Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

現在

2009-04-04 15:25:36 | 日記
現在。

現在、2009年4月4日(土)14:57である(書いているうちに時間は経過する)

ぼくは、昼寝からめざめ、紅茶を入れてパソコンを開いた。

アサヒコム・アクセス・ランキング・ベスト3には以下のニュースが並んでいる;

1位;発射、日本政府が誤発表 5分後に訂正2009年4月4日13時45分
2位;「誤情報、誠に遺憾」と官邸連絡室がコメント2009年4月4日13時17分
3位;「発射」「誤探知だ」東北混乱 緊急情報態勢に不安の声2009年4月4日13時47分


いったい、脅えればいいのか、怒ればいいのか、泣けばいいのか。

笑えばいいのか。

ぼくには、いろいろな“感情”があるが、とりあえず、笑うことにしよう。

ははははは、はっ。


これから事態がどのように展開するかは、ぼくは予想屋じゃないから、知らないよ。

しかし、一般に、大別すればふたつの方向が想定される。

① 日本国の“防衛体制”は、不十分(おそまつ)だから、これをもっと強化する。
つまり、“日米同盟”を強化したり、“自力防衛”を強化する=憲法を変えるか、これまでのように憲法を骨抜きにする。

② いくら法や、システムや、組織や、“日米同盟”を変えたり、強化しても、そもそも、現在の日本人には、精神的にも技術的にも“自国を防衛する”ことなど不可能なのだから、あきらめて、他のことを考える。


② をもっと正確にいうと、“自国を防衛”できるような知能とか精神力を持った人が、“現在の日本”にいたところで、決してそういうひとが、“国家の中枢”で指揮を取り得る立場にはなれないようになっている。


そういう構造を変えないかぎり、武力による防衛も、知力による防衛も、無理である。

無効の防衛に使うカネがあるなら、今日カネが無いために悲惨に死んでいく人々のために、あるいは、“滅びるまで”楽しく暮らすために、カネを使いたいものである。



<注記1>

ぼくが現在の日本国憲法を”擁護”しているのは、その理念によってであって、法文としてではない。


<注記2>

ぼくたちが”滅びる”可能性は、”北朝鮮ミサイル”によるものだけではないことを、忘れるべきではないと思う。




<追記>

上記ブログを書いたあと、ヤフー・ニュース・アクセス・ランキグを見た。

なんと(笑)こっちもベスト3は同じニュースなのだ。
だが“ミサイル誤報”ではない。

<水嶋ヒロ、難病の絢香を「守ってあげたい」>4月4日7時51分配信 サンケイスポーツ

というようなニュースなのであった。

“難病の妻を守ってあげたい”

とは、ぼく自身のテーマではないか(爆)

それなら、“ミサイル”よりこっちのニュースについてぼくは書くべきだったのである。

しかし、この有名人たちはこれから結婚するのである。
まったくご苦労なことである。

ぼくが、ここで、先輩としてさかしらなことを、書きたいとは思わない、ぜんぜん。

また“どうしてぼくのところには取材にこないのか”などというイヤミも(下品だから)いわない。

しかし、このニュースを読む人々は、ここからどのような“教訓”を読むのであろうか。

まあ、がんばってね。




音楽;モデラート・カンタービレ

2009-04-04 12:49:54 | 日記

音楽のような小説というものがある。

音楽のような小説は、あるだろうか?

しかし音楽にもいろいろある。

ワーグナーとあなたがカラオケで歌う音楽は、とてもちがっている。
“とてもちがっている”なら、それは、どうちがっているのだろうか。

ワーグナーとバッハもとてもちがっている。
かくいうぼくは、バッハを何千時間?も聴いたが、ワーグナーをちゃんと聴いたことがない。
この“選択”は、正しかっただろうか?

あるいは、“映画音楽”というものが、ある。
ぼくにとって映画への愛好(愛)は、「太陽がいっぱい」の“テーマ音楽”から始まったのかもしれない。
あるいはもっと有名でない映画「金色の目の女」のイエペスのギターのドーナツ盤であったか(それを愛好したのは、ぼくより母だったかもしれない)

もっと“野蛮な音楽”が狭いアパートの部屋を占拠したとき、母はディランをどう聴いていたのか。

60年以上も生きていれば、おびただしい旋律がぼくの脳のなかにある。
ぼくは歩きながら歌う。
歌うというより、リズムをきざむ、その日のリズムに合わせて。

ぼくを駆動するリズムがある。
というより、ぼくは踊れないから、踊ろうとする。

ぼくは“すぐ踊れる人”を羨望しつつ、侮蔑するのだ。
すぐ踊れる人にとっては、リズムは“生得の”ものであろう。
だがぼくは、ぼくのリズムを発見しなければならかった(ならない)

全然リズムを感じさせない音楽もある。
ぼくが近年偏愛するトリュフォー「柔らかい肌」のテーマのようなボーっとした音楽である。
たぶんそれは、その映画の“テーマ”とコントラストを(差異を)なしているのだ。
不倫した夫は、妻に撃ち殺される。
その“テーマ”は凡庸である、ありふれている。
しかし、音楽は、そのありふれていることの悲劇をあたたかくつつみ込む。
まるで、“悲劇”こそ日曜の朝の平穏であるかのように。


