Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ニッポン核武装への道

2009-04-08 16:52:10 | 日記
さて、今日のニュース;

<自民・坂本氏「日本も核を」 党役員連絡会で発言>2009年4月8日12時36分

自民党の坂本剛二組織本部長が7日の党役員連絡会で、北朝鮮のミサイル発射について「北朝鮮が核を保有している間は、日本も核を持つという脅しくらいかけないといけない」という趣旨の発言をしたことが分かった。出席者によると、坂本氏は国連安全保障理事会で日米が唱える新たな決議の採択が難航していることにも「国連脱退くらいの話をしてもよい」との考えを示したという。
 坂本氏は8日、朝日新聞の取材に対し「日本は国際社会に対して国連を脱退するぞ、核武装するぞと圧力をかけるくらいアピールしないとだめだという例えで言った。現実に日本が核武装できないのは知っている。私は核武装論者ではない」と話している。
 自民党の細田博之幹事長は同日、朝日新聞に「誰も本気で言ったとは思っていない。核武装できるとも思っていない。特に問題視はしない」と語った。河村官房長官は記者会見で「非核三原則をもった国としてそのような選択肢はあり得ない」と述べた。
 日本の核保有については、06年に自民党の中川昭一政調会長(当時)が「核があることで攻められる可能性は低いという論理はあり得るわけだから、議論はあっていい」と発言。麻生外相(当時)もこれを受けて「他の国は(核保有議論を)みんなしているのが現実だ。隣の国が持つとなった時に一つの考え方としていろいろな議論をしておくのは大事だ」と述べるなど、論議を呼んだことがある。
(以上アサヒコム記事全文引用)


上記記事で、おかしなことを列挙する;
① 自民党の坂本剛二組織本部長は、“核武装論者でない”のに、“日本も核を持つという脅しくらいかけないといけない”と発言した。
矛盾である。
② 自民党の細田博之幹事長が、“「誰も本気で言ったとは思っていない。核武装できるとも思っていない。特に問題視はしない」と語った”のだから、“政治家が本気でなにかを言わない”(これをふつう“嘘”という)を認めてしまった。
③ 河村官房長官は、“非核三原則をもった国としてそのような選択肢はあり得ない”と述べたそうだが、““非核三原則”が神の決定ではないことを、河村官房長官は知っている(つまりそれは、変えられる)
④ 中川昭一政調会長(当時)とか麻生外相(当時)というひとは有名人である(笑)
こういう人々の“本音”が日本の核武装であることを知らないひとはいない。


ちゃんと、“中川昭一政調会長(当時)”の“現在”の発言も出ている;

<「核の議論もあっていい」=中川前財務相>
 自民党の中川昭一前財務相は5日、北朝鮮の長距離弾道ミサイル発射に関し、「発射基地にどう打撃を与えるのか。核兵器の運搬システムが完成するのであればどう対抗するのか。議論の一つに核に関する議論もあってもいい」と述べた。日本の核兵器保有も含め論議が必要との考えを示したとみられる。都内で記者団の取材に答えた。
 中川氏は党政調会長だった2006年10月に北朝鮮の核保有に対抗するため核武装を「大いに議論すべきだ」と発言、波紋を呼んだことがある。(了)
(時事2009/04/05-13:49)


今日の“あらたにす”には林香里東京大学大学院情報学環准教授の発言がある;

<「テポドン」報道はどんな「世論」を形成したか>
 北朝鮮の「テポドン2」は、結局、日本のはるか上空を通り過ぎて、危害は加えなかった。けれども、日本の言論空間には大きな“爆弾”を落としていったのではないか。

 ここ数日、日本のマスメディアは北朝鮮のミサイル情報一色に塗りつぶされた印象が私には残っている。つまり、一連のテポドン報道について、仮にもメディア各社に「方針」というようなものがあったとすれば、それは突出した「量」を紙面に許容するという、この点ではなかっただろうか。

