音楽のような小説というものがある。
音楽のような小説は、あるだろうか?
しかし音楽にもいろいろある。
ワーグナーとあなたがカラオケで歌う音楽は、とてもちがっている。
“とてもちがっている”なら、それは、どうちがっているのだろうか。
ワーグナーとバッハもとてもちがっている。
かくいうぼくは、バッハを何千時間?も聴いたが、ワーグナーをちゃんと聴いたことがない。
この“選択”は、正しかっただろうか?
あるいは、“映画音楽”というものが、ある。
ぼくにとって映画への愛好(愛)は、「太陽がいっぱい」の“テーマ音楽”から始まったのかもしれない。
あるいはもっと有名でない映画「金色の目の女」のイエペスのギターのドーナツ盤であったか(それを愛好したのは、ぼくより母だったかもしれない)
もっと“野蛮な音楽”が狭いアパートの部屋を占拠したとき、母はディランをどう聴いていたのか。
60年以上も生きていれば、おびただしい旋律がぼくの脳のなかにある。
ぼくは歩きながら歌う。
歌うというより、リズムをきざむ、その日のリズムに合わせて。
ぼくを駆動するリズムがある。
というより、ぼくは踊れないから、踊ろうとする。
ぼくは“すぐ踊れる人”を羨望しつつ、侮蔑するのだ。
すぐ踊れる人にとっては、リズムは“生得の”ものであろう。
だがぼくは、ぼくのリズムを発見しなければならかった(ならない)
全然リズムを感じさせない音楽もある。
ぼくが近年偏愛するトリュフォー「柔らかい肌」のテーマのようなボーっとした音楽である。
たぶんそれは、その映画の“テーマ”とコントラストを(差異を)なしているのだ。
不倫した夫は、妻に撃ち殺される。
その“テーマ”は凡庸である、ありふれている。
しかし、音楽は、そのありふれていることの悲劇をあたたかくつつみ込む。
まるで、“悲劇”こそ日曜の朝の平穏であるかのように。
『モデラート・カンタービレ』というあまり長くない小説がある。
ぼくが持っている版は、河出書房・海外小説選9(1977)である。
白い表紙に加納光於の画がある。
ぼくはこれをずいぶん前に読み、その映画も見た。
その当時、ぼくはこの小説を“ずいぶん冷たい小説だな”と感じた。
たしかにいまでも、この小説は“冷たい”。
こういう“冷たさ”はル・クレジオの小説にも感じられる。
たぶんそれは、中上健次の対極である。
だが、いま、ぼくはその両者が、“同時に”愛しい。
まさに“同時”である。
あるいは、この世界は(すくなくともぼくの世界は)この両者の“関係”においてしか成り立たない。
非常に突飛なことだが、これに(さらに)ジョン・ル・カレ的な“リアル・ポリティックス”(エンターテイメント的な)を、衝突させることもできる。
ここでは詳説しないが、この“リアル・ポリティックス”というのは、“職業上の駆け引きの世界”ということのリアルである。
この現代世界では“外交官(スパイ)”というのは、もっともきびしい“駆け引きのプロ”として訓練された人々である。
けれども一般に、“ある職業のプロである”ということはどんな職業でも、“駆け引きのプロである”ということである。
彼らにないのは、“大義(倫理)”である。
ぼくの所有する『モデラート・カンタービレ』の巻末には、原著発表当時の書評がいくつか収録されている;
★ 他人の運命が、どれほどの重みをもって目撃者たちの上にのしかかってゆくのであろうか?ひたすら自分の子供に愛情をそそいでいる若くて裕福なアンヌ・デパレードが、なぜ、見知らぬ女性の突然の叫び声と、彼女の血まみれの死体の眺めに、これほど強烈に心を動かされたのか?なぜ彼女は、その見知らぬ女性の体が夕日を浴びて崩れ伏していった港のカフェに再び戻ってゆくのか?……
★ この本は、かろうじて150頁を数えるばかりである。そのうちで、明快でないような頁はたったの1頁もなく、三面記事に掲載してもおかしくないような文章が現れない頁も一つもない。物語のうちに晦渋なところは一つもない。これ以上厳格でこれ以上綿密な方法を想像することは不可能である。しかし、この単純な明快さ、この堅牢裸形の簡潔さには、電光が充填されていて、読者を、底なしの井戸、出口なき無限の迷路に放り込み、それがまぎれもなく、プラトンの洞窟となっているのだ。
★ この短い物語は、大河小説に匹敵する延長を有しているが、その題名は紛らわしい。普通の速さで歌うようにという意味ではあろうが、『モデラート・カンタービレ』は、音楽やメロディーより、回転燈台の光のように、音もない、鋭い、唐突な光でできている。そして、燈台の強烈な光が、目のうちに燈火の跡を残すように、マルグリット・デュラスは、読者の心に、燐光の鈍い尾を残し、それが燃えるのである。
<N.N.R.F.誌1958;ドミニック・オーリー>
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