Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ぼくの叔父さんが勲章をもらった

2009-04-29 11:58:11 | 日記
アサヒコムを見たら、次ぎのようなニュースがあった;

<もったいなくない マータイさん旭日大綬章 春の叙勲>2009年4月29日5時0分
政府は29日付で、春の叙勲受章者4068人と外国人叙勲の受章者70人を発表した。民間受章者は41%(1666人)、女性は8%(343人)で、いずれも昨年並みだった。受章者は省庁からの推薦がほとんどで、一般推薦による受章者は5人だった。
 旭日章は顕著な功績を上げた人、瑞宝章は公共的職務に長年従事した人が対象となる。旭日大綬章は、電通の社長、会長などを歴任した成田豊さん(79)、元連合会長の鷲尾悦也さん(70)ら7人が受章。瑞宝大綬章は元北大学長の丹保憲仁さん(76)と元駐ロシア大使の渡辺幸治さん(75)に贈られる。旭日中綬章には小説家の阿刀田高さん(74)ら、旭日小綬章には人形浄瑠璃文楽太夫の竹本綱大夫さん(77)、女優の2代目水谷八重子さん(70)らが選ばれた。
 外国人叙勲の受章者には、ノーベル平和賞受賞者で日本語の「もったいない」を世界に広めたケニアの環境保護活動家ワンガリ・マータイさん(69)が旭日大綬章に、第2次大戦の硫黄島での激戦を日米双方の視点から描いた映画監督クリント・イーストウッドさん(78)は旭日中綬章に選ばれた。
(以上引用)

ぼくは一般的には以下の疑問を提起したい;
① 国家が特定の人に勲章を与えるということ自体に、疑問がある
② その選考の基準(根拠)に疑問がある
③ この記事にあるように、“受章者は省庁からの推薦がほとんど”ならば、そのことに疑問がある
④ “民間受章者は41%(1666人)、女性は8%(343人)”であるならば、その比率の根拠に疑問がある
⑤ “旭日章は顕著な功績を上げた人、瑞宝章は公共的職務に長年従事した人”となっているが、“顕著な功績を上げた人”と“公共的職務に長年従事した人”というのは、何を意味し、その区別の根拠は何であるかに疑問がある。
⑥ 今回受章した、それぞれのひとの“業績”に疑問がある


つまり今回受賞した人々が、どんな“よいこと”をしたかを、ぼくはほとんど知らない。
見出しになっている“マータイさん”でさえ知らない。
“電通の社長、会長などを歴任した成田豊さん(79)、元連合会長の鷲尾悦也さん(70)、元北大学長の丹保憲仁さん(76)と元駐ロシア大使の渡辺幸治さん(75)”も知らない。

たぶん“電通”のひとなら、自民党等の選挙演出の功績が認められたのだろうと思うばかりである。
これはぼくの“無知”であるから、恥じるべきかもしれない。

ただし、上記記事の“名前”のなかにぼくのよく知っているひともいた。
クリント・イーストウッド氏である(笑)
ぼくは俳優としての彼は嫌いじゃなかったが、最近はテレビで彼の古い映画を見るだけでウンザリである、彼の監督作品も、最初は見ていたが、ウンザリである。
しかしこの人も、直接知っているわけではない。


ああ、直接知っているひとがいたのである(爆)

この人の写真が、上記アサヒコム記事にでかでかと出ているではないか。
ぼくより髪が(なぜか)まだあるが、ぼくはこのひとに似ているのである。

このひとの“受賞の喜び”まで記事になっている(サンケイ)、ちょっと引用;

《 原稿用紙に鉛筆書きのスタイルはずっと変わらない。「日ごろは無理をせず体を気遣い、徹夜はしない。いつも悠然としていたい」と朗らかに笑う。
 古今東西の文学に造詣が深いが、「美しい日本語」に対する愛着は人一倍強い。「言葉は明快で分かりやすく」が持論だ。文化庁の文化審議会会長なども歴任。「国語力を高めるのには、自分から進んで読書をする子供を育てることが大切」と訴え続けてきた。
 「若者のモノの言い方が単純になっているのが気がかり。日本語はもっとデリケートに使ってほしいですね」
 言論表現の自由をうたう「日本ペンクラブ」の会長に2年前に就任。海外との交流に力を入れ、日本文学への理解を求めてきた。来年秋には国際ペン大会を四半世紀ぶりに東京で開く。「欧米主導の組織の中でアジアの立場を主張し、ぜひ成功させたい」と言葉に力を込めた。
(以上引用)


