとき戸惑った。’桜木町’という駅があると思っていたのにない。通勤時は自由が丘より前で降り、先まで行くことがほとんどなかった。また東横線も’みなとみらい線’に接続したのだ。
毎日’自動的’に通っていた改札口で当惑したのだ。電車に乗り女子学生に確認、快速なのでぼくが通勤で降りていた駅は知らないうちに過ぎた。

この路線をぐちゃぐちゃな心を抱えて通った。ある日それは突然中断された。
毎日いちばん’リアル’であるものが消えた。その頃、毎日昼食を共にした’同僚’は去年の夏亡くなった。
特別なことじゃない。だから’センチメンタルな旅’。

’日常’とはこのようなものだ、誰にとっても。そしてこの中でぼくたちは日々’きれぎれの感想’を抱いて生きる。その’思い’を他者に発信すべきだろうか。その’思い’を誰に発信すべきだろうか?

個人の’きれぎれの感想‘からしか、’思想’は生まれない。



<ヴァーチャルな日常=現実> 2005/01/16

ぼくはなぜ写真を撮るか?
撮らないとなにも見ないからだ。

たとえばこの水たまり。
平凡な道路の平凡な水たまりに平凡なある日の雲がうつる。
かつて幾度もこの水たまりはこのように雲をうつし、これからも(多分)うつし続けるだろう。ぼくが死んだ後も。

水たまりには、幼児の記憶が重なる。
ぼくの幼年期は貧しかったが、庭のある家があった。ぼくは一人っ子だったので、その庭で’自作自演’のお話を組み立てて遊んだ。雨上がりの水たまりはとりわけ気に入った舞台だった。水たまりはただみつめるだけで美しかった。

だが、大人になって、水たまりどころか、空もみあげない(雨が降りそうか気にする以外は)生活が続いた。木も花も見なかった。

目先の’雑事’とそれから逃れるためのヴァーチャル世界(テレビ、映画、小説、音楽、思想・・・)に逃れた。

いま’反転’がおこっているのか?
日常だけがリアルだと?
そうではない。すべてが’等価’なのだ。

ネット上のコミュニケーションと’現実の’対人関係は同じものだ。
どちらもリアルであり同時にヴァーチャルである。どちらもイリュージョンである。
これが動物と人間を隔てる’進化’だと思う。’高級化’ではない。

”私は死体を埋める場所を求めて夜の山を彷徨っている。不意に目が覚めてほっとする。夢か。だがその’ほっ’の中にほんの何%か、1秒前に味わっていたものを惜しむような感触がある。夢の中で私は私の命に素手で触れていた。だが目覚めた途端、その生々しさはどこか遠くへ去ってしまった。私は夢の中でしか、或いはセックスやネットオークションの中でしか、脈打つような命の濃さを味わえないのだろうか。”(穂村弘:朝日カジュアル読書)

”私は私の命に素手で触れたい”というのは、いい。

かつてジョン・レノンは言った:nothing is real と。



<ハロー・スーザン!亡命者の街の本屋 2005/01/23

遅く起きた朝、朝刊でよい文章を読んだ。
ニューヨークの街角の小さな本屋について。
昨年末亡くなったスーザン・ソンタグについて。
米国生まれ、東京在住のリービ英雄氏の文章(朝日新聞:時流自論)

《マンハッタンの南端近くの、かつては「双子の塔」のかげにあった、静かな横丁の小さな本屋に、「スーザン」という客は姿をみせなくなった。》


今、’インテリ’、’知識人’は流行らない。この言葉は死語となりつつある。
’批評’の精神は死滅しつつある。
多数に媚びる言葉だけが発信される。
批評とは、声高に語ることではないけれども、はっきりと語ることだ。
それは、反批判を覚悟すること、なによりも自己批判に耐えることだ。

《「双子の塔」と呼ばれていたその高層ビルが、2001年9月11日に倒された。マンハッタンのスカイラインに、黒いすきまがあいた。その直後に、被害者たちを思って「一緒に喪に服しましょう」、しかし、その破壊の原因については「一緒にバカになることをやめましょう」と書いてアメリカ中から罵声を浴びた「スーザン」の本が、「スーザン」が客にもなっていたその本屋に置かれた。》


リービ氏はその街に住む人々を’あたかも亡命者のように伝統から切り離されていて、今についての認識が鮮明である。’と書いている。

”亡命者のように”
ぼくも亡命者のように生きれる街がほしい、その街角の小さな本屋と、そこでかわされるささやかな’うわさばなし’がほしい。

《膨大な権力に、ことばを武器にして対抗する批評》

マンハッタンの破壊現場のすぐ近くに書かれたことば;

