Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

抵抗感;噛みしめるのに力がいるもの

2009-04-18 10:48:26 | 日記
噛むのに抵抗感があるものを、噛みちぎることが必要ではないか。

いま、朝昼兼用食を食べながら、そう思った。
これは“即物的”事態であるとともに、“比喩”でもある。

食べたのは、ときどき新宿のデパ地下で買ってくる、ソーセージとチーズをはさんだ“デジュネ”というパンである。

このパンを食いちぎるにはかなり顎の力がいるのである。
ぼくは“欧州旅行”をいろいろしたわけではないが、北イタリアのカフェで食べたパンは、そのチーズや生ハムやトマトのボリュームのみでなく、充分な抵抗感をもったパンであった。

なぜ日本製のポピュラーなパンは、あれほどふにゃふにゃなのであろうか。
最初からああゆうパンを食べた子供は、“パンとはフニャフニャなものである”と勘ちがいしてしまうではないか!

歯のためにも顎のためにも悪いし、よく知らないが、人間の咀嚼能力は“健康”に関係あるはずである。

ひょっとすると“知能”にも関係があるかもしれぬ。
ふにゃふにゃパンを食べているひとはフニャフニャなものしか理解できない、というように(笑)


いうまでもないが、男性にかぎるが、ふにゃふにゃな“モノ”しか持っていないのは、なさけないのである。<注>


ha,ha,ha,はっ。




<注>

どうも“テレビ村”や新聞社にいる“男性”には、このような傾向が見られるのである。
“内田樹の研究室”を見ていると大学先生族もあぶない、“桃尻娘”に圧倒されているのだろうか(笑)




<追記>

昨日。
仕事の帰りに“本屋”に寄った(“パン屋”にも行ったわけだが;笑)

新刊の河出世界文学全集=『フライデーあるいは太平洋の冥界』と『黄金探索者』のカップリングは一昨日、御茶ノ水の明大地下で買った(だから引用した)

昨日は以下の4冊の文庫新刊をセレクトした;

★ ヴィクトワール山のふもとの、世界で最もおいしいパンになると言われている小麦の植えられた平野のなかに、松とオリーヴの木の立ち並ぶ丘陵に囲まれて、昔の栄華のなごりといっては、憂鬱で尊大な構えだけをとどめるあの死都エックスに、ポール・セザンヌは生まれた。プロヴァンスの冬の日の照る寒さは、その中ですでにアーモンドの枝に花芽が萌えつつあるという感触をふくんでいる。光の薄い冬のある月、正確には1839年の1月19日のことだ。この地の旧家の子弟であった彼もまた、自らの芸術の冬期において、春の先ぶれの身震いを世にもたらすことになったのである。
<ガスケ『セザンヌ』岩波文庫>

★ 僕は厳しい寒さのなか、二千里も遠く、二十年も離れていた故郷へと帰ってゆく。
季節はもう真冬で、故郷へと近づくにつれ、空もどんよりと曇り、寒風が船内に吹き込み、ヒューヒューと音を立てるので、苫(とま)の隙間から外を見ると、どんよりとした空の下、遠近(おちこち)にわびしい集落が幾つか広がっており、まったく生気がない。僕は心の内の悲しみに耐えねばならなかった。
<魯迅「故郷」-『故郷/阿Q正伝』光文社古典新訳文庫>

★ 永井荷風の小説はどこから始まったか。永井荷風の小説家としての生涯はいつ始まったか。そういう言いかたが奇を衒うように聞えるなら、こう言いかえてもよいかもしれない。小説はこう書けばよいのではないかという見通しが、永井荷風の意識のなかにいつからはっきり現れ始めたか。小説家としての生涯のどこで、書くべき小説のかたちが見え始めたか。
<菅野昭正『永井荷風巡歴』岩波現代文庫>

★ 真理が女であると考えてみては―、どうだろう?
<ニーチェ『善悪の彼岸』;中山元訳-光文社古典新訳文庫>


タイムマシーンにお願い

2009-04-18 08:02:05 | 日記
今日起きて下のブログを書いて、皿を洗い、洗濯機を回して紅茶を飲み、天声人語を見たら(笑)、“タイムマシーン”の話だった;

▼ 悔いも憂いも加齢とともに増すけれど、お構いなく歳月は飛んでいく。365日が短くなるのは、何をするにも「時の残量」がよぎるせいか。夢のない話で恐縮だが、タイムマシンに乗るなら、行き先はともかく足腰が立つうちにと願う▼冒頭の詩「時計」は93年、小紙群馬版に載った。作者は「あした」へと歩き続け、20代も半ばのはずだ。この詩に宿る、夢は夢として今をしっかり生きる心根は、充実した人生の支えになろう。正子さん、まだお持ちだろうか。(引用)


まったく天声人語氏という“老人”は、夢のないひとだなぁーと思う。

こういう老人に限って“若者”に夢を託すのである。
それは“おせっかい”であって、若者自身のことを考えているのではないのである。

なによりもこの天声人語氏は、“本”を読んだことがないのであろうか。
“映画”を見たことがないのだろうか。
“音楽”を聴いたことがないのだろうか。
“タイムマシーン”は、ここにある。

ぼくは今朝のブログに、“読むべき証言=言葉があるのではないだろうか”と書いたばかりである。
“過去の証言”があり、“現在の証言”があるのである。
過去も未来も、この現在にしかない。

またこのタイムマシーンは、“時間”を越えるのみではない。
“空間”も越える。

なによりも、私でないひとのこころに触れる。
未知に触れる。
それはフィードバックして、最大の未知、少なくとも私の最大の関心である“わたし”に触れる。

もしその言葉が、自然や風物の描写であっても、そこにはこの世界の中の私があるのである。

次ぎのような言葉を読むべきである;