ははははは、ハッ。

あ~あ。

みなさん、だまされちゃいけません。

このひとは、“いつも悠然としていたい”らしいです。

ぼくはこのひとが“悠然としていない”のを、子供の頃から見ていました。
しかし、そのことは“罪”では、ありません。
この人が、悠然とするために“努力した”ことも知っています。

この人は、自分の原稿の字が最初読みにくかった(ようするに字が下手)だったので、読みやすい字を書くよう努力したのです。
それにしても、まだパソコンをお使いではないのでしょうか。
ぼくの方は、あいかわらず人に読める字が書けないので(つまり努力しなかったので)、パソコンを使用しています。

このひとも「美しい日本語」に対する愛着が強く、“日本語はもっとデリケートに使ってほしい”のであり、“自分から進んで読書をする子供を育てることが大切”なんだそうです。
ぼくと同じ考えではありませんか!

やっぱ“わが家”の血なんでしょうか。
ところで、あなたのお子さんは、“自らすすんで読書”しているのでしょうか(爆)
最近お会いしてないので、トンとわかりません。

“読書”といえば、もう半世紀ちかく前、ぼくがお貸しした“異色作家短篇集”(ハヤカワ)を、あなたはなかなか返してくれなかった。
きっとあなたは、アレで勉強して、“作家”になったんでしょうね(笑)
ぼくの“ヒッチコック・マガジン”やハヤカワSFシリーズも見ていたね。

もちろん、ぼくはこんな過去のけち臭い“貸し”(あなたが完全に忘れている)を、言い立てるほど下品ではありません。

しかし、ひとこと言っておきたい。

あなたには“恩義”を感じるべきひとがいた。
あなたは、そのひとが死んだとき、その火葬に立ち会うことを(旅行の計画があるからと)躊躇した(結局参加したが)、ぼくは、あの時言ったはずだ、“そんなにお忙しいなら、いらしていただかなくて、結構です”と。


<注記>

上記ブログ記述で、今回受章された人が、親戚もしくは知人におられるかたが、不快な思いをされたなら、お許し願いたい。

ぼくは“国家による叙勲”自体を認めないが、今回叙勲された方々のなかに、立派な方がおられないということではない。

そういう方々の“喜び”に水を差したいわけではない。

上記ブログ後半の記述は、あくまで、ぼくの個人的な“つぶやき”である。

“個人的なつぶやき”をブログに書くべきではない、という立場も納得できる。

しかし、このブログは、“それを書く”ことによって、成り立っている。



<追記>

このニュースのGoogleでの分類は、“エンタメ”である。

なぜ“国家による叙勲”が、エンターテイメントである(エンタメでしかない)のであろうか?


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7 コメント

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叙勲について (ゆうゆう)
2009-04-29 23:53:41
こんばんわ!
 私も国が個人に勲章を出すことについておかしな事だと思っています。私の祖母が(継母ならぬ継祖母ですが)以前に勲章を貰いました。何の勲章か知りませんが・・・多分、長年、家庭裁判所で調停員をしていたので、warmgun氏の文章から推察すると、瑞宝章だったのではないかと思われます。

選考の基準は『長年』というのが一つのキーワードだそうです。つまり長くやっていれば(何事もなく定年まで勤めあげれば)、順番で貰えるのだそうです。貰った本人から直接聞いたのですから、恐らくそうなのではないかと思います。

国や皇室や権力を持っている(強者)を批判している人が、勲章を貰えるとなったら「喜んでお受けします。」と言うと、白けてしまいます。大、中、小と差をつけているのもいやらしい。良い仕事をしたという基準で選ぶのなら名もなき市井の人の中にも沢山いますよね。そういう人を探して表彰するならまだしも・・・ただ長くその仕事をしてたというだけで貰える勲章とは?

