1年弱前に刊行された岡田温司『イタリア現代思想への招待』という本がある(講談社選書メチエ2008)。
イタリア現代思想?
いったいそんなものがあったのであろうか(笑)
ぼくは、ネグリとアガンベンの“名”を知るだけであった。
この本を読んでいて(151ページまでたっした)、いろいろなことを“知る”ことができた。
要するに、ぼくたちが“イタリア現代思想”を知らなかったのは、ネグリやアガンベン以外の思想家がほとんど翻訳されていないからである。
この本の著者である岡田氏は、“美術関係書”の著者としてぼくの前にあらわれた(『処女懐胎』、『もうひとつのルネサンス』など、新刊に『フロイトのイタリア』)
この本からナトーリという人の主著『苦痛の経験-西洋文化における苦しみのかたち』(1986初版、未訳)の紹介部分から引用しよう。
まず岡田氏は書いている;
★ 「どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのだ」、ヨブに象徴されるこの叫びは、しかし場合によっては、自己中心的で排他的な他者への暴力へと転倒してしまう危険性と背中合わせになっているようにわたしには思われる。苦痛の経験においてわたしたちは、わたしたち自身へと閉じ込められ、自分だけが苦しんでいると思いがちになる。すると、その原因を、他者や他所へ求めずにはいられなくなる。そのことは9.11以後のアメリカを見れば明らかだろう。自分の幸福が奪わることへの恐怖ゆえに、他者は潜在的な敵とみなされるのである。
★ 近年また、さまざまな犯罪被害者たちの苦痛の声がメディアで頻繁に取り上げられるようになり、「犯人を極刑にしてほしい」と泣き泣き叫ぶ悲痛な姿がテレビに映し出されることも珍しくなくなった。その心中は推して余りあるものの、こうした映像を繰り返し見せられることで、わたしたちは知らず知らずのうちに、極刑も当然ではないかと思い込まされてしまう。問題はもちろん報道の側にもあって、「罪を憎んで人を憎まず」どころか、「罪も人も憎む」という方向へと人心を煽っているのである。誰かの苦痛を軽減するには、当の苦痛を与えたとされる者に究極の苦痛を加えればいい。煽られているのは報復の論理であるが、ユダヤ=キリスト教にもイスラーム教(およそどんな宗教)にも、本来そんな教えはなかったにちがいない。他者の苦痛によって自分の苦痛が癒されることなどありえないのだ。さらにひるがえって、罪を犯した側にとって、その死は、いかなる意味においても、罪の償いとはなりえないだろう。
さらに岡田氏によるナトーリ自身に即しての紹介部分から引用する;
★ くわえて、いまや不安すらも、さまざまな技術によって解消され撤廃されようとしている。「苦しみは、神経生理学的、臨床学的、心理学的、精神分析的、社会学的、宗教学的、行動学的といった観点から定義されうるものとみなされるようになる。苦痛の経験はこうして、別々の学科に基づいて分解され理解されるのである」。このような近年の傾向は、一方では社会の医学化、医療技術化(生政治をめぐるフーコー-アガンベン-エスポジストの議論とも交差)と、他方ではさまざまな「癒し」の儀礼化や産業化とも軌を一にしている。文字どおり悪や不幸とみなされる苦痛、そればかりか、人間なら誰しも避けることのできない老いや死すらも、この世から全面的に消えてなくなることが求められているのである。
★ 苦痛の経験はギリシアにおいて、「己を知る」ための王道とみなされていたが、いまや完全に邪魔者扱いである。こう言ったからといって、ナトーリが、苦痛をロマンティックに称揚し崇高化しているなどと誤解してはならない。苦痛は主体を精神的な高みへともたらす、と言いたいわけではないのだ。それどころか反対に、苦痛はしばしばわたしたちを引き裂き混乱させる。その苦痛を近代は、さまざまな技術や言説や実践によってコントロールし、主体に自己同一性を取り戻させようと躍起になってきた。だが、「己を知る」ことと自己同一化とは、けっして同じものではない。自己同一化は他者への暴力へと転じる危険性をはらんでいるが、「己を知る」とは他者たちを知ることである。己の苦痛と向き合うとは、他者の苦痛と向き合うことにほかならない。
イタリア現代思想?