○情報の「速さ」「量」だけでいいのか
 確かに、こうした緊急事態においては、一次情報を国民に速報するということも、重要な報道機関の使命である。
 その意味では「量」的な肥大も、一種の使命感に裏打ちされたもので、仕方のないことかもしれない。記者たちは全力投球の取材をしながら、全体的に「バランス」のとれた報道とか、「多様な意見」を反映させた報道とかを、実現させているつもりだったのだろう。
 しかし、「世間の注目」を理由に、片っ端から取材した情報を掲載すれば、結局は受け手(読者、視聴者)の側の判断力は麻痺する。
 しかも、結果的に「これはタダゴトではない」という漠然とした印象づくりに加担することになる。緊急時になると、むしろプロ魂が冷静な世論形成の妨げになることも、記者たちは少し心にとめておいたほうがいいのではないだろうか。
そんな「集中豪雨報道」の真っ最中の4月3日午後から5日夜にかけて、読売新聞は「日本の政府は、北朝鮮への制裁を、強めるべきだと思いますか、その必要はないと思いますか」、そして「北朝鮮がミサイルの開発を進めていることに、不安を感じますか」という質問項目を含む「世論調査」を実施した(読売4月6日一面と4面)。

○“日本核武装論”まで飛び出した…
 読売はこの「世論調査結果」を、一面見出しに加えていた。そこでは、「不安を感じる」が88%にのぼり、「日本政府は制裁を強めるべき」と答えた人も78%に上ることを挙げ、こうした結果に対して「世論の大勢は、日本政府が検討している対北朝鮮の独自制裁強化を支持していることがわかった」という「結論」を出している。
 さて、これは「世論」と言えるのだろうか。この結論付けは妥当だろうか。
 私は、それに懐疑的な側にいるのだが、こうした世論調査の是非については、また稿を改めて述べるとしよう。
 今回のテポドン騒動と、その報道はまだまだ尾を引きそうだ。きょう(7日)は、北朝鮮が発射時の映像を公開した。
 また、自民党の7日の役員連絡会では、坂本剛二組織本部長が北朝鮮のミサイル発射に対して、“日本も核保有すべきだ”と述べたというニュースも入ってきた。
 これからもまだまだ新しい情報が出てくるだろう。今後の行方を見守りたい。
(以上引用)


“私は、それに懐疑的な側にいるのだが”というのは、ずいぶん“お上品な”言い方である(笑)
東京大学の准教授ともなれば、なかなか“本音”が言いづらいらしい。
“今後の行方を見守りたい”などと言っている場合であろうか。
しかし、この程度のこともマスメディア(内知識人)は言えないのである。


一方、ブログでは、天木直人氏が、<北朝鮮ミサイル発射が突きつけたもの>を3回にわたって掲載している、その最終回から引用する;

北朝鮮の核の脅威を、「武力で抑止する」前提に立てば、日本も核兵器を持たなければならないのだ。これは誰もが認めざるを得ない現実である。
 繰り返して言うが、もし、「武力で北朝鮮の核ミサイル脅威に対抗する」のであれば、それを上回る核兵器を日本は持たなくてはならない。中途半端な防衛力ではむしろ危険が高まる。
 日本が核兵器を持つことを米国は決して許さないだろう。国際社会は日本の核保有に懸念を有するだろう。日本は孤立するだろう。今から核武装を行なえば多額の予算が必要となり、ただでさえ苦しい国民生活は一層圧迫される。
 しかし、これらのマイナスをもろともせずに、一気に核武装に走らざるを得ない。「武力で北朝鮮に対抗する」には、それしかない。
 問題はその後である。それでも日本の安全保障は確保されない。一発でも北朝鮮の核ミサイルを撃ち損じれば、人口が密集し、機能が東京に集中している日本が受ける打撃は壊滅的だ。
 政府は、そして国民は、その犠牲を覚悟できるか。
 しかも問題はまだある。最後の究極的な問題は、孫崎享氏がその著「日米同盟の正体」(講談社現代新書)で述べているように、「核ミサイルの脅威は北朝鮮だけではない。ロシアも中国もある・・・」のだ。
 つまり核ミサイル戦争を想定した場合、北朝鮮のみに適用できる装備では不十分なのである。
 しかし、核大国のロシア、中国を仮想敵国としたミサイル防衛は、もはや日本は不可能なのだ。何があっても日本は核戦争で国土の広い、人口の多いロシアや中国に勝つ事はできない。
 今回の北朝鮮のミサイル発射事件に抗議して右翼が街宣車で弱腰日本を怒鳴っていた。主婦らしき女性が、こんな情けない日本でどうするとわめいていた。それをテレビが映していた。
 その一方で評論家が、食うに困る最貧国の北朝鮮が世界で十指に入る核ミサイル保有国になったのだ、この高揚ぶりは、WBCで優勝して国威発揚している日本とは比較にならない、と言っていた。
 見ているがいい。核兵器がテロに渡る事が避けられないと見るや、米国は核の全廃を世界に訴えるようになる。すでに米国はそう言い始めている。
 北朝鮮のミサイル実験が突きつけたもの、それは憲法9条こそ最強の安全保障政策であるという事である。
 今こそ日本は世界に率先して平和外交の重要性を訴えるべきだ。
(以上引用)



さて、ぼくは日本の代表的メディアや、そこでなんだかんだ言っている“言論人”に公開質問状を出したい。

質問は簡単である;“日本は核武装すべきですか?”