今は亡き女優で山岡久乃という人が、勲章を貰えると聞いた時のコメントを思い出しました。
「なんで私が貰えるのかしら?女優は自分が好きでやっているだけなのに・・・?でもまあ、上げましょうと言うのを無下に断るのも大人げないわね。一応貰っておきましょう。」と。(本心は分かりませんが他の人と反応の仕方が違っていたので覚えていたようです。)

しようもない書き込みで・・・。(言わなくてももう分かっている・・・と。どうも失礼しました。)
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Unknown (warmgun)
2009-04-30 01:55:47
いえいえ、書きすぎかな、と思っていたので、コメントくださって、よかったよ。

このブログになって、なんかますます手応がないんだ。
前のブログでもそう思ったんだが、ますますひどい。
そうなってくると、ますます、独り言的なブログになってくる。
このブログの問題というより、ブログ自体の問題だし、そもそも“書くこと”には、“独語”的な狂気へおちこむ可能性がいつもあるね。

そうでない“水準”で書いているひとがほとんどだが、それじゃぼくには、書くのも読むのもつまらない。
ブログは学術論文ではないし、ただのおしゃべりでもないと思う。

“長年”なにかをやってきたひとみんなにご褒美をあげるなら、いいけどね。
いまのシステムでは、どうしても国の中枢(権力)にすり寄った人にあげてるような気がするね。

それと、あるひとを評価することの問題ね。
そのひとの仕事自体の評価と、やはり、そのひとの人格ということもあると思う。
もちろん“人格”の評価はむずかしい。

叔父に対するぼくの評価は、これでもずいぶん抑えて書いた。
これを書いたあとに、怒りがふつふつとこみ上げてきた(笑)

ぼくはここで叔父の振る舞いについて書いたが、もちろん彼の“仕事”もまったく評価しない。
しかしこれは、彼が特別に劣った仕事をしてきたということでもない。

現在有名な物書きの仕事のほとんどが、くだらないのだ。

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Unknown (ツナミン)
2009-04-30 12:39:54
こんにちは。
昨日は何だか疲れていて、この記事もタイトルしか見ていなかったのですが、なんと、阿刀田氏はwarmgunさんの叔父さんだったのですね。
お母様の弟君なんでしょうか?(差し出がましい質問かもしれませんが)

だいぶ前にwarmgunさんが阿刀田氏のことをボロクソに書いていたのを覚えていますが、色々あったのですね。
ちなみに私は彼の作品は割合好きなんですけどね(笑)(まぁ、文学的価値はわかりませんが…苦笑)

賞というものは大抵くだらないものですが、とりわけ国家の与える勲章ほど愚劣なものは少ないでしょう。「国や権力を批判している人が…」という、ゆうゆうさんの意見に全く賛成ですね。
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Unknown (warmgun)
2009-04-30 14:47:15
やあ、ツナミン。

“高オジ”は、母の兄弟姉妹の末っ子です(母は長女)

ぼくが自分の名前が分からないように書いたのに、“阿呆田”なんて書かれては困るよ(笑)
もちろん、ぼくは前に(Doblogではなく自分のHPの掲示板だったかもしれないが)“母の本”の宣伝をしたこともあります(ぼくに印税が入るので!)
つまり母も、手紙の書き方の本や、擬態語辞典の著者でした。

ちょっと、上記の“ゆうゆうさん”へコメントしたことに、注記したいと思います。
つまり、ぼくが“人格”という言葉でいったのは、いわゆる“そのひとのアイデンティティが一貫して立派である”ということではありません。
サイードが最晩年にいったように、“複数の私”ということです(たぶんドゥルーズもそう言ってる)

つまり、もともと親がそれぞれ別の国の人であったり、もともとの“国籍”から自分で望んだり・望まなくて離脱したというような人々(この3者も非常に異なる条件ですが)

具体的にはサード、ル・クレジオ、デュラスのようなひとを思い浮かべます(デュラスは国籍は一貫して“フランス”だったが、生まれと育ちが旧インドシナです ― つまりこのようなひともいます。ぼくがこのケースで思い出すのは、“朝鮮”育ちの日野啓三のようなひと、ほかにもたくさんいると思う)
また、中上健次のように“日本のなかの路地”で育ったことを、“幻想のなかで”自分の根拠にしようとしたひともいます。

ツナミンもよくご存知のように、“この国のナショナリズム”というのは、“列島=アイデンティ”の閉域にあると思う。
もちろんこれを“補完”するのが、万世一系イデオロギーです。

それは、天皇家の話のみではなく、“名もなき庶民”の家系イデオロギーとして貫徹している、たとえば“吉本隆明家”だ!(笑)

ぼくは、上記のサイード、ル・クレジオ、デュラス、中上のような人々の“生き方”こそを参照したい(まだまだ参照すべきひとはいると思う)
そういう意味で、やはり“ナショナリズム”(愛国)は、“まだ”、問題だ。

