Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

映画と人間の未来

2009-04-01 17:00:04 | 日記
ぼくがこのブログに書きたいことのひとつは、自分が見た映画の“感想”である。

ぼくは、映画館で映画をほとんど見ていないし、レンタルを利用することもないが、ケーブルテレビ・チャンネルで映画をしょっちゅう見ている。
(昨年映画館で見た映画は「ダーク・ナイト」と「スカイ・クロラ」だけである)

もちろん、圧倒的につまらない映画が多いのだが、たまに、びっくりすることがある。
また昔、映画館で見た映画、テレビで見た映画をまた見て、ちがった感想を抱くことがある。
たまにだが、昔自分でDVD録画した映画、DVDで購入した映画を見直すこともある。

けれどもこの“感想”を書くことは(ぼくには)とてもむずかしい。
なかなか書けないのだ。
昨夜もレオス・カラックスの「ポーラX」を見たが、感想を書くのがむずかしい。

映画を言語化することは困難である、ぼくはそれに成功した例をあまり知らない、よく目にする映画評は、ただその“筋”を述べているだけである。<注>


Doblogトラブル中、gooへの移行を決断できない時期に見た映画「ファーゴ」についての感想がのこっている。
ぼくはこのブログ原稿を、竹田青嗣氏の新刊『人間の未来-ヘーゲル哲学と現代資本主義』との“対比”において書いたのだが、あまりうまく書けなかった。

つまりこの“対比”の根拠についてだ。
それは、もちろん、この竹田氏の本を読んでいた時に、“たまたま”「ファーゴ」という映画を見たからにすぎなかった。
しかし、ぼくがこの“対比”の文章を書いたのは、“人間の未来”という言葉に反応したからでもあった。

ぼくは、竹田氏の本よりも、「ファーゴ」の方が、“人間の未来”について考えるには適切であることを“立証”しようとした。

この“立証”には失敗したが、「ファーゴ」の感想部分については愛着があるので、ここに出すことにした。



A;人間の未来-1

まず、Wikipediaの「ファーゴ」概要を添付する;

『ファーゴ』(Fargo)は1996年製作のアメリカ映画である。ノースダコタ州の都市ファーゴとその周辺を舞台に、誘拐殺人事件をめぐる人間模様を描いたブラックコメディ風サスペンス作品。誘拐はコーエン兄弟が好んで描くモチーフである。
アカデミー主演女優賞(フランシス・マクドーマンド)・脚本賞、またカンヌ国際映画祭監督賞を受賞している。
(以上引用)


まったく映画の“筋”を説明するほどやっかいなことはない(笑)
全員に強制的にこの映画を(この映画だけでなく)見せたいと思うよ。
だから“筋”は言わないで、この映画の“本質”だけを問題にしたい。

誘拐事件が起こる。
核心は二つの“世界観”の対立である;

A:犯人たち=カネ、カネを得るための様々な工夫(騙し)、その実行に伴う予想外の展開、暴力と殺人、欲求を果たすためのみのセックスetc.
B:この事件の犯人を逮捕する女性警官=“こんなに美しい日なのに、なぜあなたたち(犯人たち)は、わずかなおカネのために人を殺すのかしら”

ぼくは、この両端の“世界観”のどちらも支持しない。
そしてこの映画は、その両端の世界観“のみ”を描いていない。

その“細部”において、その“両端の世界観からはみ出すもの”を描いている。

(2/26記)



B;人間の未来―その2;間奏

ぼくたちの<言葉>は<暴力>に包囲されている。
ぼくたちの<言葉>は、常に、暴力のなかから発せられている。

もちろん、<言葉>について考える必要がある(言葉とは何か?)
もちろん、<暴力>について考える必要がある(暴力とは何か?)

アイロニーは、“言葉の暴力”という事態としてもある。

映画「ファーゴ」は、この暴力の日常を描いている。

たとえば、ある主婦の家事の合間の“リラックス・タイム”。
彼女は、漫然と“テレビ”を見て、意味もなく微笑んでいる。
ちょっと外を見ると、覆面をした男が、窓をぶち壊そうとしている。
彼女は、この暴力にとっさに対応できない。

そんな暴力が、自分に“リアルに”ふりかかるとは、思っていなかったからである。
つまりどんなにテレビや映画で暴力シーンを見ていても、それが自分を襲う可能性を空想することはあっても、そんなことは自分には起こりえないと、どこかで“信憑”している。

自分に暴力がふりかかったと“認識”した後でも、彼女の行動は徹底的に“ナンセンス”(喜劇的)である。
彼女は誘拐され、結局殺されるのだから、彼女自身にとってだけでなく、それを見るわれわれにとっても、この光景はまったく“喜劇的”ではないのである。

