Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

苦痛の経験

2009-04-06 13:17:20 | 日記
1年弱前に刊行された岡田温司『イタリア現代思想への招待』という本がある(講談社選書メチエ2008)。

イタリア現代思想?

いったいそんなものがあったのであろうか(笑)
ぼくは、ネグリとアガンベンの“名”を知るだけであった。

この本を読んでいて(151ページまでたっした)、いろいろなことを“知る”ことができた。
要するに、ぼくたちが“イタリア現代思想”を知らなかったのは、ネグリやアガンベン以外の思想家がほとんど翻訳されていないからである。

この本の著者である岡田氏は、“美術関係書”の著者としてぼくの前にあらわれた(『処女懐胎』、『もうひとつのルネサンス』など、新刊に『フロイトのイタリア』)


この本からナトーリという人の主著『苦痛の経験-西洋文化における苦しみのかたち』(1986初版、未訳)の紹介部分から引用しよう。

まず岡田氏は書いている;

★ 「どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのだ」、ヨブに象徴されるこの叫びは、しかし場合によっては、自己中心的で排他的な他者への暴力へと転倒してしまう危険性と背中合わせになっているようにわたしには思われる。苦痛の経験においてわたしたちは、わたしたち自身へと閉じ込められ、自分だけが苦しんでいると思いがちになる。すると、その原因を、他者や他所へ求めずにはいられなくなる。そのことは9.11以後のアメリカを見れば明らかだろう。自分の幸福が奪わることへの恐怖ゆえに、他者は潜在的な敵とみなされるのである。

★ 近年また、さまざまな犯罪被害者たちの苦痛の声がメディアで頻繁に取り上げられるようになり、「犯人を極刑にしてほしい」と泣き泣き叫ぶ悲痛な姿がテレビに映し出されることも珍しくなくなった。その心中は推して余りあるものの、こうした映像を繰り返し見せられることで、わたしたちは知らず知らずのうちに、極刑も当然ではないかと思い込まされてしまう。問題はもちろん報道の側にもあって、「罪を憎んで人を憎まず」どころか、「罪も人も憎む」という方向へと人心を煽っているのである。誰かの苦痛を軽減するには、当の苦痛を与えたとされる者に究極の苦痛を加えればいい。煽られているのは報復の論理であるが、ユダヤ=キリスト教にもイスラーム教(およそどんな宗教)にも、本来そんな教えはなかったにちがいない。他者の苦痛によって自分の苦痛が癒されることなどありえないのだ。さらにひるがえって、罪を犯した側にとって、その死は、いかなる意味においても、罪の償いとはなりえないだろう。



さらに岡田氏によるナトーリ自身に即しての紹介部分から引用する;

★ くわえて、いまや不安すらも、さまざまな技術によって解消され撤廃されようとしている。「苦しみは、神経生理学的、臨床学的、心理学的、精神分析的、社会学的、宗教学的、行動学的といった観点から定義されうるものとみなされるようになる。苦痛の経験はこうして、別々の学科に基づいて分解され理解されるのである」。このような近年の傾向は、一方では社会の医学化、医療技術化(生政治をめぐるフーコー-アガンベン-エスポジストの議論とも交差)と、他方ではさまざまな「癒し」の儀礼化や産業化とも軌を一にしている。文字どおり悪や不幸とみなされる苦痛、そればかりか、人間なら誰しも避けることのできない老いや死すらも、この世から全面的に消えてなくなることが求められているのである。

★ 苦痛の経験はギリシアにおいて、「己を知る」ための王道とみなされていたが、いまや完全に邪魔者扱いである。こう言ったからといって、ナトーリが、苦痛をロマンティックに称揚し崇高化しているなどと誤解してはならない。苦痛は主体を精神的な高みへともたらす、と言いたいわけではないのだ。それどころか反対に、苦痛はしばしばわたしたちを引き裂き混乱させる。その苦痛を近代は、さまざまな技術や言説や実践によってコントロールし、主体に自己同一性を取り戻させようと躍起になってきた。だが、「己を知る」ことと自己同一化とは、けっして同じものではない。自己同一化は他者への暴力へと転じる危険性をはらんでいるが、「己を知る」とは他者たちを知ることである。己の苦痛と向き合うとは、他者の苦痛と向き合うことにほかならない。

さわぐべきか、さわがざるべきか、それが問題だ

2009-04-06 10:00:38 | 日記

けったいな“人工衛星andミサイル”で大騒ぎしているのは、“ニッポンのメディア”である。

アサヒコムは“外国人の”冷静な発言を載せている;

■韓国紙・東亜日報の徐永娥(ソ・ヨンア)・東京支局長(43)
 発射予告の後、日本社会は全体的に神経をとがらせすぎていたように見えた。まるで戦争が迫っているかのように伝えたメディアもあった。
 北朝鮮の意図は国際社会の注目を集めることだから、残念ながら日本について言えば、成功してしまっている。韓国に比べて日本は全体的に軍事的脅威に対する免疫がないのではないかとも思う。
 4日には防衛省で情報伝達ミスがあった。緊張した場面でこのようなミスがあるようでは、本当に軍事的に重要な局面できちんとした対応ができるのか不安になる。
(引用)


にも係わらず、朝日新聞は昨日、“号外”まで出したらしいし、今日の朝日=読売の社説も天声人語も編集手帳も“この話題”一色である。
産経新聞は読まなくてもわかるので、読まない(笑)

《「金王朝」の現実は、古代の絶対王制の国家に否応(いやおう)なく重なっていく》(今日天声人語)などという“認識”を朝日新聞論説委員は、はじめて得たのであろうか(ボクちゃん、オリコウだから、気がついちゃった!)

読売新聞は、“許しがたい狼藉(ろうぜき)である”とか、“密航の独裁者がまた、暴走のアクセルを踏んだ”(編集手帳)などとといきまいているが、こんなことをいくら言っても、かの国の独裁者は痛くも痒くもないし、自分の宣伝が成就してにんまりするだけである。

まさに、日本のバカなメディアがさわげばさわぐだけ、“金王朝”は安泰である。


ぼくは、このような事態を“言葉の死”と表現している。

なにが起こっても、惰性の言葉でしか語れないなら、それは“批判”ではない。
むしろ自分が批判している対象とグルになって、その“対象”の存続に加担しているのだ。


日本国および日本国民は、“軍事的脅威に対する免疫がない”のであろうか。
そんなことは、指摘されるまでもない。

“日本人に免疫がない”のは、“軍事的脅威”のみとは思えない。

日本人に免疫がないのは、“ヒューマン・ファクター”そのものである。
“軍事”はそのひとつの要素にすぎない。


ぼくが“日本人”というとき、ぼくは“たまたま”日本人なので、日本人という状況でしか考えられないということを意味している。

他者との“比較”は、必要なひとつの“観点”にすぎない。
だからぼくは、(本質的には)“日本人”が他国人と比べて、劣っているか優れているかなどには、関心がない。


ぼくに関心があるのは、暴力としてのこの世界のなかから奇跡的にあらわれる他者との共感というような、“ヒューマン・ファクター”だけである。

★写真は森山大道