つまりこれまでしつこく書いてきたぼくのモチーフは、“個人と個人の関係の自由(可能性)”であり、それと対立するものとしての”ナショナリズム“という問題意識です。
この問題が単純でないことは、明瞭だと思う(つまり“グローバリズム”という“現実”のさなかで)
それはやはり、“近代”の問題だし、“人間の歴史の現在”の問題だと思う。

ぼくは“阿刀田高”が、重松清よりくだらないとは、思わない。
けれども阿刀田高は“村上春樹”よりくだらない(笑)

もちろん“村上春樹”は、サイード等上記のような人々に“くらべれば”、くだらない。
しかし、春樹は、ぼくたちの時代のこの閉鎖状況の“なかで”生きることへの感性をある時期にはたしかに持っていたと思う(大江健三郎も)

逆に言えば、現在の“書き手”(文学であろうが、大学教授論説であろうが)のなかで、この列島閉鎖症から、脱却したひとなど見あたらない(加藤周一のようなひとが、“脱却”していたのかどうかも問われる)
だから、この閉塞自体を書く人も無視し得ない。

けれども、もちろん、ぼくは、“ここから抜け出る道”(ボブ・ディラン)をさがしている。

実証的でなくてもうしわけないが(爆)、“あの下の谷に向かって”。
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作家A氏と叙勲 (不破利晴)
2009-05-02 00:31:57
こんばんは、不破でございます。

作家A氏がwarmgunさんの叔父であったとは正直驚きました。
A氏は特に好きでも嫌いでもない書き手ですが、A氏が勲章をとったことを新聞でなんとなく知り、今一度読んでみようかとなんとなく思い、近所のブックオフで2冊ばかり買った後にwarmgunさん記事に接しました。
A氏とは様々な確執がおありのようで、そんな折にA氏の本を買ってしまったことになんとも間の悪さを感じる次第です。

それにしても、瀬戸内さん件といい今回のA氏の件といい、東北の田舎百姓出身の僕からすれば家系的にも全く異なる、何か空気感の違いのようなものを感じます。僕の周囲にはそのような人間は全く皆無です。そんなwarmgunさんが、僕にはとても都会的に映ることがあります。A氏のことは別にしても、お話を伺っている時も都会的なインテリジェンスを感じることがよくあります。僕もそうありたいと願うのですが、酒を飲むと結局グダグダだったりします(爆)

あ、それでも僕の親父も去年あたり勲章を貰いましたね・・・。長いこと”消防団”をやっていたからです(爆)この辺りがとてもローカルね。

・・・4月になってから仕事が非常に忙しくなりました。毎日帰るのが12時ごろです。ブログを更新することができません。今はwarmgunのブログで心を癒しております・・・。
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追伸 (不破利晴)
2009-05-02 00:34:26
>今はwarmgunのブログで心を癒しております・・・。

「さん」をつけるのを忘れておりました。大変失礼しました!申し訳ありません!
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Unknown (warmgun)
2009-05-02 06:27:28
不破!バカ(爆)
warmgunに“さん”なんかつける必要なし。

昨夜ははやく寝て、いま5時に起きて、君のコメントを覚めやらぬ頭で読んだ。
昔の君のブログで、君の親戚のことを書いたのは面白かったよ。

ぼくが“都会的”?そうさ。
ぼくの記憶は、埼玉県・北浦和の幼稚園時代からしかないが、“その前に”、ぼくは新潟県長岡市で生まれ、仙台、大阪にも住んだらしい。
その間、父と母は“あっさり”離婚していた(もともと‘いとこ’だった)
ぼくが、幼稚園児としての自分を見出したとき、すでに父はいなかった。
しかもその北浦和時代は、母の母、母の母の母、母の母の妹(笑)はいたが、母の兄弟姉妹のなかでぼくは育った。
つまり“家計”の中心は、ぼくの母(当然まだ若かった)にあった。
“高オジ”はまだ大学に入ったばかりで、しかも結核で休学・療養していたし、母の母も結核で入院した。

こう書くと、なんか“悲惨”だが、ぼくの印象はけっして、そうではない。
なしろ当時の北浦和には、麦畑があり、アメリカザリガニやどじょうがとれる用水路がああった(笑)
ぼくは、いまでも、春に、“家族”で、うららかなひざしのもと、梅の花を見たことを幻視する。

