このシーズンのこの時間、ぼくの部屋には朝日が差し込んでまぶしい。
自分に関心がないことをブログに書くというのは、矛盾である。
けれども、自分に関心がないことに、“世間”がおおさわぎしているとき、なぜぼくと“世間”とにはそれほどの“距離”があるのか(それほどの距離ができてしまったか)を考えるのは、無駄ではないかもしれない。
あるいは、自分に“関心がない”ことが、実は“関心をもつべきこと”を含んでいるかもしれない。
勘のよい読者は、すでにぼくがなにを書こうとしているかを、察しってしまったかもしれない(笑)
なにか漢字変換するのがむずかしい“タレント”の全裸騒動が、すでに忘れられる時、今朝のヤフー・ニュース・ランキングは次なる話題に集中している。
しかもこの“事件”については、天木直人ブログまで、“これは今世紀最大の言論封殺事件ではないか”という記事をあげて、以下のように書いた;
《北野誠事件は、単なる芸能ゴシップ問題ではない。権力と言論の自由、そして検察官僚の天下りが絡んだ、法と正義の危機の問題でもある。》
はぁー、“そういうこと”もあるのである。
ぼくには、天木氏がいうような、事実があるかどうかはわからない(天木氏ブログを読んでください)、つまり“ある”可能性もある。
ただ、ぼくにいえるのは、ぼくがどうしても、クサナギとかキタノとかいう人に、興味が“もてない”ということである。
“どうだっていいじゃん”と思う。
つまり、SMAPとか、キタノ(誠だろうが武)だろうが、ぼくには“つまらない”ひとなのである。
この世界には、生きているひとだけでたくさんのひとがいるわけである。
死んだ人を含めると、膨大である(笑)
なぜ、そういう人々のなかから、キタノとかSMAPというひとに、“特に関心をもつ”必要があるのだろうか。
今日のメディアは、ご丁寧に、北野誠というひとの“謝罪会見”の一問一答まで載せている。
ぼくも読んだが(笑)なにひとつ“おもしろい”ことは言っていない。
ぼくは、こういう無意味な言葉を読みたくはない。
あえて言えば、こういう言葉は、“ぼくの生き方の参考に”ならない。
“だから”、いつもいつもぼくが、不思議なのは、こういうタレントだか芸能人だか知らない“人種”の言葉を聞きたがる、“多数の人々”の方である。
ああ“多数の人々”。
昔の“知識人”が書いた言葉を思い出す;
《きみに、情熱を教えよう》
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