しかし(たとえば)誘拐されて、誘拐犯たちのアジトに拉致されて車から降ろされた時、頭に頭巾をかぶせられた彼女が、逃げようとヨタヨタ駆け回るシーンで、われわれ観客は“犯人と共に”笑をこらえることができない。

ぼくは、ここでの“笑う”観客が不謹慎だなどということを言っているのではない。
暴力もまた、“笑える”ことであるという事実を述べている。

なにが、“人間的”であり、なにが“非人間的”であるのか。
ぼくたちは、いかにして“あらゆる暴力”を批判-抵抗するのか。
そういう“問い”には、スマートな解答などない。

しかし、“スマートな解答などない”という認識を持つか否かは、やはり決定的にちがっていると思える。

(2/26記)


C;人間の未来-3

最初に考えた竹田青嗣の『人間の未来-ヘーゲルと現代資本主義』のレジュメを書く気力が薄れた。

ここで、“結論”を言ってしまえば、現在“未来構想”を言っている人々の“未来”というのが、ぼくには納得できない。
未来構想をいう人々は、現在までの“理論”(哲学的な社科学的な)にもとづいた“現状分析”により、その構想を語る。

しかし、ぼくの読んだ範囲では、“過去の理論”に対する理解はそれなりの水準ではあるのだが、それを“応用した”現状分析になると、いきなりpoorになる。
現状分析がpoorなら、未来構想もpoorになる。
つまり、彼らには“現状”が見えていないのだ。

たとえば、“資本主義”を批判しつつ擁護する竹田青嗣に見えていないのは、この現在の“資本主義化した人間”の実存そのものである。

“大学”にいる人々には、“見えない”のであろうか。
たぶん、“大学の外”では、暴力は“彼等の想像力”よりリアルである。

また、“学の内部”のはなしならば、竹田青嗣は“ヘーゲルより”(いつまでたっても)poorである。
あるいは、加藤典洋は“村上春樹より”(村上春樹に問題があるにしてもだ;笑)いつまでたってもpoorである。

たしかに、“現在の多数”が竹田氏のような(竹田氏を“最高水準”にするような;笑)“小市民”でしかなくとも、<未来>はその延長上に構想されるだけのものであろうか。

“批評”というものがpoorなのではない。
映画や哲学や文学を批評できない現在の“批判の言葉”がpoorなのだ。

(2/27記)



<注>

“映画を言語化することの困難性”ということは、それが“映像(イメージ)と音である”という、あたりまえのことなのだ。

映画は、“筋”でも“テーマ”でも“スターたちのもの”でもない。
けれども、どんな映画にも、“筋やテーマ”が“ない”わけではないし、スターの魅惑がないわけでもない。

それはスクリーン上の光と影のゆらめきである(ゆらめきでしかない)

映画が、“無声”からはじまり、“音”を獲得した歴史についても考える必要があるだろう。
ぼくには無声映画体験はないが、現在のハリウッド的映画における“音への無神経さ”は耐えがたい。

それは、効果音やテーマ音楽の次元にあるばかりではなく、登場人物の会話や声自体にある。
あるいは“街の(生活の)喧騒”の表出自体にある。

光があるから影があり、静寂があるから音が愛しいのである。


朝のことば

2009-04-01 09:40:55 | 日記

先週金曜日に旅行に出て以来、昨日まで外出が続き疲れた。
さっぱりブログに書くことが、思い浮かばないので、過去のブログから自分の言葉と他者の言葉を引用して誤魔化そう;



A;その半開きの扉を通って。

その半開きの扉を通って、外に出る。
あと13歩くらい歩けば。
光、街路があり、車がときおり行き交い、ひとも通り過ぎる。
たぶんここは、今日もこのようにある。
でもこれは写真である。
ぼくはこの13歩を歩くわけにはいかない。
たぶんあの丘のうえに展開する古い街は
1時間ちょっとで1周できる
石畳を踏んで、入り組んだ路地をぬけて、
石組みの低いアーケードをくぐり
かならず道は中央広場に通じる、高い塔のある広場のざわめきへと
この街の外縁部でははるか新市街が見下ろせる
人々が生きる街が
(warmgun)



