Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ぼくはなぜ“連続猟奇殺人犯モノ”が好きなのか

2009-04-28 21:31:04 | 日記
いつものことといえばそれまでだが、どうも疲れやすい。
仕事に行った日は、ブログを書くのもおっくうだ。

けれどもぼくの“ブログ脳”は、仕事の合い間も活動していた。
今日のテーマは、タイトル通りである。
つまりぼくは昨夜テレビで「セブン」を見たのだ(何回目かである)。
おととい?は「ブレードランナー」を見た。
どちらも好きな映画であるが、今回、「ブレードランナー」には、感銘を受けなかった。
たしかに見過ぎであろう。
しかし、どうもぼくには、“近未来的”とか“つくりもの的”シチュエーションというのが、近年、退屈になってきた。

まあ「セブン」や「羊たちの沈黙」も“荒唐無稽”でないわけでも、ないが。
しかし(ここからがこのブログのテーマだが)、なぜ「セブン」の犯人や“レクター博士”は魅力的なのであろうか。

それを“論じる”ためには、たぶん、長いブログが必要であり、今はその根気がない。

一気にその論旨を展開しよう;
①“連続猟奇殺人犯”と呼ばれるような人々が、“魅力的”なのは、彼等には情熱があるからである。
②しかし、良識のために言うのではないが、実は、これらの作品(小説-映画)において真に魅力的なのは、その“犯人”ではなく、彼等を追う人々の方である。
③なぜか?“連続猟奇殺人犯”は、それを狂気と呼ぶかいなかは問題であるが、“異常に、異常な行為”に対して執着できるという“情熱”をなぜか持っている。
④これに対して、これらの犯人を追う人々(刑事とか、若い女性警官とか、プロファイラーなどなど)は、“平凡な人々”である。
⑤しかし、この“連続猟奇殺人犯”たちを追い、それを“逮捕せん”とする過程において、平凡なものたちも、異常な情熱を持つものに拮抗せねばならない。
⑥その試みは、当然、“天才的な犯罪者たち”の前で、“敗れる”かもしれない。
⑦「セブン」はまさに、モーガン・フリーマンの引退前刑事の“疲れ”と“掻き起される情熱“と、ブラッド・ピットの新米刑事との対比のドラマとして成り立っている。まさにこのキャリアに乏しい”若者“は、天才的犯人の”悪意=情熱“を受け取るのだ。

だいぶ前に読んだのだが『レッド・ドラゴン』における“クロフォード刑事”(だったと思う)も複雑なキャラクターであった(つまりレクターに自分との“同質性”を指摘される)


書きたいことは書いちまった。

もっと上記を“ふくらます”ことができそうだが、今日はこれまで。