★ ある存在が他の存在によって認識されることは、認識されるものの自己認識、認識するものの自己認識、および、認識するものがその認識対象である存在によって認識されることと、同時に起こる(ベンヤミン)

★ いまだ批評ではない、しかしすでにその萌芽を孕んでいる、なんらかのイメージ、すなわち心像、あるいは思考像 ― ひとつの面影、ひとつの名、ひとつの瞬間、ある表情、ある匂い、ある手触り、歩行中のちょっとした閃き、記憶に蘇ってきた風景の、また忘却を免れた夢の破片、ある作品のほんの一行、映画の一シーン、成就されることのなかった希望、など。いずれも、現実と幻想のあいだに、記憶と妄想の、経験と夢のはざまに、現在と過去との閾に漂っている、想いの断片である。そこにはなにかしら捨ておきがたい引っ掛かりが感じられ、するとそのときすでに、思考は運動を始めている(略)主観的な表象の層に抱きとめられた対象ないし客体の、いわば影。そして影は、短ければ短いほど濃い影となる。

<『ベンヤミン・コレクション3-記憶への旅』(ちくま学芸文庫1997)浅井健二郎‘解説’より引用>


★ オートバイ事故で死にかけている男の心内語(途中から天使が加わる);
お前たち、人をそんなに馬鹿づらして見るなって!
俺も人が死ぬとこ見たことなかったよな?
なんだ、こんな簡単なことなのか。水溜りに漬かって、タンカーみたいなガソリンの匂いを撒き散らしている。
桜草の花じゃあるまいし、こんなところでくたばってたまるか!こんなにはっきり見えるのか。
みんな、つっ立ってやがる。なにをじろじろ見てるんだ。
油の膜・・・・・・

山に登り、霧の谷から光の尾根に出たとき・・・・・・
牧草地のはずれの焚き火・・・・・・
灰の中のジャガイモ・・・・・・
はるかな湖畔の艇庫・・・・・・
南十字星
極東の地
北極圏
ワイルド・ウェスト
大ベーレン湖!
トリスタン・ダ・クーニャ島
ミシシッピーの三角州
ストロンボリ
シャルロッテンブルクの古い家並み
アルベール・カミュ
曙光
子供の目
滝壷での水泳・・・・・・
降りはじめの雨の滴が描きだす模様
太陽
パンと葡萄酒
けんけん跳び
復活祭
透けて見える葉脈
風にそよぐ草
いろんな石のいろんな色
川底の小石
戸外の白いテーブルクロス
家の中の・・・・・・
家の夢
隣の部屋で寝ているもっとも近しい人
のどかな日曜日
地平線・・・・・・
部屋の明かりが・・・・・・
こぼれる庭
夜間飛行
自転車の手離し乗り
美しい未知の女
父さん
母さん
女房
子供

<ヴィム・ヴェダース“ベルリン天使の詩”>



*写真はトリュフォー「ピアニストを撃て」のアズナブール



閃光と精神力

2009-04-18 06:32:07 | 日記
ここに最近読んだ本からふたつの引用を並べるが、そのぼくの意図をただしく了解してほしい。

ぼくたちは、なにごとにも“馴れてしまう”のだろうか。
あるいは、ぼくたちは“記憶喪失症”であるだけなのだろうか。

もちろんこの本=内田隆三『国土論』(筑摩書房2002)を買って(高い本だが)読んでいただけれるのが、いちばんよい。


★ 多くの人たちは、『主よ我は信ず、我が疑いを除きたまえ』という気持でありました。われわれは、未知の世界に突入しようとしていたのであり、そこから何が出てくるかは分からなかったのであります。キリスト教徒、ユダヤ教徒、そして無神論者などこの場に居合わせた人々の多くが、それぞれこれまで経験しなかったほど強く、祈り続けたのであります。・・・・・・
(爆発の)効果は、前例のないものであり、壮大なまでに美しく、また驚異的なまでに恐ろしいものであったと呼ぶことができましょう。・・・・・・閃光効果は筆舌に尽くせないものでありました。この地域全体が、真昼の太陽の何倍もの強さを持った焼きこがすような強い光で照らされました。・・・・・・爆発の30秒後に、まず爆風が生じて人や物を強く押していき、次いでその直後に、強くそして持続したごう音が、あたかもこの世の終わりを警告するかのように、そして、微弱な人間が全能の神のためだけにとっておかれた力をもてあそんだことが、神に対する冒とくであると感じさせるかのように、響き渡ったのであります。
  
  <トーマス・F・ファーレル准将“アラモゴルドにおける原爆実験報告”(1945年7月18日)-『破滅への道程―原爆と第2次世界大戦』



★ 如何にして戦いに勝つか
精神力を以って物量を圧倒すと云う
無形の精神力で例えば敵の戦車を破壊し得るか
人の力を以って一発必中の効果あらしむ
今の戦況は押しまくられているではないか 今後如何なる精神力が蔵されているか
精神力を物のごとく扱う考え方では納得出来ぬ
然らば信念か 信念で現実の力に対抗出来るものならば 兵器はいらぬ筈であろう
精神力とは気なり 気は人の力ならず 人の力ではどうにもならぬ
ならぬがそれで勝たんとするなり

<『高松宮日記』;原文送り仮名はカタカナ>




現在。

ぼくたちは、眼前のイチローに浮かれていればよいのだろうか。

読むべき”証言=言葉”があるのではないだろうか。