いったいそんなものがあったのであろうか(笑)
ぼくは、ネグリとアガンベンの“名”を知るだけであった。
この本を読んでいて(151ページまでたっした)、いろいろなことを“知る”ことができた。
要するに、ぼくたちが“イタリア現代思想”を知らなかったのは、ネグリやアガンベン以外の思想家がほとんど翻訳されていないからである。
この本の著者である岡田氏は、“美術関係書”の著者としてぼくの前にあらわれた(『処女懐胎』、『もうひとつのルネサンス』など、新刊に『フロイトのイタリア』)
この本からナトーリという人の主著『苦痛の経験-西洋文化における苦しみのかたち』(1986初版、未訳)の紹介部分から引用しよう。
まず岡田氏は書いている;
★ 「どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのだ」、ヨブに象徴されるこの叫びは、しかし場合によっては、自己中心的で排他的な他者への暴力へと転倒してしまう危険性と背中合わせになっているようにわたしには思われる。苦痛の経験においてわたしたちは、わたしたち自身へと閉じ込められ、自分だけが苦しんでいると思いがちになる。すると、その原因を、他者や他所へ求めずにはいられなくなる。そのことは9.11以後のアメリカを見れば明らかだろう。自分の幸福が奪わることへの恐怖ゆえに、他者は潜在的な敵とみなされるのである。
★ 近年また、さまざまな犯罪被害者たちの苦痛の声がメディアで頻繁に取り上げられるようになり、「犯人を極刑にしてほしい」と泣き泣き叫ぶ悲痛な姿がテレビに映し出されることも珍しくなくなった。その心中は推して余りあるものの、こうした映像を繰り返し見せられることで、わたしたちは知らず知らずのうちに、極刑も当然ではないかと思い込まされてしまう。問題はもちろん報道の側にもあって、「罪を憎んで人を憎まず」どころか、「罪も人も憎む」という方向へと人心を煽っているのである。誰かの苦痛を軽減するには、当の苦痛を与えたとされる者に究極の苦痛を加えればいい。煽られているのは報復の論理であるが、ユダヤ=キリスト教にもイスラーム教(およそどんな宗教)にも、本来そんな教えはなかったにちがいない。他者の苦痛によって自分の苦痛が癒されることなどありえないのだ。さらにひるがえって、罪を犯した側にとって、その死は、いかなる意味においても、罪の償いとはなりえないだろう。
さらに岡田氏によるナトーリ自身に即しての紹介部分から引用する;
★ くわえて、いまや不安すらも、さまざまな技術によって解消され撤廃されようとしている。「苦しみは、神経生理学的、臨床学的、心理学的、精神分析的、社会学的、宗教学的、行動学的といった観点から定義されうるものとみなされるようになる。苦痛の経験はこうして、別々の学科に基づいて分解され理解されるのである」。このような近年の傾向は、一方では社会の医学化、医療技術化(生政治をめぐるフーコー-アガンベン-エスポジストの議論とも交差)と、他方ではさまざまな「癒し」の儀礼化や産業化とも軌を一にしている。文字どおり悪や不幸とみなされる苦痛、そればかりか、人間なら誰しも避けることのできない老いや死すらも、この世から全面的に消えてなくなることが求められているのである。
★ 苦痛の経験はギリシアにおいて、「己を知る」ための王道とみなされていたが、いまや完全に邪魔者扱いである。こう言ったからといって、ナトーリが、苦痛をロマンティックに称揚し崇高化しているなどと誤解してはならない。苦痛は主体を精神的な高みへともたらす、と言いたいわけではないのだ。それどころか反対に、苦痛はしばしばわたしたちを引き裂き混乱させる。その苦痛を近代は、さまざまな技術や言説や実践によってコントロールし、主体に自己同一性を取り戻させようと躍起になってきた。だが、「己を知る」ことと自己同一化とは、けっして同じものではない。自己同一化は他者への暴力へと転じる危険性をはらんでいるが、「己を知る」とは他者たちを知ることである。己の苦痛と向き合うとは、他者の苦痛と向き合うことにほかならない。