Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

最後の空、もうひとつの場所

2009-04-14 21:42:27 | 日記
ぼくは昨年の暮れから今年初めにかけて、今福龍太氏と鵜飼哲氏の本を読んでいた。

その“時期”に、この世界でなにが起こっていたか、よもや忘れることはできない。

“すべて”への健忘症が、“この社会を”、“この世界を”覆いつくしていても。

ぼくは、なにひとつ可能性が見えなくても、別の場所を“夢みる”。
ぼくは“このような場所”で、死にたくはない。

今福氏と鵜飼氏の本からいくつかの引用を、Doblogに書いたのだが、その言葉はDoblogトラブルによって現在表示されていない。

ゆえに、このブログに再録する。

★ ふつうの旅では、土地の上を人が移動する。でもぼくが考えているのは、ひとりの人の上を、いくつもの土地が移動してゆくもう一つの旅についてだ。「住み」つつ絶えず移動すること。あるいは複数の「住むこと」を積み重ねていくこと。

★ ぼくの頭のなかに、一瞬のうちに、あの町並み(バリオ)が蘇ってきた。それは確かにメキシコ人の庶民たちの貧しげな家々と街路の連なりのイメージでもあったが、それはまた言葉にならないなつかしさの感覚のようなものでもあった。匂い、もの音、叫び声、乾いた埃、太陽の強い輝き、人々がたむろし、離散するムーブメント・・・・・・。リンのいう<バリオ>が、そうしたチカーノの日常生活にとってのあらゆる感覚的要素を包み込んだトポスであることを、ぼくはすぐに了解した。そうだ、それは確かに実在するとも言えるし、イマジネーションのなかの集団表象的な空間だとも言える。

★ 生きること、住むこと、食べること、移動すること、死ぬこと―こうした生の過程を全的に一つのアイデンティティへと収束させてしまうのではなく、バリオはいかなる生の断片をも痛みとともに受け入れることができる。つまりそれは、人間の生における文化的コラージュ性の原理を体現しているともいえるのだ。それらの文化の断片こそをいま書き続けねばならない。総合したり、分類したり、組織したりすることなく、バリオの住人の小さな物語を、ひとつひとつ、あるがままに。

<“バリオの詩学”―今福龍太『荒野のロマネスク』>



★ 知識人は難破して漂着した人間に似ている。漂着者は、うちあげられた土地で暮らすのではなく、ある意味で、その土地とともに暮らす術を学ばねばならない。このような知識人は、ロビンソン・クルーソーとはちがう。なにしろクルーソーの目的は、漂着先の小さな島を植民地化することにあったのだから。そうではなくて知識人はマルコ・ポーロに似ている。マルコ・ポーロは、いつでも驚異の感覚を失うことはなく、つねに旅行者、つかのまの客人であって、たかり屋でも制服者でも略奪者でもないからである。
<エドワード・サイード『知識人とは何か』― 今福龍太『クレオール主義』“水でできたガラス”より引用>



★ ぼくはひとりぼっちだ、ぼくはひとりぼっちではない。ぼくは耳を澄ます・・・・・・ぼくを構築したすべての砂、ぼくはそれらを知っている。猛り狂う血、数々の筋肉、毛深い四肢、鋭い歯をそなえた、三角形の重たい顎。下等な種族がぼくのなかにいるのだ・・・・・・(ル・クレジオ)

★ 彼はあるときとつぜんやってきて、言葉を教えてくれともいわず、ただひとこと、自分を見かけても気にとめないでほしい、と驚くほど正確なタラスコ語で言っただけで、彼の方から私たちに近づいてくることはほとんどなかった。私たちは、彼の姿が見えないぶん、かえって彼の存在を強く感じはじめるようになったのです。なぜかといえば、彼はかならず毎年、雨の季節が終わる直前の、村の外れの道々に水溜りが点々としているころ、決まって山側の道から、こちらの方角に降りてきました。けれどけっして直接村に入って来ることはせず、村のまわりの丘や林のなかで景色や動植物につきあって道草をしているのです。(・・・・・・)<ツィツィキ・サピチュ>(小さな花)という彼の発音には、風が吹き抜けているような透明さがありました。それは誰も使わない、誰の口からも発せられたことのない音で、それが私たちの言葉だと気づいたときの驚きはいまだに忘れられません。姿の見えない言葉の断片が、林の奥から風に乗って運ばれてきたらあんな音になったでしょうか(タラスコ族のある古老の声)

