ぼくはこのブログをなにかを主張するために書いているのではない。
もっと厳密にいえば、主張すべき結論(信念)が、あらかじめあるから、書いているのではない。
しかし、長い間ブログを書いてきてわかるのは、書くということは、なにかを主張してしまうことなのだということである。
あるいは、書いているうちに(自分でも思いもよらぬ)主張へと至る思考過程のようなものが生じてくる(生じてしまう)のである。
しかもぼくのような“年寄り”がなにかを書いていると、“このひとはそれまでの人生のキャリアに基づき、なにかの<主張>を形成しているのだろう”などと思われてしまうこともある(笑)
たしかに、そういうことが皆無ではないのだが、それは明確に言語化できるようなものではなく、むしろある種の癖のようなものではないだろうか。
ぼくの場合は、それは自分の“好み”であるというのが、一番正直な言い方ではないかと思う。
もちろんそういう“好み”の偏向に対する、“自己批判”の意識があるにしてもである。
たとえばぼくが、“ミサイルが降ってくるという危機よりも、言葉の危機の方が本質的な危機である”と書いたら、それはあることを主張したことになる。
ぼくはそれを“確信”しているのだから。
だから、ぼくはぼくがそう思う、論理的-感性的-倫理的“根拠”を、いままでも・これからも“書く”だろう。
しかし、それが“客観的に(絶対的に)正しいか否か”については(厳密にいえば)ぼくには確信がない。
というか、ぼくはいつでも“矛盾”している。
ぼくは“両義的(あいまい)”であり、“多義的”である。
サイードや“現代の思想家”の言う“複数の私”である。<注>
ぼくのこの確信が、“言葉の海”のなかに投じられ、それがこの海のうねりの、微小な一要素となりうれば、よいとする。
ミサイルの危機に対して、憲法を改正し、“集団的自衛権”を強化・恒久化するというような立場は、まったくの虚偽=不正である。
それは、愚かさであり、非理性であり、人道的退廃(モラルの根拠を壊滅させる)ことである。
ミサイルの危機が問題なのではまったくない、言葉が死ぬことだけが問題である。
<注>
わたしは自分のことを、首尾一貫したまとまりのある単一の人間とは思ってはいません。わたしは多くの異なるものです。そうした異なる部分のあいだでバランスをとろうともしていません。自分のことを、こうした差異を縫い合わせてひとつにまとめようとする人間だとはみていません。わたしは差異のなかで生きようとしています。
<エドワード・W・サイード;2003年2月インタビューでの発言-『文化と抵抗』所収>
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