Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

わが心の……

2009-04-26 10:31:04 | 日記

おととい、自分が1月18日に書いたブログを引用していて、ある本に気づいた。
若桑みどりさんの『クアトロ・ラガッツィ』である。

ぼくは若桑氏の『イメージを読む』という文庫本を読みかけで放置しているが、その独特の“男性的さわやかさ”に注目した。

この“男性的さわやかさ”というのは、(まれにだが)、女性だけに見られる特徴である。

それでこの『クアトロ・ラガッツィ』という書名を見たとき、なにかピンとくるものがあった。
ぼくは本を買うとき、もちろん書評などを参考にするが、最終的“決断”は、いつも“勘”のみである。

昨日は、妻が留守で外食の必要があったので、雨で億劫だったが、吉祥寺まで出掛け、駅の本屋で、この本を買った。
集英社文庫2冊本のボリュームある本であった。

“クアトロ・ラガッツィ”が、天正少年使節を意味することを、ぼくは知らなかった。

喫茶店で樺山紘一氏の解説を見て、若桑氏が最近亡くなられたことを思い出した。
プロローグを読むだけで、このひとの“さわやかさ”がまた伝わってきた。

この本を書くことになった動機。
これは美術史家としての彼女の総決算の“最後の書”であると思われる。

★ 私は1995年、ちょうど日本の敗戦から50年たった年に、大学を1年休んでしばらくものを考えることにした。敗戦の年に10歳だった私にとって、戦後の50年めとは、自分の人生や、日本の運命について考えなくてはならない節目の年に見えたのである。


その時、彼女が1961年に横浜から船に乗ってマルセイユまで行った最初の外国旅行が復活したという。
同じ船に川田順造氏や蓮実重彦氏も乗っていたそうだ。

その船でのエピソード。
客室の世話をするコルシカ人のメートル・ドテル(客室主任)は、フランス政府留学生を尊敬し、若桑さんがイタリア語が話せるので、彼女も“名誉白人”の仲間に入れてくれた。
そして;

★ 彼は、香港から臭い匂いのする質素な身なりの中国の少女が私と同室になったことをひどく詫びた。むろん、私もひどくいやな気分で、一日部屋に帰らないことが多かった。

★ あるとき、彼女は、私が寝過ごして朝食を食べそこねるのではないかと心配して私を揺り起こした。私は英語もフランス語もイタリア語も通じないこの中国娘に辟易して、紙片にでたらめな漢文で「われ眠りを欲す」と書いた。彼女も大笑いして紙片をとり、「我が名は黄青霞」と書いた。私は起きて彼女を見たが、私たちがとてもよく似ていることにそのときはじめて気づいた。「われは香港の祖母のもとを出て今サイゴンの父母のもとへ行く。汝いずくより来たり、いずくへ行かんと欲するや」。「われは日本より来たり、ローマへ行かんと欲す。かしこにて学を修めることを願う」。青霞は私の肩を叩いて紙片を見せた。「われ汝の成功を祈る」

★ サイゴンで黄青霞は手をふって降りていった。メートル・ドテルは犬を追っ払うようなしぐさで、「マドモアゼル、追っ払いましたよ!」と言った。でも、私は傷ついた。青霞は私だったからだ。まぎれもなく私は黄青霞の「仲間」、「黄色い」東アジア人なのだ。その日から私は名誉白人の仲間には入らなかった。この経験を私はひそかに、「わが心の黄青霞」と呼んでいた。そして筆談の紙片を大切にもっていた。でもそのときは、それが自分にとってどういう意味があるのかをわかっていなかった。



タコ!

2009-04-26 09:04:42 | 日記
なんか“政治家の世襲制”が話題らしいが、“テレビ業界の世襲制”についての記事が天木直人ブログに出ている。

日刊ゲンダイの“テレビ業界に石を投げると有名人の子供にぶつかる”という記事である。

《みのもんたの長男と次男はともにTBSと日テレ。故松岡利勝農相の息子はNHK。「嵐」の桜井翔の妹が今年日テレに総合職で入社。桜井の父親は総務省総合通信基盤局長で将来の次官候補。中川昭一前財務省の長女はフジテレビ社員。鈴木宗男の娘も4月からNHKに入局・・・
おそらく同様の例は山ほどあるに違いない。これではテレビに権力批判などできるはずはない。馴れ合いなのだ。》(引用)


馴れ合い。

まあ、この社会は、“すべて馴れ合い”といっていいと思う。

ぼくは日本の戦後を代表する“思想家”が、自分の娘のために、時代に馴れ合った例もみてきた。

もちろん“親が子供を思う気持”というのは、この社会では絶対であり、むしろ“美談”であるのだ。
その傾向は加速されていると感じる。

ぼくのように子供を持たないものがそのように言ったとすれば(つまり普段、言わないのだが)、“子供を持たないひとにはワカンナイのよねぇー”と哀れみの表情で“いなされる”であろう。

そういうときは、こっちは、“このタコ!”と内心でつぶやくのみである。


そこで(笑)、きょうの天声人語は“タコ”の話題である。

タコがタコの話をしている(これいかに?!)

なるほど、“タコ的処世術”というものが、あるのでござる。

引用する;

▼ タコについては、軟体動物では異例の知恵が実証されている。米国の海洋学者、ユージン・カプラン博士は「イヌ並みに賢いという説に喜んで賛成する」と書いた。とりわけ「やわらかい生き方」は示唆に富む▼骨がないから小穴も抜け、いざとなれば腕を切って姿を消す。保護色、墨の煙幕、水を噴き出しての瞬間移動など、柔肌を守る技は忍者も顔負けだ。危うさに満ちた時代に、タコの闘争……ならぬ逃走力は、世渡りの参考になるかもしれない。(引用)


なるほど、なるほど。

“天声人語的タコ”というのは、“イヌ並みに賢い”のである。

しかし、犬は、“天声人語的タコ”とは、まったく異なった<実存>をしているのだ!

“イヌ的イヌ”の実存は、“世渡りの参考”など必要としていない。

“ベルカ、吠えないのか?”


しかし天声人語的タコは、このぼくの批判も“すりぬける”であろう。



<追記>

“世渡りのうまい人”というのが、すべて、タコなのである。

タコを見分けるための、タコの性質=骨がないから小穴も抜け、いざとなれば腕を切って姿を消す。保護色、墨の煙幕、水を噴き出しての瞬間移動など、柔肌を守る技は忍者も顔負け、タコの闘争……ならぬ逃走力。

無視したり、居直ったり、誤魔化したり、謝ったり、タコは忙しい。

なにしろ、“ヒューマニズム・タコ”、“家族愛タコ”、“自由主義タコ”、“リベラル・タコ”、“バッシング・タコ”、“弱いものいじめタコ”、“国粋主義タコ”、“快楽・消費タコ”などなどタコの種類もさまざまである。

タコが大事にするのは(かなしい習性で)、”カネ”と”虚言”である。

とくにタコの観察に向いているのは、あなたの家にもある、電力を消費するのみの、四角い画面である。

これからますます、狂ったタコの、裸踊りが、そこで見られるかもしれない。