★ ぼくの真実に近づくために、ぼくには直感および言語という貧しい道具しか持ち合わがない。だがある程度は、これらの道具でぼくにとっては十分なのだ。確実性におけるそれらの貧しさは、偶然性における豊かさである。ぼくはぼく個人として語るべきではない。ぼくのなかにいる他者たち、がらくた=他者、物体=他者たちを語るがままにすべきだ。ぼくの道具が合理的でないにしても、少なくともそれらが与えてくれる感動のおかげで、ぼくはぼくの意識の未知の領域を、これは半ばは喜び、半ばは苦労なのだが、ジグザグに進むことができる。人は知を持つと同時に強くあることはできない。ぼくはといえば、弱さを、眼差しと言葉の孤絶、甘美なる埋没、滅亡の豊饒さを選びとる(ル・クレジオ)

<以上すべて今福龍太『荒野のロマネスク』から引用>



★ 一つの共同体を特権的に選び取ること、この民族への帰属如何は生まれで決まっているのだが、にもかかわらず誕生以外の仕方で選び取ること、このような選択は、理屈によらない同意の祝福の賜物だ。そこに正義のはたらく余地がないのではなく、この正義を実現し、この共同体を徹頭徹尾擁護せしめるものが、感情的、感覚的、官能的といってもいいような魅力の、召命の力なのだ。私はフランス人だ。しかし、全面的に、判断抜きに、パレスチナ人を擁護する。道理は彼等の側にある、私が愛しているのだから。だが、不正のためにこの人々が浮浪の民にならなかったとしたら、この人々をはたして私は愛していただろうか。
<ジャン・ジュネ“シャティーラの四時間”>


上記の引用を受けて鵜飼哲氏は書いている;

★ この「愛」の強度を、フェダイーンに対するジュネの関心が本質的に同性愛的なものであることを抜きに説明しようとすることは無意味であろう。だがそれは、本来非政治的な、「私的な」性格のこの「愛」が、彼の「公的な」政治判断を外側から動機づけたという意味ではない。この「愛」自体に内在する、そこでは公/私という対立が安定して機能することを止めるような別種の政治性こそが問題なのであり、私たちにいまだ欠けているのはこのような「政治」を語りうる言語なのだ。
<鵜飼哲『抵抗への招待』みすず書房1997>

★ 蠅も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。
<“<ユートピア>としてのパレスチナ”-『抵抗への招待』>

★ 「抵抗への招待」、それはつねに他者からやって来る。誰もその発信者にはなれないがゆえに、誰もその宛先から排除されることはない。
<『抵抗への招待』あとがき>



そしてぼくはサイードを読んだ;

最後のフロンティアが尽きた後、
わたしたちはどこに行けばよいのか
最後の空が果てた後、
鳥はどこを飛べばよいのか
最後の息を吸った後、
草花はどこで眠ればよいのか
<マフムード・ダルウィーシュ“The Earth is Closing on Us”>

★僕らがいるのはどうやら最後のフロンティアであり、本当に最後の空を見ているらしい。その先には何もなくて、僕らは滅びていく運命にあるらしいことはわかっているのだけれど、それでもまだ、僕らは「ここから、どこへ行くのだろう」と問いかけているのです。僕らは別の医者に診て貰いたい。「おまえたちは死んだ」と言われただけでは、納得しません。僕らは進み続けたいのです。
<エドワード・W・サイード『ペンと剣』 ちくま学芸文庫2005、オリジナル1994>



そしてぼくはデュラスを読んだ;

★でも、気が狂ってるというのは、やはり悲しいことですわ。もしほかの人たちが気違いだとしたら、その中でわたしはどういうことになるのかしら?
<デュラス1967『ヴィオルヌの犯罪』>