”しかし、一緒にバカになることはやめましょう”
”But let's not be stupid together”


タレント

2009-04-13 08:58:39 | 日記
“タレント”という職業がいったいなんであるかを論ずることがないほど、タレントと呼ばれる人々が、“のさばって”いる。

ぼくは先の土曜日、外出から帰って、ぼんやりネット・ニュースを見て、“北野誠”というひとを“北野武”と読み違えた(笑)

“北野武”が活動を休止するのかと思い、“ひさしぶりにグッド・ニュースだ!”と喜んだのである。

そうしたら“北野誠”とかいうタレントの話題だった。
ぼくはほんとうに“北野誠”などという“ひと”が存在することを知らなかった。
そういうひとが、存在しなくてもぼくの人生にはなんの支障もないのである。

ところが、アサヒコムではこのニュースが昨日アクセス・ランキング1位であり、ヤフー・ランキングもこのニュースだらけである。

まったく現在の日本人の“関心”というのは、どうなっているのだろうか。

選挙においても、“ちがいがわからない自・公・民”の“党員”など選びようがないからタレントを選んでしまう。
すると“党”がタレントを自分の党の要員として確保するようになる。

タレントが“政治の素人だから庶民に近い”かのような幻想が形成されるが、タレントの人生や生活が“庶民に近い”はずがないことは、1秒考えるだけで明らかである。
政治の素人にすぎないタレントは、既成政党や政治家に利用されるだけである。

まったく悪循環である。

ならばだれを“選ぶ”のか。
べつに選ばなくともよいのだ、有権者には棄権する権利もある。
けれども選挙になったら、ぼくは投票には行くと思う。
党でもタレントでもないひとに投票するためである(その選択肢がなければ棄権する)
選挙などというものは、その程度のイヴェントである。

まるでそれによって、なにかがひっくりかえるように何10年もさわいでいるのは、政治家と大企業とマスメディアの“3バカトリオ”のみである。

ほんとうの“政治”というのは、そんな次元にはないのだ。
“リアル・ポリティックス”の次元も、“理念”の次元も。

偶然起こってしまったことの結果だけを、“リアル”と思うひとは、いつまでもそういう“幻想”に生きていればよいのだ。

つまり一生“ブラインドネス”である。

れれれ、“タレント”の話が脱線した。

ぼくは現在のタレントが全員嫌いである。<注>
だからテレビをみない。
ぼくがテレビを見ていた頃から存在する、たけし、タモリ、さんまetc.の顔をどうしてまだ見ていられるかが、トンと理解できない。

日本人の感性というものが、そうとう劣化し、鈍化したものだと思うだけである。

そんなものを見ているなら、見るべきものは、無限にあると思う。

たとえばタモリというのは、ぼくとほぼ同年代であるが、最近電車の中吊り広告で、タモリの“例の顔”を見て、ぼくは、”たしかに自分の人生はあまりパッとしたものではなかったが’コイツ(タモリのことだ)’のような人生を送らなくてよかった”と思った。

まったくの空虚ではないか。

しかしそれに気づかないのが、タレントとそれをいつまでも見ていられる人々なのだ。

“しあわせ、それとも、ふしあわせ?”

疑問文である。



*写真は、たまたま先日、新宿御苑そばで撮ったもので、ぼくはこのひとが嫌いではないよ。




<注>

しかもこの“タレント”の範囲は広い。
こういう“お笑い”系だけではもちろん、ない。
みのもんたや田原総一郎、古舘伊知郎などは、もちろんこの分類にはいる。
学者先生(大学系)タレント、小説・エッセイ・評論家的タレントも多い。
政治家タレントもいるではないか。
故人をけなしたくないが、筑紫哲也のようなひともタレントでしかない(鳥越などは笑うほかない)

彼らが日本国憲法を“擁護”しようが関係ない。
その根拠を語らないなら。

なによりも馬鹿げているのは、かれらの“毒舌”とか“突っこみ”である。
彼らには<批判>ということがわかっていない。
まさに“爆笑問題”である。

ぼくが自分の能力で自信をもっているのは、“ユーモアのセンス”である。
ぼくが笑えない笑が、“お笑い”であるはずがない。

”タレント”とは、”才能があるひと”なのである。

才能のないひとは、タレントではない。


“批判(批評)”がなんであるかは、現在ぼくも”考えているさいちゅう“であり、まさに、このブログを書くことで試行錯誤していることである。

ただ最低限いえることがある。

“批判(批評)”は、“強いものの味方”である立場からは発せられない。

“権威主義的人間”には、“批判(批評)”は不可能である。



<追記>

つまり、このぼくのブログの“よき(良き、善き)読者”とは、このブログを朗らかに笑って読む読者である。