有名人でない“あなたが”が答えてくれても、かまわない(笑)


ぼくの”希望”を言えば、あなたがくだらない”リアル・ポリティックス”を超えてくれることを、望む。

そのためには、あなたの、”態度の変更”が必要である。

一方通行路

2009-04-08 11:59:48 | 日記

ベンヤミンの『一方通行路』の解説で、訳者の浅井健二郎氏は、そのスタイル-方法を“アフォリズム・モンタージュ”と呼んでいる。
これらの文章を書くことによって、ベンヤミンは“転位”したと。

“アフォリズム”も“モンタージュ”も、多義的(あいまい)な言葉である。
(もちろん“モンタージュ”は映画において重要な方法である)

それは少なくとも、整然とした(直進する)“ロジック”ではない。
“アフォリズム・モンタージュ”というのが、何であるかを考える(知る)ためには、まさにこの『一方通行路』を読めばよいのだ。

だが、ぼくにとっても、これらの“断片のような文章”は、かならずしも読みやすくはない。
あるいは、そこでのベンヤミンの“視線-関心”が、ぼくにすべてフィットするのでもない。

その“言葉”は、フランス的な気がきいた流麗さとも、日本的なあらかじめ共有された情感ともちがっている。
書かれた時代も“戦前”であり、そこにはレトロなセピア色の香りがある(しかし、この感じはベンヤミンがこれらを書いた“その時”にもあったものだろう)


ぼくにフィットした部分から、いくつか引用しよう;

★ 浮き彫り。愛している女といっしょにいて、話をする。その後、何週間か何ヶ月が経ち、もうその女と別れてしまってから、当時話題にしたことを思い出す。するといまやあの会話のモティーフは、陳腐で、どぎつくて、浅薄なものに感じられる。そしてそのとき分かるのだ ― 愛情から、モティーフのうえに深く身をかがめた彼女こそが、私たち男のまえで、そのモティーフを陰で被って保護してくれたのであり、そのおかげで思考が、浮き彫りのごとく、皺という皺、隅という隅にいたるまで生気を帯びたのだ、ということに。私たち男が、いまのようにひとりきりだと、その思考は、私たちの認識の光に照らされて、平板な、わびしく陰影のないもの見える。<骨董品>

★ ハイデルベルク城。瓦礫を天に向かって聳え立たせている廃墟は、よく晴れた日には、普段の倍も美しく見えることがある。それは、まなざしが窓やアーチの先端部のところで、流れゆく雲に出会うときだ。破壊は、それが大空に繰り広げる無情なる劇を通じて、この瓦礫の永遠性を強める。<旅の記念品>

★ 天。夢の中で私は、ある建物から歩み出て、夜空を眼にした。強烈な光輝がそこから発していた。というのも、満天の星だったのだが、いくつかの星を結びつけるときに私たちの頭のなかにあるイメージが、目に見えるものとなって現れていたからである。一匹の獅子、ひとりの乙女、ひとつの天秤、そのほか多くのものが、密集した星の塊となって、地上をじっと見下ろしていた。月は見えなかった。<旅の記念品>

★ ある夜、私は激しい痛みを覚えながら、ベンチに座っていた。向かい側のもうひとつのベンチに、二人の少女が腰を下した。内緒話をしたいらしく、囁き声で話しはじめた。近くには私のほかに誰もいなかった。そして、どんな大声で話されたとしても、私は彼女たちのイタリア語を理解できなかっただろう。私には不案内な言葉で、必要もないのに囁き声で交わされる会話を聞いていると、痛む箇所にひんやりとした包帯を巻いてもらっているような感じを覚えずにはいなかった。<イタリア語話します>