B;生はひとつのナラティブである

この言葉はジュリア・クリステヴァがハンナ・アーレントについて書いた本のサブタイトルである。
ナラティブ(narrative)という言葉はぼくにはなじみのない言葉だった。
電子辞書で引くと=(事実に基づく)物語、話;物語文学、語ること、地の文などとある。
ぼくは思うのだが、なにかを書く人はみな“自叙伝”を書いているのだ。
ぼくのこのブログでさえも。
人間の“オリジナリティ”というものは、周辺の他者や社会や自然環境によって“つくられる”のである。
“彼”はそういう意味では、いつも“受身”である。
けれどもその世界との関係のなかから、“彼の”だれとも異なった“世界”はいつしか出現する。
それが“言葉”となって定着され、印刷され、“残る”かどうかは偶然である。
しかしだれもが自叙伝を書く。
誰の生も《ひとつのナラティブである》
(warmgun)



C:裸のこどもたちほど裸のものはない。

それは端的な肉である。
それは、なにか、この世界の直接性、この世界には直接の生というものがあったことを思い出させる。
しかし、“それ”はたんなる肉ではない。
それは、おどろくべき個体=個性である。
彼女-彼はちっともかわいくない、だが、彼らは大人たちより人間的に見える。
つまり“人間”と呼ばれる、動物の一種に見える。
つまり、剥き出しの“人間”が見える。
なんとぼくたちは、幾重もの鎧を重ね着したことか。
ぼくたちの肉は、もはや透明なラップで何重にもくるまれてしまった。
どうして裸になっても裸でないものを欲望することが可能だろうか。
だから精神が言葉が要請されるのであろうか。
しかし言葉は、この突破できない皮膜にはじかれて、いつもその表面をすべる。
最高の言葉の使い手だけが、かろうじて、そこに亀裂を走らせるのだ。
赤裸な、赤裸々な。
傷口。
赤裸な言葉によって、ぼくたちは、この巨大なまどろみから、一瞬さめる。
そしてまた、大いなる眠りに入る。
(warmgun)



D:無人島

つまりドゥルーズとは無人島のような人だったというふうに、思い浮かべることができよう。
存在の意味のなかで、それに侵食されつつ、その波と戯れる孤島。
陽射しのなかで透明に透視される海底線に囲まれて屹立する緑の孤島が見える。
すべてはノイズであると同時に意味であったと。
(warmgun)



E;中上健次

★ 朝早く女が戸口に立ったまま日の光をあびて振り返って、空を駆けて来た神が畑の中ほどにある欅(けやき)の木に降り立ったと言った。朝の寒気と隈取り濃く眩しい日の光のせいで女の張りつめた頬や目元はこころもち紅く、由明(よしあき)が審(いぶ)かしげに見ているのを察したように笑を浮かべ、手足が痛んだから眠れず起きていたのだと言った。女は由明が黙ったままみつめるのに眼を伏せて戸口から身を離し、土間に立っていたので体の芯から冷え込んでしまったと由明のかたわらにもぐり込み、冷えた衣服の体を圧しつけてほら、と手を宙にかざしてみせた。どこに傷があるわけでもないが、筋がひきつれるような痛みが寝入りかかると起こり出して明け方まで続いたと女は由明に手を触らせた。
<中上健次『重力の都』(新潮文庫1992、オリジナル1988)>



F;マルグリット・デュラス

★子供たちがとても幼かったころ、母親は、ときどき、子供たちを乾季の夜景を眺めに連れだした。彼女は子供たちにこう言う、この空を、まるで真っ昼間のように青いこの空を、見渡すかぎり大地が明るく照らされているのをよく見てごらん。それからまた、耳を澄ませてよく聴いてごらん、夜のざわめきを、人びとの呼び声、笑い声、歌、それからまた、死にとり憑かれた犬の遠吠えを、あれらの呼び声はみんな、孤独の地獄を語り、同時にまたそういう孤独を語る歌の美しさを語っている。そういうことも、耳を澄ましてちゃんと聴かなければ。普通は子供たちには隠しておくことなのだけど、やっぱり逆に、子供たちにはっきりとそれを語らなければいけない、労働、戦争、別離、不正、孤独、死を。そう、人生のそういう面、地獄のようであり、同時にまた手の打ちようもない面、それもまた子供たちに知らせなければいけない、それは、夜空を、世界の夜の美しさを眺めることを教えるのと同じことだった。この母の子供たちは、しばしば、母の語る言葉がどういう意味なのか説明してくれと求めた。すると母はいつも、子供たちに、自分にはわからない、それはだれにもわからないことなんだと答えた。そして、そういうことも知らなければいけない、と。何にもわからないんだいうこと、何よりも、それを知ること。子供たちに向かって何でも知っているよと言う母たちでさえ、知らないんだ、と。
<マルグリット・デュラス『北の愛人』1991>