★黄昏は一年じゅう同じ時刻に落ちてきた。それはとても短く、ほとんど荒々しかった。雨季には何週間も空が見えず、黄昏は月の光さえ通らぬ一様な靄に包みこまれていた。乾季には反対に空は裸で、全体をむきだし、どぎつかった。月が出なくても夜が明るかった。そしてものの影が、地面にも水面にも道の上にも壁の上にも、同じようにくっきりと映るのであった。

★ 毎日の昼間のことはよく覚えていない。陽光の激しさがものの色を失わせ、すべてを圧しつぶしていた。夜のことは覚えている。青い色が空よりもっと遠くに、あらゆる厚みの彼方にあって、世界の奥底を覆いつくしていた。空とはわたしにとって青い色をつらぬくあの純粋な輝きの帯、あらゆる色の彼方にある冷たい溶解だった。ときどきヴィンロンでのことだが、母は気持ちが沈んでくると、小さな二輪馬車に馬をつながせて、みんなで乾季の夜を眺めに野原に出た。あれらの夜を知るために、わたしには運よくあのような母がいたことになる。空から光が一面の透明な滝となって、沈黙と不動の竜巻となって落ちてきた。空気は青く、手につかめた。青。空は光の輝きのあの持続的な脈動だった。夜はすべてを、見はるかすかぎり河の両岸の野原のすべてを照らしていた。毎晩毎晩が独自で、それぞれがみずからの持続の時と名づけうるものであった。夜の音は野犬の音だった。野犬は神秘に向かって吠えていた。村から村へとたがいに吠え交わし、ついには夜の空間と時間を完全に喰らいつくすのだった。

<『愛人(ラマン)』(清水徹訳・河出文庫1992、オリジナル1984)>



そしてぼくはル・クレジオを読んだ;

★ 言語もまた、一個の神秘、一個の秘密である。ロドリゲス島の<英国人湾>に閉じこもって過ごしたあのように長い歳月を、祖父はただ地面に穴を掘り、自分を峡谷に導いてくれる印しを探すことだけに費やすわけではない。彼はまた一個の言語を、彼の語、彼の文法規則、彼のアルファベット、彼の記号体系でもって、本物の言語を発明する。それは話すためというよりはむしろ夢みるための言語、彼がそこで生きる決意をした不思議な世界に語りかけるための言語である。

★ 彼の夢は死んではいない。それはただ、玄武岩やヴァコアや海風や鳥の夢と一つになっただけである。大海原のほとんど黒に近い青のなかに、礁湖から発しているように見えるどんよりとした光のなかに、それはある。私が、来る日も来る日も、生き直したいと願ったのは、この夢である(略)彼が書いた―あるいは私が書いたのか、もうわからない―これらの言葉を除いては、彼のものは何も残っていない。様々な痕跡や目印は岩に付けられた掻き傷にすぎず、風雨がたちまち摩滅させる。峡谷は崩れ、まもなく一つの瘢痕にすぎなくなるだろう。彼がその蔭に腰を下し夕べの鳥たちが渡るのを眺めながら煙草を吹かしたタマリンドの木は、すでに相当樹齢を重ねた。この次サイクロンがやって来れば、この木はもたないだろう・・・・・・

<ル・クレジオ『ロドリゲス島への旅』1986>



そして辺見庸を読んだ;

★ かつてエチオピアの奥地の溶岩台地をジープで何日も旅したときに出逢った夢のように美しい塩湖。プルシャンブルーのあれはアフレラ湖といったっけ。そこにはいくつもの流れ星が呑まれていく、劫初か劫末のような未明の風景を、どうせ遠からず死ぬ身だ、もう一度見たいと思わないか。愚にもつかぬ政治を云々して、あたら残り少ない時を失うのではなく、あり金はたき足りなければ借りもして、ビッコをひきひきアフレラ湖目指して最後の旅にでるほうがよほど賢明というものではないのか。物言うな、かさねてきた徒労のかずを数えるな。ただ、終わりの旅に発て!

★ まったくそう思います。けれども、ぼくはかさねてきた徒労のかずはかぞえないけれども、これまでの徒労を否定しはしません。すべては徒労でよかったのです。何かを成就してたら・・・・・・。ああ、たまったものではない。また政治がはじまってしまうもの。

<辺見庸“狂想モノローグ”―『自分自身への審問』2006>