おととい、自分が1月18日に書いたブログを引用していて、ある本に気づいた。
若桑みどりさんの『クアトロ・ラガッツィ』である。
ぼくは若桑氏の『イメージを読む』という文庫本を読みかけで放置しているが、その独特の“男性的さわやかさ”に注目した。
この“男性的さわやかさ”というのは、(まれにだが)、女性だけに見られる特徴である。
それでこの『クアトロ・ラガッツィ』という書名を見たとき、なにかピンとくるものがあった。
ぼくは本を買うとき、もちろん書評などを参考にするが、最終的“決断”は、いつも“勘”のみである。
昨日は、妻が留守で外食の必要があったので、雨で億劫だったが、吉祥寺まで出掛け、駅の本屋で、この本を買った。
集英社文庫2冊本のボリュームある本であった。
“クアトロ・ラガッツィ”が、天正少年使節を意味することを、ぼくは知らなかった。
喫茶店で樺山紘一氏の解説を見て、若桑氏が最近亡くなられたことを思い出した。
プロローグを読むだけで、このひとの“さわやかさ”がまた伝わってきた。
この本を書くことになった動機。
これは美術史家としての彼女の総決算の“最後の書”であると思われる。
★ 私は1995年、ちょうど日本の敗戦から50年たった年に、大学を1年休んでしばらくものを考えることにした。敗戦の年に10歳だった私にとって、戦後の50年めとは、自分の人生や、日本の運命について考えなくてはならない節目の年に見えたのである。
その時、彼女が1961年に横浜から船に乗ってマルセイユまで行った最初の外国旅行が復活したという。
同じ船に川田順造氏や蓮実重彦氏も乗っていたそうだ。
その船でのエピソード。
客室の世話をするコルシカ人のメートル・ドテル(客室主任)は、フランス政府留学生を尊敬し、若桑さんがイタリア語が話せるので、彼女も“名誉白人”の仲間に入れてくれた。
そして;
★ 彼は、香港から臭い匂いのする質素な身なりの中国の少女が私と同室になったことをひどく詫びた。むろん、私もひどくいやな気分で、一日部屋に帰らないことが多かった。
★ あるとき、彼女は、私が寝過ごして朝食を食べそこねるのではないかと心配して私を揺り起こした。私は英語もフランス語もイタリア語も通じないこの中国娘に辟易して、紙片にでたらめな漢文で「われ眠りを欲す」と書いた。彼女も大笑いして紙片をとり、「我が名は黄青霞」と書いた。私は起きて彼女を見たが、私たちがとてもよく似ていることにそのときはじめて気づいた。「われは香港の祖母のもとを出て今サイゴンの父母のもとへ行く。汝いずくより来たり、いずくへ行かんと欲するや」。「われは日本より来たり、ローマへ行かんと欲す。かしこにて学を修めることを願う」。青霞は私の肩を叩いて紙片を見せた。「われ汝の成功を祈る」
★ サイゴンで黄青霞は手をふって降りていった。メートル・ドテルは犬を追っ払うようなしぐさで、「マドモアゼル、追っ払いましたよ!」と言った。でも、私は傷ついた。青霞は私だったからだ。まぎれもなく私は黄青霞の「仲間」、「黄色い」東アジア人なのだ。その日から私は名誉白人の仲間には入らなかった。この経験を私はひそかに、「わが心の黄青霞」と呼んでいた。そして筆談の紙片を大切にもっていた。でもそのときは、それが自分にとってどういう意味があるのかをわかっていなかった。