『モデラート・カンタービレ』というあまり長くない小説がある。
ぼくが持っている版は、河出書房・海外小説選9(1977)である。
白い表紙に加納光於の画がある。

ぼくはこれをずいぶん前に読み、その映画も見た。
その当時、ぼくはこの小説を“ずいぶん冷たい小説だな”と感じた。
たしかにいまでも、この小説は“冷たい”。
こういう“冷たさ”はル・クレジオの小説にも感じられる。

たぶんそれは、中上健次の対極である。
だが、いま、ぼくはその両者が、“同時に”愛しい。

まさに“同時”である。

あるいは、この世界は(すくなくともぼくの世界は)この両者の“関係”においてしか成り立たない。

非常に突飛なことだが、これに(さらに)ジョン・ル・カレ的な“リアル・ポリティックス”(エンターテイメント的な)を、衝突させることもできる。
ここでは詳説しないが、この“リアル・ポリティックス”というのは、“職業上の駆け引きの世界”ということのリアルである。
この現代世界では“外交官(スパイ)”というのは、もっともきびしい“駆け引きのプロ”として訓練された人々である。
けれども一般に、“ある職業のプロである”ということはどんな職業でも、“駆け引きのプロである”ということである。

彼らにないのは、“大義(倫理)”である。


ぼくの所有する『モデラート・カンタービレ』の巻末には、原著発表当時の書評がいくつか収録されている;

★ 他人の運命が、どれほどの重みをもって目撃者たちの上にのしかかってゆくのであろうか?ひたすら自分の子供に愛情をそそいでいる若くて裕福なアンヌ・デパレードが、なぜ、見知らぬ女性の突然の叫び声と、彼女の血まみれの死体の眺めに、これほど強烈に心を動かされたのか?なぜ彼女は、その見知らぬ女性の体が夕日を浴びて崩れ伏していった港のカフェに再び戻ってゆくのか?……

★ この本は、かろうじて150頁を数えるばかりである。そのうちで、明快でないような頁はたったの1頁もなく、三面記事に掲載してもおかしくないような文章が現れない頁も一つもない。物語のうちに晦渋なところは一つもない。これ以上厳格でこれ以上綿密な方法を想像することは不可能である。しかし、この単純な明快さ、この堅牢裸形の簡潔さには、電光が充填されていて、読者を、底なしの井戸、出口なき無限の迷路に放り込み、それがまぎれもなく、プラトンの洞窟となっているのだ。

★ この短い物語は、大河小説に匹敵する延長を有しているが、その題名は紛らわしい。普通の速さで歌うようにという意味ではあろうが、『モデラート・カンタービレ』は、音楽やメロディーより、回転燈台の光のように、音もない、鋭い、唐突な光でできている。そして、燈台の強烈な光が、目のうちに燈火の跡を残すように、マルグリット・デュラスは、読者の心に、燐光の鈍い尾を残し、それが燃えるのである。

<N.N.R.F.誌1958;ドミニック・オーリー>



あれ、ミサイルが!

2009-04-04 10:12:07 | 日記

ぼくはこのブログをなにかを主張するために書いているのではない。

もっと厳密にいえば、主張すべき結論(信念)が、あらかじめあるから、書いているのではない。

しかし、長い間ブログを書いてきてわかるのは、書くということは、なにかを主張してしまうことなのだということである。

あるいは、書いているうちに(自分でも思いもよらぬ)主張へと至る思考過程のようなものが生じてくる(生じてしまう)のである。


しかもぼくのような“年寄り”がなにかを書いていると、“このひとはそれまでの人生のキャリアに基づき、なにかの<主張>を形成しているのだろう”などと思われてしまうこともある(笑)

たしかに、そういうことが皆無ではないのだが、それは明確に言語化できるようなものではなく、むしろある種の癖のようなものではないだろうか。

ぼくの場合は、それは自分の“好み”であるというのが、一番正直な言い方ではないかと思う。
もちろんそういう“好み”の偏向に対する、“自己批判”の意識があるにしてもである。


たとえばぼくが、“ミサイルが降ってくるという危機よりも、言葉の危機の方が本質的な危機である”と書いたら、それはあることを主張したことになる。

ぼくはそれを“確信”しているのだから。

だから、ぼくはぼくがそう思う、論理的-感性的-倫理的“根拠”を、いままでも・これからも“書く”だろう。

しかし、それが“客観的に(絶対的に)正しいか否か”については(厳密にいえば)ぼくには確信がない。

というか、ぼくはいつでも“矛盾”している。
ぼくは“両義的(あいまい)”であり、“多義的”である。
サイードや“現代の思想家”の言う“複数の私”である。<注>


ぼくのこの確信が、“言葉の海”のなかに投じられ、それがこの海のうねりの、微小な一要素となりうれば、よいとする。


ミサイルの危機に対して、憲法を改正し、“集団的自衛権”を強化・恒久化するというような立場は、まったくの虚偽=不正である。

それは、愚かさであり、非理性であり、人道的退廃(モラルの根拠を壊滅させる)ことである。


ミサイルの危機が問題なのではまったくない、言葉が死ぬことだけが問題である。



<注>

わたしは自分のことを、首尾一貫したまとまりのある単一の人間とは思ってはいません。わたしは多くの異なるものです。そうした異なる部分のあいだでバランスをとろうともしていません。自分のことを、こうした差異を縫い合わせてひとつにまとめようとする人間だとはみていません。わたしは差異のなかで生きようとしています。

<エドワード・W・サイード;2003年2月インタビューでの発言-『文化と抵抗』所収>