★ 考えられたままに表現された真理ほど、貧しいものはない。そうした場合、真理を書きとめても、それは下手な写真にすらなっていない。しかも真理というものは、文字というレンズのまえでは、そしてこちらが黒い布に頭をつっこんでいるときには、おとなしく、本当に愛想のよい顔で、こっちを見つめてくれたりしないのだ(こちらのことを好いていない子供や女のように)。真理が望んでいるのは、突然に、あたかも一撃をくらったかのように、自己沈潜から引き出されること、騒音であれ音楽であれ助けを求める叫び声であれ、そうした物音に驚かされて飛び起きることなのだ。<応急技術援助>

* 以上引用は、『ベンヤミン・コレクション3;記憶への旅』(ちくま学芸文庫1997)


無駄づかいはやめましょう

2009-04-08 08:57:28 | 日記
昨日のニュースだが;

【ワシントン=鵜飼啓】ゲーツ米国防長官は6日、記者会見し、最新鋭のステルス戦闘機F22の新たな発注中止やミサイル防衛の一部計画取りやめなど、高コストや無駄の多い事業の中断をオバマ大統領に提言すると発表した。日本政府はF22を次期主力戦闘機(FX)の最有力候補としており、導入計画の見直しは必至だ(アサヒコム2009年4月7日10時57分)


さて今日の話題。
天声人語である(笑);

▼ 全日本ろうあ連盟が、創立60周年の記念映画「ゆずり葉」を作った。世代を超えて引き継がれる、ろう者差別との闘いを、切ない恋や親子の愛を通して描いている。6月から各地で上映会がある
▼ 聴覚に限らず、ハンディを負う人が生きやすい社会は高齢者にも優しい。日本語の字幕を追いながら、ユズリハの営みを一人でも多くに伝えたいと思った。
(以上引用)

たいへん立派なことが書かれている。

そうだろうか?

ぼくはもちろん、“聾唖者(ろうあしゃ)”の実体を描いた映画が聾唖者自身の手でつくられ、それをひとりでも多くのひとが“見る”ことはよいことだと思う。

けれども、こういう話題を読むときにいつも“ひっかかる”ことがある。

それをうまく整理できないが、いちばん強く感じる点をあげておく;

★ “聾唖者”やいろいろな“障害者”は、映画のなかにだけいるわけではない。ぼくたちは、“日常”においても、“彼ら”に出会っているはずだ。なぜ彼らを映画で見なければ“認識”できないのか。

★ “聾唖者”やその他の“障害者”(交通事故や脳梗塞から復帰して身体や精神がマヒしたようなひとも含む)というような人々の“特殊性”は理解されなければならない。彼らが“ハンディ”を背負うなら、“健常者”は彼らを“助ける”べきである。しかし、“健常者と障害者”の差異は固定したものではありえない。健常者も潜在的な“障害”を抱えているし、いつしか障害者と成りうるからだ。

★ “映画”には、映画としての“自立した評価”があるべきである。その映画の“テーマやつくり手が正しければ”、その映画が“よい映画”なのではない。ここに(映画に限らず)“批評”の意味が(必要性が)ある。


天声人語氏のように、“ヒューマニズムならすべて良し”とするような感性-論理-モラルこそ、“ヒューマン・ファクター”の具体性を感受することを阻害(疎外)しているのだ。



次は読売・編集手帳である(笑)
今日の話題は“名刺”;

◆顔と名を記憶するべく、もらった名刺に相手の特徴をメモしておく人がいる。<落ちていた俺の名刺の裏に「ハゲ」>。何年か前、日本自毛植毛センターが募った「毛髪川柳コンテスト」の入選作にある
◆きのうの昼下がりに地下鉄を降りるとき、後ろから新社会人とおぼしき青年が脱兎のごとく脇を走り抜け、危うく突き飛ばされそうになった。約束の時間が過ぎていたか。彼のポケットにも小さな泣き笑いの種、初々しい名刺が納まっているだろう◆転んでけがをしないように。あわてて名刺を落とさないように。落とすなら、「イケメン」とでも書いた1枚を…と、らちもない忠告を内心つぶやく間もなく、青年の姿は改札口に消えていた。
(以上引用)


ぼくも名刺を渡すと、その裏に“ハゲ”と書かれるだろうから、名刺を渡さない。
”イケメン”と書かれることは、けっして、ないのである。

この読売編集手帳を書いているひとというのは、どうしてこうも“サラリーマン”なのであろうか。
かくいうぼく自身も30年以上サラリーマンを“やった”のである。
しかし、自分が(客観的に)サラリーマンであるから、心の底まで“サラリーマンである”必要はないのである。

せめてその程度の“複雑さ”は、人間であるのだから持ちたい(持続したい)ものである。