ぼくの“阿呆田家”に関する知識は、母の親の代以上にさかのぼらない。
母の父は、戦時中、鋳物工場の幹部だった。
ぼくはずっとうかつにも気づかなかったが、彼は“軍需成金”だったのだ。
ぼくが“戦後”に生まれたとき、このおじいちゃんは、最後の贅沢を発揮し、ぼくは“畳を総とっかえした”部屋でうまれた。
生まれて直後のぼくは、王子様のようにあつかわれたらしい(笑)
しかし、戦争は終わっていて、彼の新潟での工場は行詰っていた。
彼は、もともと北浦和に持っていた“セカンドハウス”に引越し、“東京で一旗あげる”つもりの時に脳溢血で死んだ。
“残されたものたち”が北浦和の小さな家で、生きるほかなかった。

ぼくが小学校6年生の時、さまざまな事情で、母は北浦和の家を出て、東京で暮らすことを選んだ。
母の妹はすでに結婚して東京に出ていたが、その夫に問題があり(笑;この叔父にその後ぼくは就職で世話になった)別居状態だったので、その叔母と同じ東京・杉並のアパートでぼくと母は暮らすことになった。
“高叔父”もその近所のアパートに引っ越した(笑)
そのころの彼は就職時期であり、ぼくと散歩しながら、ぼくに聞えるほどの“独り言”を言って悩んでいたね(笑)

まさにその引越しの日(母が先行して、ぼくと高叔父がいよいよ東京へ行く日)、母の母が死んだ。
その死に立ち会ったのは、ぼくと高叔父であった。
息をひきとったかいなかを、高叔父が確認するため、手鏡を持ち出し、その柄が折れたことを憶えている(幻想だろうか?)

つまり、ぼくは小学校6年生の3学期という、きわめて中途半端な時期に、“都会っ子”になった。
北浦和と杉並では、さして違いがなかったと思うなら、おおまちがいであった。
たしかに、“都会は都会”であった(笑)
ぼくは結局、大学にはいるまで、この違和感から脱却できなかった。

ぼくは幼児から“トロい子”だったが、小学校時代は結構“ふつう”だった。
つまり“まわりとの違和”をそれほど感じていなかった、低学年の時は、クラスの“ジョーク王”だったような気もする。
だが、ぼくの中学時代は暗かったね(笑)
学校にいる時間を最小として、いつも“退屈だ”とか“別に”とか言っていた。
そのころ、やっとテレビが買えて、それからはテレビばかり見ていた。
ぼくが自分で本を選んで読み始めるのは、高校3年生~浪人時代だった。
(それまでもSFは読んでいた)

ああ“家系”の話だったね(笑)
ぼくには、さっき書いた母の父についての記憶さえない(写真のはげ頭の造作のはっきりした顔のイメージがあるだけ)
北浦和で一緒にくらした“おばあちゃん”等しか知らない(おばあちゃんとは、映画に行った)
あとは“母の話”だけだが(これもよく聞いていなかったが)、母の父の兄は仙台の“二高”の名物校長だった(このひとを回想する文章を新聞で読んだことがある)
ぼくの母の父は“鋳物屋”にすぎなかったが、この兄弟に、“文学趣味”があったのだろうと思う。
当時は別に珍しくもなかったろうが、北浦和の小さな家には、漱石全集や鞍馬天狗全集や新潮・世界文学全集があった。
ぼくがそのなかで読んだのは、鞍馬天狗と世界文学全集の(なぜか)『クオヴァディス』だけだったけどね(笑)、漱石は読まなかった。

だが、母と叔母(母の妹)はたしかに、ぼくが小さいころから本を読んでくれた。
とうぜん当時の少年雑誌(月刊)を買うようになり、手塚治虫を中心とするマンガや絵物語(『少年ケニヤ』、『白虎仮面』)などに熱狂したね。
それが、“SFマガジン”や“ヒッチコック・マガジン”につながった。

ただ、母はいちおう“教師”(外人に日本語を教える)で、知人の辞書作りや古典研究(とくに『新古今和歌集』)の原稿書きを手伝っていた。
浦和の家では、母が原稿書き仕事をするスペースがなく、母が玄関の板の間で書いていた記憶もぼんやりある。
だからぼくはそういう仕事にあこがれは、もたなかった。
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